その日の夕方には冷たい雨が降った。
 僕が彼に出逢ったのは、六年前、道端だった。
 衝撃的といえばそうであったし、淡白といえばその通りだったと思う。

「おい、待てって。聞こえてんだろ、おら、ああ?」

 十月初旬のアスファルトの上で比較的見慣れた光景が展開されていた。制服からシャツをはだけさせた柄の悪い茶髪の男が、まさにカツアゲを始めた決定的瞬間だ。相手の少年は他校の生徒だろうか、できるだけ構わないようにしようと無視して歩いてはいるが、この調子では逃げ切ることはできないだろうと思えた。

「おい、おめー、あんま調子のってんじゃねぇぞ、ぼけが」

 そう言って、柄の悪い男が生徒の肩に手をかけた。
 生徒の方はびくりと身体を強張らせ、二歩歩いて立ち止まった。
 かわいそうにと思いつつ、僕は斜め前方にその光景を見ながら歩いていた。

「ちょっと、金貸してくんない?」
「いや……」

 生徒がどぎまぎしている、そのときだった。逆方向から歩いてきた細面の男がにこにこと笑いながら現場の前で立ち止まったのだ。僕はこの後の展開を見ないわけにはいかないだろうと考え、脇のガードレールに腰掛けた。

「なんだ、おい?」
「…………」

 柄の悪い男が、立ち止まった「笑い男」を威嚇する。
 生徒も半身で振り返ると笑い男を確認した。
 笑い男はなおも不敵にも思える表情を浮かべ、その前に立ち尽くしていた。

 笑い男は見たところ屈強な肉体を有しているわけでもなさそうだし、懐に拳銃を忍ばせている可能性も皆無に思えた。けれど、彼は最初に発する一言を決めかねているように悠々と、黙ってその現場を眺めていた。いや、眺めていたなんてものではない、凝視に近かった。

 僕にはその時、笑い男の笑顔が怒りの表情にすら見えた。異様な笑顔だった。

 柄の悪い男は、三対一という構図にしだいにばつが悪くなり、とりあえず生徒の肩から手を離すと笑い男を睨みつけた。しかし、その柄の悪い男が生徒から手を離した絶妙のタイミングで笑い男は信じられないことに、こう、言ったのだった。

「まあまあ、落ち着きたまえ」

 僕は驚いた。笑い男は柄の悪い男が生徒から手を離して、少し落ち着きを取り戻したかと思えた瞬間に「まあまあ、落ち着きたまえ」と言ったのだ。意味がわからなかった。むしろ、絡まれている生徒の方が落ち着いて金でも出してしまうのではないかと思えた。まあ、それはそれで平和的な解決だったかもしれない。

 しかし、笑い男の本領はここからだった。

 笑い男は柄の悪い男に生まれた一瞬の隙を見逃さずに、ゆっくりと、男と生徒の間に身体を滑り込ませたのだった。僕はまたもや驚いた。意味がわからない。むしろ、余計問題が複雑になるような気がしたが、自体は妙な方向に進んだ。柄の悪い男が、こう、叫んだのだ。

「おいてめー! ゆっくり、さえぎってんじゃねーよ!」

 僕は不本意ながら、爆笑した。
 なんだそれは? そういう問題なのか?
 僕は「笑い男は偉大だなあ」と感じいり、げらげらと笑っていた。

 ところで、ゆっくりとさえぎった後の笑い男がどのような顛末を辿ったかというと、なんと、驚いたことに生徒の代わりにカツアゲを食らっているのである。はひはひと喘ぎながら顔を上げてその光景を眺めたとき、僕は二度目の爆笑に陥った。

 おどおどとした態度で笑い男は柄の悪い男の言葉にしきりに首を振って応えていたが、いい加減疲れてきたのか、僕の方をみて(ここからがまた最高なところだ)、笑い男は僕の方を無表情で見て、「こいつを殺せ」と口を動かしたのだ。

 この時は本当に驚いた。傍で見ている僕を利用して自分の危機を、しかも相手を殺させて解決しようとするなんて尋常じゃない。僕は後になって、このときの言葉を確かめたけれど、笑い男は「そんなことは言っていない」と否定していた。彼はどこまでも笑いっぱなしの男なのだ。

 そして、僕がとった行動はもちろんひとつしかない。

「まあまあ、落ち着きたまえ」

 そう言って、僕は二人をゆっくりとさえぎった。
 場の力は一気に出口にむかって流れ出し、話はぐだぐだと終わりを迎えた。笑い男はやはり笑っていたし、僕は終始笑いっぱなしだった。挙句の果てには最初に絡まれていた生徒まで笑っていたのだからどうにもならなかった。

 柄の悪い男は首を振りながら溜め息をついて去っていき、後には路上ではじめて出逢った奇妙な組み合わせの三人組が残ったのである。笑い男はひととおり落ち着きを取り戻すと生徒から助けたお礼を貰おうとしたのだから(つまり、カツアゲだ)、とことん、おかしな奴だった。生徒も生徒で、それを笑ってごまかすとさっさと帰っていったのである。

 それから、僕と笑い男は何度か(やはり道端で)出会い、なにかしら、ちらほらと話にもならないような話をする関係になった。別に一緒にいて楽しいわけではないし、何かをするというわけでもない。だらだらとただ時間が過ぎ去るのを待っているかのように、二人で道端で突っ立っているようなことが幾度かあった。

 奇妙な関係であったし、奇妙な男でもあった。

 僕はついに彼の笑わない表情を二度と見ることはなかったのである。彼と話していると、彼がそこにいないということが、よくわかった。笑っていた彼はなにかを、とても重要ななにかをどこかに過剰なまでに大事にしまい込んでしまっていたのだ。

 今思えば、彼はあまりにも哀しい男だった。僕にはわかるのだ。
 僕はついに彼を捉えることも、彼の微かな一片に触れることさえもできなかったのである。

 彼が死んだ日、黒い服に包まれた人々は静々と泣いた。泣いている姿を眺めていると、それは全員が顔を伏せて笑っているようにも見えた。そして、一番高い位置から、優しい色をいっぱい湛えた花たちに囲まれて、笑い男はやはり笑っていた。

 参列する人たちに向かって、変わらない笑顔で存在を主張していた。

 僕は哀しかった。写真の中の変わらない笑顔も、道端で僕と時間が過ぎ去るのを冬のカラスのようにただ、黙って突っ立っていたときの笑顔も、なにも変わらないものだったのである。僕は想像する。おそらく、彼を見ることのできた人物、あるいは彼と共になにかを見ることのできた人物というのは、どこにもいなかったのだろう。

 そして、彼はどこにも存在しなかったのである。
 その日の夕方には冷たい雨が降った。