ここのところ、僕はその部屋にあまり顔をださない。じゃあ、顔以外のところならだしてるの、とか、そういうことはどうか言わないように。そういうのはね、珈琲とかケーキとか、そういったお土産のある人間にのみ許された言葉なわけ。いい加減、君もそういうことに気付かないといけない。そういうのがね、大人になるというのとはまた違う、そう、人間として成熟するっていうのかな、そういうことなんだよ。わかる?

「わかるよ、ありがとう」彼女はそう言いながら、僕から珈琲を受け取る。「ケーキはないの?」
「ないよ」
「あそう」彼女はちらっと僕のほうを見て、また机上の論文に目を落とした。
「君、もってない?」
「なにを?」
「ケーキ」

彼女は僕を無視して珈琲をすすった。ケーキ屋の冷蔵庫って憧れるなあ。あまったケーキ、試作品のケーキ、ケーキのようなもの、ケーキにしたら面白そうなもの、ケーキにはならないけど今日の夕飯にはなりそうなもの、とかとか、もう、素人には想像のつかないようなケーキに関わる物体がその冷蔵庫のなかで冷やされているわけ。そういうの、たまらないよね。

「思わない?」
「三日に一度は思う」

そりゃそうだ。クッキーとかも冷やされてるだろうなあ。なんてったってケーキ屋の冷蔵庫だもの。たださ、これを言いだしたら、僕は味噌屋の冷蔵庫もそうとうだなって思うわけ。味噌に関わる物体、主に味噌、その味噌たちがもう、冷蔵庫の一段、二段は当たり前って感じで冷やされているわけでしょう? 白かったり黒かったり赤かったり、これはまあ、そうとうだよね。

「関係ないけど、おばあちゃんちの冷蔵庫って、絶対、リボンシトロン入ってない?」
「うち、ナポリン派」

 なるほど、それが影響して、こういう人格に育ったのか。

「あまり関係ないと思うよ」と言って、彼女はまた珈琲をすすった。

 そうだろうか。

「そうだよ」

 どうかなあ。

「どうかなあ?」

 どうだろう?

「はあ」と彼女の溜め息。「じゃあ、暑いから、冷たいものでも食いに行こうか」
「いいね」
「あと、甘いものもいいかも」
「珈琲、ちょっと苦かったかな?」僕は彼女の顔を覗き込むように言う。
「ケーキもあったら、ちょうどいい感じの濃さだったかもしれないね」
「なるほど」

 だろうね。

「それとも味噌汁でも飲みたい?」彼女が憮然とした表情で言う。

 うわあ、なにそれ、期待しちゃうなあ。

「…………」彼女は僕の目を見る。僕も彼女の目を見る。やっと、目が合った。
「なに?」
「シトロン飲んでたら君みたいになるわけ?」
「さあ、どうだろう」

 あまり関係ないと思うよ。