2005.01
「表札と名前と生命」 .06↑22:56
 「鴎庵」さんに昨日の「開かれたネット的誤謬」を取り上げて頂いて感想までいただきました(1/6下のほう)。どもですどもです。「TricksteR」さんで紹介されて以来頻繁に覗きに行っていて、後付けになってしまいましたが「小生にうず」のほうでも紹介させてもらいました(紹介するつもりで忘れていたのです、まぢまぢ。ネタの羅列あり、感想あり、日記あり、画像あり、AAありのいい感じにハイブリッドされたサイトなのだ)。

 というわけで、取り上げてもらって嬉しかったということもあり少しだけ反応をさせてもらいたいなと。でも、それほど粘着的に反応するわけではないので面倒そうであればさらっと読み流してもらいたいと思います。

 お互いに書かれたことの差異は言葉尻の問題であって本質的に抱いているものに大差はないと感じたので。なにか喋りだすきっかけをもらったというほうが正確で、反論といった反論をしたいというわけではないです。だから、ぶっちゃけ迷惑だと思います。読者はそこに注意して読むこと。今回は「定住化と名前」です。

 というわけで「定住化」の流れというのはあったと思うし、いまでもあると思っています。これは「名無し」であることの安息がウェブの専売特許であったにもかかわらず、昔から今でもずっとあるというのが面白いと感じています。

 それはたぶん、自分の業績から生まれた利潤に見合う報酬を企業から得られずに逆に権利を搾取される科学者や、自分の作った音楽の著作権を企業に搾取されて本来的に妥当な主張もできずに報酬も得られないゲーム音楽の作曲家と同じようなもので、それまでにはなかった価値のある独創的な発想や、ある程度のクオリティを持ったものには自分の名を刻印したい、ないし、それによってなにかしらの権利を主張したいという願望が人間にあるからだろうと思います。

 この問題は、ウェブで遊ぶ者のフィールドで思考すると、「ふたばちゃんねる」という空間がしばしば非常にクオリティの高い作品が投下されるのにもかかわらず、どうしてあそこまで硬派に成立っているのかという不思議と直結すると思います。厨雑誌として名高い「ねとらん」にネタを搾取されて憤ることはできても、権利を主張することはできないからです。

 これは実に不安定な状況で、内実の詳しいことは僕にはわからないですが、ちょうど去年の四月頃に「ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS」さんを起点に勃発した「とらぶる・うぃんどうず祭」がこれの象徴的なものだったと思います。この祭は「電脳遊星D」さんがばびっと疑義を呈したこともあって早々に終結しますが、ニュースサイトの運営という点でいろいろな問題を差しだし興味深いものになりました。(ちなみに僕はあれ以来「ふたば」系のネタは取り上げないようにしています、怖いから)。

 こういったことから僕がなにをいいたいかというと、別にそういう姿勢が悪いとかいうことではなしに、暴走してしまうひと握りの人を除けば、そこでは個別の定住を得ないで安息を得ている人たちが大勢いるだろうということです。つまり、「定住化する」ということと「名前を持つ」ということは切り離して思考したほうが良いだろうと思います。

 サイトを構築するということから名前を掲げるということは帰結しますが、その逆は必ずしも帰結するわけではないです。名前はあるがサイトはないということはしばしばあります。「あのサイトの何某」ではなしに「何某」であることが重要なのです。「あのサイトの」といったような「何某」の固有の発言の場があるかどうかということはそれほど重要なことではないと思います。では、ここで「何某」を標榜することで果たして発言に責任が発生するのだろうか。

 続いちゃう。
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