忙しい。僕も一年位前まではこの言葉を使っていた。別に忙しいということが世界に誇れることかどうかと言われると馬鹿馬鹿しいほどにそんなことはないと僕は思うけれど、一年前、肉体的・精神的に僕は本当に忙しかった(と、いまやっと考えられる)。

 僕はいつからかは定かではないが、この「忙しい」という言葉を使うことをやめた。折に触れては「忙しいから」といって断わっていた勧誘や要望には「考えておきます」と、これまた曖昧な返事を返すようになった。これはもう、僕の口癖になっている(嫌なやつである)。そのように応えるようになった背景には、ひとつに「自分で自分の限界を示すような発言に嫌気がさした」ということと、もうひとつは「忙しいと思うのは、自分の能力が低下したからである」という考え方に共感を抱いたからである。

 しかし、「忙しい」という言葉は一般社会に根付いた、きわめて許容範囲の広い単語である。自己完結的にその言葉の意味や使用を規定しても、その規定に空虚さが伴うことは否めない。ただ、忙しさというものをそれなりに体系的に分類することができるのなら、個々人の多忙の感覚をその分類のどこかに落ち着けて把握することにより、対人的な苛立ちを多少は軽減できるかもしれない。だから、僕はここで「忙しさの分類」に取り組んでみたいと思う。できることなら、この分類によって、世界から「忙しい」という言葉の無差別な使用を減少させたいものである。

 まず、「多忙」という状況には二つの状態がある。

 【能動的多忙】
 【受動的多忙】

 前者は多忙状態にある存在(以下、多忙者)が望んでその状態にいる場合。言い換えるなら、多忙者自身がその前段階において多忙になることが予期でき、かつ、それを望んでいた場合。または、多忙になることを受け入れることが前提にある状態に向かって、それを望んでいないにしても、本人の意思によってそこに進んだという場合。これは「大学に進学する」「免許を取得する」といった場合にあたる。

 後者は多忙者の能動的な、あるいは半能動的(自分の意志+環境的な要因から行為が半ば義務化しているという意味)な意志や行為とは関わりなく、環境的、偶発的要因によって多忙にならざるを得ないという状況に陥った場合。これは「親族が病気で倒れた」「車にはねられた」といった場合にあたる。

 しかし、これらは「忙しい」という言葉によって示唆されている評価の一側面にすぎない。つまり、ここでの分類は、拘束時間の有無とその拘束がどのように生じたかという二点からみた分類である。この段階においては多忙者本人の「意思」あるいは「覚悟」というべきものが個々人の「多忙」の感覚に大きな影響を及ぼすと考えられる。

 ところが、上記の区分を捨てたとしても導入する必要のある、「忙しさ」にとって本質的に重要な別観点の分類がある。そして、これこそが「忙しい」という言葉を対外的に用いた場合に相手に白々しい感想を抱かせる原因になっていると思われる要素である。

 【主観的多忙】
 【客観的多忙】


 前者は主観的に多忙である場合。このとき、人はただ一言「忙しい」と呟くことで、その人は名実ともに即座に「多忙者」になることができる。この場合において「忙しさは能力の低下」という言葉が説得力を持つ。しかし、この段階は本人の認識が真実であるような状態なので本人以外の何者もそれを否定することはできない。よって、時と場合によりこの状態は【空虚な多忙】ともいえる。

 後者は客観的に多忙である場合。このとき、任意の或る人は、周囲の人たちに「多忙」と評価されている。この場合において、不思議なことに【一般的な多忙の尺度】という概念が忽然と姿を現す。これまでは個人によって「多忙」の尺度が変化していたのにもかかわらず、なぜかこのときばかりは「一定の基準」で人々はその「忙さ」を推し量られることになるのだ。この状態においては「多忙」と推測される人自体が自分の状態を「多忙」と感じていない場合もままある。

