それは私が大根だったころのこと。 そこは列車の高架下で赤提灯をぶら下げた、まさに屋台な屋台。 太陽が隠れると同時に店を出し、夜も日が変わるかといった時間帯。 客はいない。 私は「今日も食べられないのか」などと複雑な面持ちで煮詰まっていた。 親父は長っひょろい箸でつんつんと新入りの卵にご執心の様子。 そんな時、一人の紳士が現れた。 「灘」 白髭の男爵と思しき紳士は暖簾を押しのけ、一言、そう言った。 親父はそれを聞き取ると、静かにコップに酒を注ぎだす。 男爵は黒服、ステッキ、山高帽といういでたち。 間違いない……、紳士だ。 男爵は紳士らしい仕草で椅子に腰をかける。 とん、と出された酒を見て男爵は一言。 「ワインじゃないね?」 そう言った。 (男爵、頑張って) 私は「この男爵は一味違う」と思った。 瞬時に私は一介の大根として、この紳士を心の底から応援していた。 私は確かに大根だけれど、男爵の頭がおかしいということは大根でもわかった。 「はぁ、灘になります。日本酒ですが」 「灘という、ワインはないかな?」 男爵はご自慢(たぶん)の白髭をつるんとしごいた。 親父は卵をつんつんやりながら「残念ながら」と言った。 「それは残念ですなぁ、ほっほっほぅ」 男爵は腹を抱えて笑った。 かなりレベルが高い。こいつ、何者だ? そんなことを私が考えていたときだった。 「そこの大根」 (はい) 男爵が私に話しかけてきた。大根にだ。 やはりこの紳士、只者じゃない。 大根のプロだ。 たぶん、全世界大根協議会探索本部の日本駐在大根ハンターの一人。 それも、かなり上層部の人間だろう、幹部クラスであることは間違いない。 この時間の屋台に現れるだなんて……知っている人間だ。 親父は相変わらず卵に夢中で、男爵の言葉は独り言と気にしてないようだった。 静かだが確かな威圧感、それは老齢で狡猾な闇夜の黒猫を私に連想させた。 男爵は少し微笑み、しかし、神妙な面持ちで私に語りかけてきた。 「君はもうわかっているはずだ」 (やはり、大根のプロなのね……) 「そう、その通り、これでも裏社会の人間なんでね、身分は明かせないが」 (私、興味ないわ) 「しかし、君みたいな大根に出会うのは久しぶりだ」 (そうね、たぶんそれはそうだと思うわ) 「君の居ずまいを見ているとね、あの伝説の大根を思い出すんだ」 (まさか……) 「そう、忘れもしない【星屑の大根】のことだよ」 (お父さん!) 「まさにレジェンド。一本の大根があの戦争を終わらせるとはね」 (あなた、なぜ、そのことを……) 「我々の世界にいて、そのことを知らないものなどいないよ」 (ちょっと待って。なぜ、なぜ、そんなことを私に話すの?) 「いけないかい? 大根というのは彼の出現までそのような存在だった」 (いまは違うわ。変わったのよ。もう、なにもかも……) 「そう、変わった、世界は変わってしまった」 (貴方のやっていることは迷惑だわ) 「大勢の人、そして大根には迷惑かもしれない。けれど、我々は取り戻すさ」 (なにを?) 「それはひと切れの大根に言うようなことではない」 (貴方たちのやっていることは、) 私の言葉を遮って、男爵は言う。 「真の大根があの戦争を終わらせて、新たな大根を探させている」 男爵は記憶の中に自分の居場所を見つけだすかのようにうな垂れた。 小さな沈黙に彼がなにを想ったのかは私にはわからない。 ただ……、 「あの瞬間、世界はまるっきり変わった」 (その様子だと真実はまだ見えていないのね) 「なに、どういうことだ?」 (あの日の朝、お父さんはもう、煮崩れしていたのよ) 「なんだって! そんな馬鹿な……じゃあ、」 (あの大根は【真の大根】ではなかったのよ。煮崩れていたのよ) 「う、嘘だ……そんなことは……」 (本当よ。お父さんは私に言ったわ。もう、自分は煮崩れているんだ、と) 「嘘だ! そんなこと、あるわけがない!」 (あなたがそう思うなら、思いたいなら、別に良いわ。だけど、これが真実なのよ) 「じゃあ、じゃあなぜ、戦争は終わったんだ……真の大根なしに!」 (戦争は終わるべくして終わったのよ……真の大根なんて関係なかったのよ) 「そんな……そんな馬鹿な……」 (貴方たちのやっていることなんて、もはや大根同好会の戯れなのよ) 「うるさい!」 (うるさいのは貴方たちだわ。私のお父さんを返して……返してよ!) 「…………」 (貴方たちの目的のために儚い一生を送った大根たちを返して!) 「…………」 (還元なさい! 世界は貴方たちだけのものではない!) 今度の沈黙は張り詰めた、切り取られた闇の哀しみに満ちたものだった。 「君は、我々が大根愛好者の集いだとでも言いたいのか?」 (言いたいんじゃない。そうだ、と言っているのよ) 「そうか」 (…………) 「なあ、屋台の大根……いや、星屑の大根の子供よ」 (なに?) 「仮に……仮にそうだったとしても、我々はもう、後に引くことなど出来ないのだよ」 男爵は妙に優しい、いや、むしろ、弱々しい口調で私に言った。 そして、コップに残った酒を「クッ」と飲み干した。 私はなんとも言えず、ただそれを見ていた。 男爵はコップを置き、なにも食べずに立ち上がった。 まさに紳士、そのような立ち上がり方だった。 ステッキを持ち、山高帽をかぶる。 「旦那、ここはいい屋台だ」 紳士が言うと、親父は我にかえって「へい」と情けない返事をした。 「いつから、ここで?」 「はぁ、もう、忘れちまいました」 「そうか……」 「しかし、いっぱいの出逢いがありやした。それは忘れられません」 紳士は黙った。 そして、親父を見つめた。 相変わらず情けない顔つきをしているが、親父の顔には喜びが浮かんでいた。 過去を思い出してこうも素敵に笑えるなんて、これだから親父は素敵なのだ。 お父さんも親父が大好きだった。たぶん、尊敬していたのだと思う。 人のために自分のやりたいことをやる、そういう親父の人生に。 紳士はそれを見て、なにを思っただろう。 「代金だ」 「いえ、その「灘」はあっしのおごりです」 「なに?」 「酒の一杯で金を取っちゃあ、お天道様に怒られる。それがあっしの流儀です」 紳士は黙った。 「あっしの我がままです。気にせんで下さい」 「わかった、ありがとう」 「へい」 「気が向いたら、また、来るよ」 「お待ちしてやす」 紳士は暖簾を押し上げて、そこで、振り返った。 「それと旦那」 「へい、なんでしょう?」 「卵ばっかり相手にしてちゃ駄目だ。そのうち、抜け出せなくなる」 「ははは……いや、こいつはお恥ずかしい」 「愛着や執着は、ときに自分を見失わせる」 「肝に銘じます、いやぁ、こいつはお恥ずかしい」 「それに、他の具が寂しがる」 「へい」 紳士は笑って、ステッキをクルンッと回した。 「じゃ、煮崩れないようにな」 そう言って、男爵は立ち去っていった。 暖簾の向こうの闇の中、静かな足音が響いていた。 それは既に開かれてしまった時代の扉を叩いている、弱々しい音に思えた。 扉を叩いているのは、貴方たちのいたし方のない運命。 男爵はどのような気持ちで、その扉を叩き続けてきたのだろうか。 紳士は言った。 「もう、後に引くことなど出来ない……」 しかし、本当にそうだったのだろうか。 ごうん…… ごうん…… ごうん…… ごうん…… ごうん…… ごうん……ごうん……ごうん……ごうん…… 一定の鈍い振動を伴って列車が通り過ぎていく。 それはいとも簡単に男爵の足音を消し去り、すべての音を食べつくした。 その轟音のなか、親父が長い箸で久しぶりに私をひっくり返してくれた。 つんつんと私をつつき「今日も食われなかったなぁ、おまえ」と親父は言った。 私は「良いってことよ」と言って、煮崩れしないようにと肩に力を込めた。 |