クギレ人はクギレ人のもとにしか現れない。だから、もし、あなたがクギレ人と会ってみたいと思うなら、あなたもクギレ人になってみるしかない。しかし、自分がクギレ人になるのなら、そのときはもうクギレ人に会いたいとも思わないのではないかと、いまのあなたは疑問に思うかもしれない。いいや、そんなことはないのである。僕は自信をもって、そのように言うことができる。

むしろ、事情は逆である。もし、あなたがクギレ人になったのだとすると、あなたはいよいよクギレ人に会いたいと思うようになる。クギレ人はクギレ人に会いたがる。しかも、それだけでは済まない。クギレ人になった人は、ほかのクギレ人から会いたいと思われたいと思うようになる。この場合の理由は、少し大胆な構想力を働かせると、クギレ人ではないわたしたちにも理解できる。

クギレ人は「自分はクギレ人である」という確信をもっている。しかし、だからこそ、クギレ人は「自分は本当にクギレ人なのか」という問いを忘れることができない。あまりにも強い確信のために、その確信が崩壊する危険性をも意識しないわけにはいかないのである。だから、クギレ人はクギレ人に会われたいと思うようになる。クギレ人はクギレ人のもとにしか現れないからである。そして、ますます自分からもクギレ人に会いに行こうと思うようになる。端的に言うと、こういうことだ。

それでは、人はどのようなときにクギレ人になるのだろうか。その条件はそれなりに多様である。僕はそれを説明できる。しかし、いまその説明をしようとは思わない。というのも、僕はいまクギレ人ではないし、クギレ人ではない人間がクギレ人の説明をするというのは、実のところ、きわめて滑稽なことだからである。それでも、僕はあなたにクギレ人なる存在を紹介した。あなたもそのうちクギレ人に出会うかもしれない。クギレ人の評価は、そのときのあなたに委ねたい。

僕は一時期、クギレ人になりかけた。しかし、クギレ人になることはできなかった。大局的な視点から言うと、それは結局、僕はクギレ人ではなかったということなのである。僕の風景にクギレ人の家は建たなかった。そして、クギレ人は僕のもとにやってもこなかった。それは、僕が根底的なところでクギレ人になりたいと思っていなかったせいだろう。しかし、僕はクギレ人が嫌いではないし、クギレ人に無関心でもなかった。ただ、僕とクギレ人は、異なる空を仰いでいたのである。