「すごい……」 思わず、僕は呟いていた。 その言葉は、すっ、と空気に馴染んで消えた。 あまりに当たり前のことでしかなかったからだ。 「そうだね、確かにすごい」 おじさんは拡散した僕の言葉を、柔らかい態度で受け止めた。 横に立つ、生きたおじさんという存在に僕は少し、ほっとした。 おじさんにはそういった、どこか言いえぬ包容力がある。 「私もね、長いこと、ここに棲んでいるがね……」 おじさんは僕の顔を見た。 僕もその気配に気付いて、おじさんの顔を見上げた。 うん、とおじさんは頷き、どこか晴れやかな表情で溜め息をついた。 「彼みたいに素晴らしい投身自殺をした人は、始めてだ」 「…………」 「芸術的ですらある」 僕は愕然として、また、切り立った崖の下に目を向けた。 ぽっかりと奇妙な形の穴が開いている。 それはちょうど人間の大きさの穴だ。 なぜなら、それは人間が落ちた後の穴だからだ。 「少年、見ていたかい?」 「はい」 僕は丁寧におじさんの言葉に反応した。 僕の目を見て、おじさんは頷いた。 「そうか。ならいい」 おじさんは朝の太陽に目を細め、爽快な空気を吸い込んだ。 僕もおじさんの真似をした。 とても、気持ちが良かった。 「こういうのを、清清しいという」 おじさんは口元に悪戯な笑みを浮かばせ、そう言った。 太陽は高度を上げ、しだいに森は陽光に包まれだした。 緑が色を湛え、葉露が瞬き、鳥が飛び、山が目覚める。 逆光を浴び、不自然にそびえる崖が、黒い塔として浮かび上がる。 この黒い塔のことを、ある人たちは神と呼ぶ。 わかる気がした。 毎日、そこからは人が降ってきた。 「おじさん」 僕はおじさんを見て、おじさんと呼んだ。 「どうしたんだい?」 「僕はいったい、なにを見たのでしょうか?」 おじさんは一瞬、きょとんとした顔をして、崖の下を見つめた。 そして、それは難しいね、と言って、ふるふると首を振った。 ただ、実に良い質問だ、と言って、うんうんと首を振った。 「君がなにを見たのかは、私にはわからないよ」 「ええ、そうかもしれません、おじさん」 僕は丁寧に、敬意を損ねずに言った。 「ただ、僕にもわからないのです」 「それでいいじゃないか」 おじさんは言った。 「ですけれど、僕は、確かになにかを見たのです」 「そう、我々はなにかを見た。ただ、それがなにかはわからない」 「はい。いいのでしょうか、それで?」 「どう思う?」 「わかりません。少しの焦り、少しの畏れ、そして、少しの喜びがあります」 おじさんは笑った。 「君は実に頭のいい子だ。私などには及びもつかない」 「…………」 僕は黙った。 腹が立ったわけではない。 なにか、恥ずかしかったのだ。 「君は頭がいい、だから、私はちょっといまから独り言をする。いいね?」 おじさんは僕の反応を確かめずに喋りだした。 「我々はなにかを見た、しかし、それがなにかはわからない」 「ただ、我々はなにか見たんだ。それは事実だ」 「我々はなにかしらの事実を見た」 「我々はその中から、さらになにかを見ることができるかもしれない」 「しかし、そんなことになんの意味がある?」 僕はおじさんの独り言を黙って聞いていた。 意味はあるか? あるかもしれないし、ないかもしれないと思う。 「私はその問いに、わからない、としか答えない」 「わからない、という甘美な答えに逃げているのさ」 「そして、こんな誰も来ないような場所で暮らしている」 おじさんは崖を見上げた。 「ここには、わからない、という問いを超克した人間がやって来る」 「私は彼らを見るたびに、自分の中途半端さを知るんだ」 「どうして、ここにはこれほどの落差があるんだろうか」 「ただ、私はどういうわけだか、哀しいほどに生きている」 「そして、私はいつしか微笑むことを覚えた」 「卑怯な人間だと思わないかい?」 ふふふ、とおじさんは笑った。 「君はいつまでもここにいるような子じゃない」 「そうでしょうか?」 僕は首を傾げた。 「そうだとも」 「でも、とりあえず、今日はまだここにいたいと思います」 おじさんは笑った。 「ああ、君にはいつか明日が来る、それまで、ここにいればいい」 「はい」 「じゃあ、朝食にしようか」 そう言って、崖を後にしようとした時、僕はおじさんを呼び止めた。 おじさんはどうしたのかと不思議そうに振り返る。 「おじさん、あれを」 僕は崖の下を指差した。 そこには真新しい人型の穴が開いている。 「どこだい?」 「あの、ちょうど右手の指にあたるところです」 場所を確認すると、おじさんはけらけらと高らかに笑った。 「我々が見たものは事実だよ」 「はい」 深刻そうにそう言いながら、僕も静かに笑っていた。 そこには、人差し指と中指だけを立てたピースサインの穴が開いていた。 |