2005.01
「開かれたネット的誤謬」 .05↑15:41
 ここから直接リンクを張ると角が立つので「略式」から飛んでほしいと思うのですが、ソーシャル・ネット・ワーキングに関する文章を少し取り上げました。基本的に共感できる部分も多いのですが、そういった意見が表にでるでないは別にして、ここ数年でそういう意見が量産される方向に現状は移り変わるだろうと思います。

 ウェブをなにかしらの形で利用する人たちのなかに、こういった意識は潜在的に抱かれざるを得ないだろうとも思います。特にいままで連綿とウェブを使ってきた人たちにとっては大変な意識の変革を迫られることになるのかもしれないなと。まあ、本当にウェブに価値を見いだしていた人や、ウェブを社会に根ざすようなある種の思想的な視点をもっていた人は予測していたことではないかとは思うのですが。

 それはウェブがより現実とリンクしだしたということで一面的に悲観することでもないと思うのですが、しかし、その一面に留まる人にとってはウェブの将来は悲観的でしょう。そして、自分のウェブ感をときおり刷新しないと、いつなんどきこの手の狭量な視点に陥らないとも限らないわけです。ウェブはすごいいきおいで拡大していますから、なにもせずとも、むしろなにもしないからこそ相対的に罠に落ち込むということはあるでしょう。

 これは以前「Orbium」のとしさんとも話していたことなのですけど(僕が会話の文脈・意図を把握しそこねていなければね)、もうそろそろウェブの話をするときに、その領域に「ウェブ全体」を取るような議論というのは成立しないのではないかと思います。

 それは現実の社会を相手取るときに「社会っていうのはさ」と始めるのと同じようなもので、議論として冗長にならざるを得ないというか、漫然としたものにしかなり得ないという気がします。あるいは「個人的な社会観」がしばしば「普遍的な社会観」として提示されてしまうという失策を取りかねないと思います。

 いままでであれば、「ウェブ」ないし「ネット」ということで把握される前提というようなものは利用者によって暗黙に了解されていて、むしろそれを了解している人がウェブに参加できて、言及できて、推進してこれたと思います。そこには技術的・知識的な要素も大いにあったでしょう。そして翻っては、それらがウェブ独自の価値観を構成してきたものだったでしょう。つまり、二人三脚だったのです。

 でも、いまはもう違うのではないでしょうか。ウェブはより公共的なものになってきている。ウェブは独り歩きしだしている。ネットワークがどういう仕組みで成立しているかなど気にすることなしに利用することができ、そして、そこには驚異的な利便性があって影響力も計り知れない。

 甘い水のあるところに蛍は集まります。いや別に動物の糞があるところに蝿が集まるといってもいいのですが、なににせよ、なぜそこに甘い水があるかというようなことや、それはずっと甘い水のままだろうかといった疑問を抱かないそういう圧倒的多数がウェブを跳梁跋扈することになるわけです。

 そこではウェブを支える根本的な価値観を瓦解させない限りにおいて多様な価値観が持ち込まれることになるだろうし、それに伴ってコミュニティだって細分化しないわけがない。実際、地球上には沢山の国があって地上を分け合っているわけですね。ときには戦争もあるし、人が多すぎて荒廃する国もあれば、少ないが豊かな国もある。

 理想や理念としてはわからないこともないですが、それらを統一的な視点で括るのは無理でしょう。仮にそれらをひとつの国だとして考えてもいいですが、それは様々な場所で起きている「戦争」を「内乱」という言葉で置き換えるようなもので、本質的に意味がないばかりか、ひとつひとつの境界が明瞭でないため理解が困難になるだけです。

 ウェブはオープンであるとときおり言われます。たしかにこれはウェブの理念を表現したわかりやすい上に魅力的な表題ですが、いまやこれでは少し言葉足らずではないかと僕は思います。ウェブはたしかにオープンであるかもしれないですが、むしろ、もはやウェブはパブリックなものになりだしているでしょう。そういう点で、ウェブというのは以前ほどフリィではないです。

 これまでは基本的に価値観を共有した人たちが集まる建物のなかにウェブはありました。そこでは通りかかる人の全員がいってみれば意識的に友達であったり、同僚であるようなものだったかもしれません。しかし、いまはもうその建物のみならず、その建物を含む街のようなものにウェブはなりだしているのではないでしょうか。そこでは道で出合う人が皆、価値観を共有しているなどという気持ちの悪いことはあり得ません。

 ネットは開かれています。公共の施設を利用したり街を歩いていても、誰に咎められることもないように。しかしだからといって、人々の気持ちまで開かれていると思うのは明らかに誤謬です。了承を得なければ入れない場所は当然でるだろうし、雰囲気を察知することのできない人が、いわゆる空気の読めない人が、そこにいる人々に無闇に嫌悪感を抱いてしまうような場所もあるでしょう。でも、それは仕方のないことです。

 たぶん、まだまだウェブは開かれていきます、より拡張されていきます、そして、相対的にクローズドな領域を技術的にも、概念的にも、意識の上でも生みだすことになるのでしょう。つまり、より現実に近付いているということです。まだ区別はできますが。
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