 これは【主観的多忙】と【客観的多忙】のずれから生じる現象だろう。また、主観と客観という視点の区別を導入することにより「多忙」を表明する主体がどこにあるかという問題が発生する。この場合、本人が自分で「忙しい」と判断するときは【多忙者】、逆に周りの人間がある人を「忙しい」と判断するなら、その人を【被多忙者】という風に区別したい。

 このような明確な区分をした上で、このような分類ができると考えられる。

主観的多忙 客観的多忙
能動的多忙 身勝手な多忙・同情的多忙 無関心な多忙・意欲的多忙
受動的多忙 理不尽な多忙・悲劇的多忙 不条理な多忙・献身的多忙

 しかしながら、主観的であり、同時に客観的でもあるような「多忙」の状態も考えられる。このような場合、本人が「多忙」だと感じることが他人にも「多忙」と映るか、あるいは客観的に「多忙」と思われることを被多忙者本人も自覚しているかで微妙な違いがあるが、この区別は同一のものとみなして、総じて【主体的多忙】と呼びたい。

 これは【主観的多忙】と【客観的多忙】の境界に存在する、ないし、両方に属する「多忙」で、正確には分類自体をいささかファジィにする必要があるが、表における「多忙の分類」の明快な区分を優先して例外として表外に記す。そして、この【主体的多忙】という状態がおよそ「忙しい」という言葉を発する人にとって到達できうる「最良の状態」であろうと僕は思う。

 では、簡略、かつ、ザックバランに、その他の「多忙状態」についても説明する。

 【身勝手な多忙】(主観+能動)

 自分から望んだ状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。この場合、多忙者と他者との「多忙」は一線を画しているので多忙者に対しては無言で同情するしかなく、失望する場合が多い。しかし、まさしく多忙者にとって「多忙」は真実であるので反論はできない。この段階にある人は自身の向上により状況の解決を図ろうとするよりも、むしろ、同程度の能力の人を集めることによって、自身の存在の正当性を主張しようとする。集団というのは得てして、この状態に陥りやすい。耳が痛いので、耳栓の購入をお薦めする。

 【無関心な多忙】(客観+能動)

 自分から望んだ状況に対して、周りの人間が「多忙」であると感じるほど被多忙者が目的に対して意欲的である場合。この場合、被多忙者本人は「忙しい」を口にしない。または「忙しい」と思っていなく、「忙しい」という概念にたいして無関心である。このような人物はある意味で超人的であり、普通体がこのような状態であるような人と出逢った場合、自分とは格が違うと判断するのが正当かもしれない。格が違うというのは区分の問題であって、どちらが偉いという問題ではない。しかし、社会的に「成功者」と呼ばれるのは相手の場合が多いだろう。

 【理不尽な多忙】(主観+受動)

 自分の望まざる状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。自分の能力の如何にかかわらず「多忙」が降りかかるので悲劇というしかない。この場合は理不尽さに「多忙」の源泉を求めるべきである。しかし、同時に理不尽さにたいして怨念・呪詛をぶつけたところで空虚であるため、人生の理不尽さから多忙者は愚痴を吐き出す場所が必要になる。従って多忙者同様に周囲の人も被害を受けることになる。この領域においてさまざまなカルトが金を稼いでいると思われる。

 【不条理な多忙】(客観+受動)

 自分の望まざる状況に対して「多忙」にならざるを得なく、客観的に「多忙」と判断されうる場合。この場合、被多忙者自身は「忙しい」を感じていないわけではなく、言葉にしない限りにおいて理解はしているのだが、この「多忙」状態を受け入れて献身的に事態に臨んでいる。この状態は、望まざる「多忙」が客観的に判断されるほどに積み重なっているという悪夢のような状態だが、それがゆえに、この状態にある被多忙者は天使のように人々には映るだろう。また、この状況は主観的な要素が殺されているという非人間的な状況であり、ある種の信仰が関与している場合が多いと思われる。