じゃあ、前回の続きを書こうと思います。でもその前に、早々に「鴎庵」(1/7下のほう)さんに反応いただいちまって嬉しいばかりなので、まずはそちらをご紹介させていただきたい。実は「この野郎!香陸!この野郎!」とか北野武の真似とかしながらすごまれたりしたらどうしようとちょっと心配していたので反応がいただけて安心しました。
で、ご指摘の件はまるっきりその通りだと思って、ある人の「名前」と「その名前が持つサイト」という組み合わせは実に重要で、サイトを持っていない人の「名前」というのは明らかに弱いです。なぜなら、僕も、ご指摘の通り「「何某」のみでも続けて使っていれば責任は発生しますが、どこどこの何某といったときは更に高度な責任が発言に求められる」からだと思います。
そのことは以前「小生にうず」で、「サイトの個性」という話題に関する文章で少し触れています。「信頼感」という逆位置からの視点なのは、これがその前に書かれた「ネタの流れ」や「サイトの親近感」という脈絡を受け継いでいるからで、要点は今回の話と同じです。これらを書いたころとはもう少し発想が違うのですけど、今回の内容にも引き継げるファクタがあって、それがなにかっていうと上記してある通り「責任」です。
まずこの「責任」の意味をはっきりさせる必要があると思いますが、僕は常識的に「義務に付随するもの」と把握しています。これは法律学の脈絡に沿います。基本的に「義務を果たさなかったときに受ける制裁」が責任です。しかし、「責任」という言葉が使われるときにはしばしば「規定されるような義務はないけれども、請け負うことが暗黙に了承される」ような「道義的責任」というのがあります。大体、ウェブの発言といったときに了解されているのはこちらでしょう。
さらに前提として「義務」を挙げるときには当然「権利」が付随していて、「権利なき義務」も「義務なき権利」も空虚であるということ、また、権利と義務のバランスシートが不安定でどちらかに偏りすぎている場合も不適正だということを挙げておきたいと思います。という風に考えたとき、ウェブの発言というのがどういう位置にあるのかというのを以下で多少はっきりさせてみたいと思います。
ひとまずはウェブの発言に縛る必要はないのですが、「道義的責任」を自らに科すことの効用はどこにあるでしょうか。これは世代間倫理の難しさに似ていますが、絶対的に果たさなければならない根拠というようなものはどこにもないわけです。実際ウェブには散々な暴言がまかり通りわけですが、それに関して「そういう言葉の使い方をしてはならない」と叱責する根拠などありません。義務なき要請ですし、それによってなにかしらの権利を主張できるわけでもないわけですから。
しかし、こういう風に示唆することはできる。「暴言は君の名前にとって損になるから止めなさい」という具合です。これは「道義」というあやふやなものに準拠した注意ですから、示唆に留まります。さらに名前を持たない存在にとっては通用しない注意です。では、なぜ損になるのか。そのことによってその名前の「信頼」が損なわれるからです。ここで「道義的責任」と「信頼」がつながります。
やや話題から逸れますが、僕が観察したかぎりでは、人はここでしばしば「義務」と「責任」を結び付けるようです。「君には人を不快にさせてはいけない義務がある、だから、その責任を果たしなさい」といった具合です。しかし、これは正論っぽい明らかな暴言であるし、言葉に混乱した発言だと思います。
ここまでを了承すると、逆に、そういったなにかしらの「信頼を得る」ために「道義的責任」を自らに科すというルートが完成します。そして、このルートこそが、僕が前回の文章で分離した「名前」と「定住地」を結ぶものだと思います。僕はこの分離の際に「名前」のほうに重きをおいたのですが、それはその名前の「中の人」を尊重したからです。やはり「科する同義的責任」とそれによって享受する「信頼」はその人にあると思うからです。
ただそれだと、実質的にはその「名前」に「信頼」が宿るということになります。これは名前がそこにない限り姿を見せないものと思っていいでしょう。そこである種の人は自分の得た信頼をどこかに固着するしようとする、それが「定住地の確保」であり、つまり、自分の「サイトの構築」だと思います。なので基本的に「サイト」というのは「名前」の拡張として把握できるのではないかと思います。
したがって、「「何某」のみでも続けて使っていれば責任は発生しますが、どこどこの何某といったときは更に高度な責任が発言に求められるのではないか」という疑問に関しては僕は少しずれていて、本質的に中の人が求められるような同義的責任というものは同じだと思います。ただ、ある一定の場所に「信頼」を固着させることによって、それに対するアクセスが発生します。
つまり、信頼感が高まると表現していいと思います。そしてこのとき上記の通り、「信頼の確保」から「道義的責任の遂行」というルートがありますから、「期待される」道義的責任が増大するということはあると思います。それによって、ウェブ上の立場が変わるというのは大いにあることなのではないかな。
ここで面白いのは「期待」も「信頼」も受け手の認識であって、書き手はそれに関して基本的に把握できないということですね。そういうわけで、したがって、ウェブの発言は自分の名前に対する読み手の信頼感を得るということに価値を見いだす限りにおいて、自分自身に道義的責任を求めるものであるかなと思います。そして、ウェブサイトというのはそれを増幅させるものだろうと把握しています。
ということで、僕は思考する上での「名前」と「定住地」の分離の必要性と、「同義的責任」から「信頼感の獲得」というルートの二枚重ねで、ウェブサイトの構築とそれを書いている人の名前とそれを書いている人(場合によっては複数)ということを把握するとすっきりとするのではないかなと思います。そして、これはリアルな人間の把握にも近いのじゃないかな。
まま、それはまた別の機会ということにして、もうちょっとだけ続いちゃう。 |
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