2005.01
「サイトの人格と中の人」 .09↑16:00
 長々と長い文章が続いていますが、大丈夫、これでお仕舞いです。というわけで、「鴎庵」さんから前回の「責任と信頼を走る名前」「web人格のIDについて」というエントリで反応をいただきました。やや往復書簡な雰囲気が漂っていて楽しいのですが、これを読んでいる閲覧者の方々はどう思っているのでしょう。少し気になるところです。

 僕としてはこの後、「議論は氷のように」で指摘していたような「議論のフィールドの形成」に関してひとまずのビジョンが自分なりに得られたのでそれを書きたいなと思っているのですが、もし、誤解されていたら少し口惜しいので「名前」と「定住地」の発想の上での分離の必要性に関してあと少しだけ触れておきたいと思います。

 で、正直なところ、「鴎庵」の「wavesll」さんの指摘でこれは悩みました。僕もオーソリティということに関しては「ここ」の映画評の件でも触れている通り、軽んじているわけではないのです。むしろ、僕もそこがとても重要だと思っていて、「子・孫ニュースサイトは大体が大手サイトの劣化した複製だ」という攻撃に対して、「どれだけネタがかぶっていても別々の人がやっているということ、違うサイトが違う人によって続けられているということには意味があって、それが面白い」という反論をしてきました。

 オーソリティを積み、ある種の人格(サイト)を形成するということ、そして翻ってはそのことこそがそのサイトの発言力になるということに関しては、僕も是です。だから実質的には「名前」と「定住地」の機能は重複するところが多分にあると思います。「夢峰」の「香陸」が言っていたというのと、「夢峰」で言っていたというのはこの場合でいうと同一です。「夢峰」というのは「香陸」という名前の拡張であると考えられます。なので、僕もそこは区別する必要はないのではないかと思ったのですが、やはり分ける必要があるだろうなと決着しました。

 というのも、この場合のオーソリティというのは「サイトのオーソリティ」ですね。そして、掲示板などで「名前」が発言するときの影響力は「名前のオーソリティ」です。ここにある違いは、「名前」が発言するときはよほどのことがない限り、その先には「ひとりの人」がいるのに対して、「サイト」の場合はひとりとは限らないということです。往々にして「サイトの人格」は「名前」から乖離します。これは名前の発言がダイナミックであるのに対して、サイトの発言がスタティックであることにも関係すると思います。

 「wavesll」さんも上記のエントリで「webでは1人で複数のIDをもてたりする」と言われているので気付いていることだと思いますが、逆に「複数の人でひとつのIDを形成する」ことも可能なわけです。名前とサイトが1対1対応していれば、「名前」と「定住地」を区別する必要は実質的にはないと思いますが、実際にはしばしばそれを逸脱することもあるので僕としてはやはり「名前」と「定住地」の区別が必要だろうというところで落ち着きました。

 このとき、「名前」がひとつの人格に到達するためのものであるのと同様に、「サイト」がひとつの人格に到達するためのものになることもあると思います。「サイト」が「名前」の拡張だとすると、「サイト」と「名前」は同じ「中の人」を指し示すわけですが、「サイト」が固有の「キャラクタ」を指し示し、エンドという場合があります。「VNI」サイトがこれに当たると思います。逆にいうと閲覧者の意識を「サイト」から「キャラクタ」を飛ばすことができなかった「VNI」サイトは軒並み潰れていきました。

 これらのことは「名前」の拡張が固有の「サイト」になるのと同じようにしては、「サイト」の縮小が固有の「名前」を指し示すわけではないという事情を表しています。そして、「サイトの影響力」を「サイトを運営する人の影響力」ということではなしに、「サイトの人格の影響力」であるという風に表現するのだとすると、「サイト」と表現されるものと「名前」と表現されるものはほぼ同じ機能を果たすものであるだろうと思います。

 そういう意味ではウェブサイトというのはきわめて人間に近いもので、生まれたときに名前が付けられてどんどん成長するものだなという感じもあります。その場合はサイトが自分の子どものようなものになるということで奇妙な感じがしないこともないですが。というわけでなににせよ、ひとまずこれで終わりということにしたいと思います。でも、今回のやり取りはとても刺激的で楽しかったと感じているので、またなにかありましたらおうおうおうおうっといつでもすごみに来て下さい。
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