どういう風に考えたって、人間はいつかは死ぬもんだ。

 中学生の頃に習った。いままでのどんな人だっていつかは死んだ、だから、人はいつかは死ぬ。こんなのを演繹的推論とかって言うんだ。高校に入ってから、もうちょっと複雑で難しいことを習った。仮説演繹だの帰納主義だのってやつ。カラスだのスワンだのが出てくるんだ。

 そして、もっと、込み入った話を聞かされたのは「彼」にだった。それは退屈なものではあったが、いくつかの話題は俺なんかでも理解ができて、許容もできる現実性を持ったものだった。概して、専門的な話題というのは抽象的で駄目だ。それが強みではあるのだろうが、「一般人」の俺からすれば、言葉を入れ替えて遊んでいるようにしか見えない。

 高校卒業後、大してやることもなしに気ままに生活していた俺に、彼は「暇なら酒でも飲もう」と頼みもしないのに俺の家に押しかけてきては、俺に関心のない話題の説明ばかりを夜な夜な始めたのだ。パスカルの賭けだとか、超心理学の科学性の検討だとかなんかは結構楽しめた。そして、カーブ・フィッティングやらなにやらが出てきたところでノック・アウトだ。

 俺は彼の話を聴き、仕方がないから質問なんかもした。どういうわけか彼と飲むときが一番酔いがまわった。そして、非情な冷静さでそんな風に酔っている自分を眺めている自分がいた。数学の話題を話しているときに、何故か一番人生というものを考えた。不思議なものだ。

 彼は俺が質問をし終わるたびに決まって、「在野にいるには惜しい人材だ」と笑った。何時代に生きていればそんな発言ができるのかと唖然としたが、思うとあれは彼一流のジョークだったのかもしれない。ちょっと面白すぎて笑えない。

「人間は論理で動いてるわけじゃない、感情で動いてるもんだろ」

 俺は言った。

「実に論理的な発想だ。けれど、発想だけじゃ役に立たない」

 彼はそう言った。
 俺に理解できないという意味で実に不気味な男だった。
 いまは「不気味」は「奇妙」に変わり、「理解」は奥座敷で寝転がっている。

 最後に彼と話をしたのがちょうど一年前の今日になる。夜中の一時頃だ。後、二時間も経てば、ぴったりその時間と重なる。そんな無意味な一致に感慨を得るほど湿った思考はしていないだろとは笑うけれど、やっぱり一時になるまでは眠れないなと思う。

 すでにその瞬間に飲むべきバーボンまで用意されているのだから、実に俺は馬鹿だ。

「僕はこのまま、終ぞ、死ぬことがないんじゃないかと思うんだ」
「は?」

 俺はウィスキをちびちびやりながら、彼の話に耳を傾けていた。

「人間ってのは誰でも、いつかは死ぬ」

 俺は言った。

「なぜ?」
「なぜって……本気で言ってるのか? おまえ」
「素直な疑問だよ。本気か、本気でないのかは、関係ない」
「あのなぁ……」

 とは言いつつも、内心、俺はその質問にどう応えればいいのか困惑していた。
 単純なことだ、誰でも知ってる。けれど、理由を聞かれるとちょっと困る。

「いままでの人たちはみんな死んできた。けれど、僕は死なないかもしれない」
「ありえないよ」
「そうかな」
「そうだって」
「そもそも、いままで人間はみな死んできただろうか?」
「はい?」
「生き続けている人間っていないと思う?」
「いないね」

 そうしてまた、ウィスキをちびちびと飲んだ。暇な時間だった。

「君は自分もいつかは死ぬと思う?」
「俺が思わなくても、いつかは死ぬさ」
「それはだいたい、僕でも予想できる」
「おいおい」
「違うのさ、君が思うかどうかということを聞いている」
「…………」

 やれやれ、こいつは複雑なジョークだ。

「思うさ」
「僕は思わない」
「けど、君だっていつかは死ぬ」
「どうだろう」
「簡単に確かめられるぞ」
「それは僕を壊してみるということ?」
「そう、俺が君を殺せれば、証明終了さ」
「…………」

 彼は黙った。このとき彼がなにを考えていたのかはわからない。けれど、俺の発言がまるっきり的外れだったのか、あるいは彼の思考の深層で、俺なんかにはわからない美しいタペストリの模様替えが行なわれていたかの、どちらかであるのは確実だったと思う。

 なんにせよ俺も黙った。そして、彼の次の台詞を待った。
 そういう、注意力がなければ見逃してしまうような魅力が彼の沈黙には内在していた。
 ふーっと細い溜め息を吐き出すと、彼は顔を上げた。

「結局のところさ、ミドリムシって動物なのかな、植物なのかな?」
「まあ、どっちにしろ、とりあえず生きてるな」

 時計の針が一時を指した。

「だけどいまは、俺もこう思うんだ」

 俺はバーボンをグラスに注いで、一口、飲む。

「もしかしたら、俺も死なないかもしれない。いつまでも」

 どこかでなにかが笑った、そんな気がした。