2005.01
「爪の価値・月の価値」 .03↑14:57
 いきなりですが教育の話をしようと思う(違うことを書いていたら話題が派生してやたら長い文章になったのでひとまず教育の話を転載する)。僕のなかでは「個人を尊重する教育」と「個性を育成する教育」って矛盾しています。あるいは矛盾までいかずとも不整合な部分があると思う。または「前提として抱いているものが決定的に違う」と思う。というわけで、この両方の言明を主張する人はちょっと信用できない。

 ちょっと「まるっきりなにもかもが似ているふたりの人」を想像してみると良い。論理的には「構成要素も時間的・空間的な位置もまるっきり同じ」場合には「同一である」ということで「ふたりの人」を想定した時点で「実はひとりの人」に言及していることになるのだけれど、そこまで精密にならずにきわめて似ている双子みたいなものを想像してみて下さい。あるいはそれこそ複製人間のようなものでも良い。

 その人たちは遺伝子や性別はもとより、髪型・服装・趣味、好みに至るまで、人間の観察能力・認識能力の限界を尽しても判別が困難なほど似ていて、ふたり並ぶと気持ちが悪いほど似ている。唯一の救いはそこにふたつの生命があるということ。そういうときにどれだけ似ていても、それぞれを尊重するのが「個人を尊重する教育」です。

 日本国憲法第13条・24条で「個人の価値の平等」「個人の尊重」が保障されていたりもするわけで、当然こちらが本筋ということになる。では「個性を育成する教育」とはなにか。この問いの時点ですでに混沌としていることに普通の人は気付きます。でも、ある人は、「個性」という言葉にどういう啓示を受けたのが不明ですが、こう思う。その双子には個性がない。

 いや、ひとまず、「双子である」という個性があるだろう。それも、「きわめて似ている双子である」という強烈な個性だ。しかし、「双子である」という個性を持つ人は大勢いる。この双子はそれでもいいかもしれないが、一般的に考えて、「双子である」というだけでは十分な個性にはならないだろう。双子はまだふたりだからいい、これが10人なら、100人なら、10000人ならどうする。個性のない大衆だ。

 なにか個性が必要だ。歌がうまければどうだろう。足が速いのはどうだ。いや、その程度なら大勢いる。手品ができればどうだろう。なにか芸があるというのはいい(ちなみにこういうことをいう奴に限って「手品師になりたいです」とか言うと「それは現実的じゃないね」とか言う)、人とは違うことができるといい、それがその人の個性になる。そういう教育をしなきゃいけない。とかだろうか?

 頭おかしいんじゃないかとわりと本気で心配になります。まず先に言いたいですが「その人がその人である」ということ、これが最大の個性です。これ以上に個を分かつことはできないだろうし、分けてもいけないでしょう。何気に「個性の階層付け」まで始まっていたりして辟易するのですが、まず在るがままを受容れることができない人が教育がどうだのこうだのと何様のつもりか理想を喋るのを見るに付け、ファンタジィだなあって感心します。

 その人がその人であるというのはつまり、個人であるということなのですが、これの尊重は理念としてもともとあるので、教育の領域でも「個人の概念」は常識としてあるはずです。そこにどうして「個性」というわけのわからない概念をさらに導入したのかがわかりません(だから、正確にいうと概念ではない)。

 議論領域を人間で縛ると、個の性質というのはやはり同一性か、逃れがたい前提(両親等)ないしその人の名前とその人自身の一致といったものしか思い浮かびません(しかし、これは同姓同名ということがある)。それとも、個人の性質ということなのでしょうか。その人の特技とか、その人独自のなにかという感じでしょうか。

 だとすると「個々性」というほうが適切な用語だったと思います。そして、だとしたら、よりそのような教育はだめだということがはっきりします。公教育は全員にたいして平等に同じことを教育水準の底上げのために行わなければならないでしょう。基本的に個々人の趣向に立ち入ってはならないと思います。それは思想教育に片足を突っ込む危険性がある。そういう点から思うと、個人の理解力にあった仕方で個別ないし教室分けをして授業をするのはまだ良いとしても、さらに踏み込んだ個別学習は僕はどうかと思います。

 ひとまず、公立の学校であからさまな態度でやるのは「違う」気がします。ところで学校の仕事ってなにでしょう。教育ではありません。これは便宜的な表現です。それは受け手の認識だし、そもそも家庭でなされることです。せいぜい学習の場の提供といったところでしょうか。サーヴィス業ですからね。というわけでして、個性の育成(という発想)は暗に個人を否定している思います。むしろ、人間が「生きている」ということに無頓着な人の発想です。

 「手首を切る」「自殺した」「人を殺した」というのはその人の個性になりますか? なるでしょう、ならなければおかしい。でも、個性ってことで目指していたのはそういうことじゃないでしょう。これは最近の「生きる力」というわけのわからない言葉にも齟齬をきたすだろうし、そもそも教育ということで目指される社会の安定すら危機に晒しかねない。個性の追求は危険です。

 大切なのは「受容」ではないかと思います。しかし、あらゆることを受容すりゃいいってものではない。右の頬を叩かれたときに黙って左の頬をだすような博愛主義者は(言っちゃ悪いですが)馬鹿です。なにも理解していない。その行為を受容れて、その行為者をまるで受容れていません。もし本当に相手を思う人であれば、右の頬を叩かれた時点で「理由を尋ねる」でしょう。不適切な理由であれば怒る必要だってある。そのときだって、まず相手を「受容」しているからこそ、相手を「叱る」ことができるでしょう。

 人間というのは言葉で思考や感情を表現できる生き物です。黙ってされるがままに左頬を差しだすような人間は相手を馬鹿にしています。相手だって無闇に叩きたいわけではないでしょう、叩いてしまった理由があるのです。それは理解できないかもしれない、もしかすると理解した上で理不尽さを感じるかもしれない。それでも理解しようとしなければ、なにも始まりません。
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