「あのさ……」 気だるい声で、ソファに横になって、私の顔も見ずに那美君は言うのです。 「なんでもいいからさ、僕の知らない音楽かけてよ」 「どうして?」 「聴きたいから」 「私が歌ってあげようか」 「歌嫌い」 「あそう」 私は横目で彼をむっと睨むと、読みかけの小説に目を戻すのでした。 そうしたら那美君が黙るわけだ。 それ以上なにも言わないの。 ちっちかちっちか時計の音するし。 本当そういうのってずるいよね。 私は立ち上がってすたすた歩いてぽちっと機械の電源をいれました。 「ありがと」 ソファから投げだした右手を挙げて那美君が言いました。 手の先で缶ビールがふらふら揺れてるわけだ。飲みすぎだよ。 そしてそういうのとか放っておけない私っていうのが、また可愛いわけだ。 「知らない音楽聴きたいときってあるよね」 「あるね」 私は棚からCDを取りだし、おもむろに機械に食わせました。 ウィーンとかいって食ってるの。本当機械って可愛いわ。 「酔い覚ましにビール飲みたいときもあるよね」 「悪いけどそれ発泡酒だから」 私って貧乏だからさ、悪いね。 「いいよ別に、どうせまずいから」 「水あげようか」 「怒った?」 「いや、まずいものよりはいいかなと」 「水もまずいよ」 まあ、確かに。 「でも、美味しい水もあるよ」 「そう、だから、美味しい発泡酒もあると信じたいよね」 はあ、だめです、神様、私はこの子を理解できません。 「それともサトさんは毎日美味しいもの食ってるの?」 「感謝はしてるよ」 「誰に?」 「お百姓様がた」 ははっと那美君は笑って「薔薇様がたみたいだね」と言った。 地味にマニアックだよな、那美君ってさ。 「それにしても、傷付いちゃうなあ」 「どうして?」 私がまた横目で彼を見ると相変わらず那美君天井見てるの。 天井見上げてみたけど、それってやっぱし天井だし。 やれやれ、私はいったい誰と話してるのでしょう。 人形みたいだよ、那美君それ。 「あれかな、那美君?」 「はあ、なんでしょう」 「発泡酒のまずさがわからない女っていうのは、どうなの?」 違いのわからない女、といって那美君は発泡酒をすすりました。 悪気はない、悪意はないと、そう信じたい。 「寂しい女、のほうがいいかな?」 「どっちも悪いと思うよ」 「ああ、なるほど」 そういうと那美君は私のほうを見てにこっと笑うのでした。 ああもう、そういうのに弱いんだよなあ、私ってば。 こう、なにかその、特別扱いされたというか、その……ね。 「これ、マック・ザ・ナイフ?」 那美君が呟きました。 いまかかっている曲の名前ですね、はい、ご名答です。 食事を終えた機械君は順調に音楽を吐きだし続けています。 「知ってたか。違うのにしようか。ていうかさ、歌嫌いらしいね」 「わざとらしいなあ」 「違う違う、わざとだから」 「まあ、いいや、もうちょっと音絞って」 那美君、エラ・フィッツジェラルドの声にたじたじです。 「はいはい、しょうがないな」 「エルトン・ジョンとかかけられたらどうしようかと思ったよ」 その手があったか! 「ああ……」 なにかわからないけどすごい負けたって感じがするなあ、もう。 私は冷蔵庫を漁りに台所に立ちました。 うーん、われながらきれいに整頓されてるね。 「那美君、なにか飲む?」 「ウィスキ」 「だめ、っていうかない」 「えっと、じゃあ、なにかだめじゃないやつを」 「芋焼酎いける?」 「芋と焼酎だされたほうが嬉しいけど、芋焼酎もわりと嬉しいほう」 那美君さ、そういうのはせめて笑っていってほしかったな。 「おけおけ、上等だぜ」 「サトさん、強いよね」 「なにが?」 「お酒」 「ぼちぼちです」 あ、チルド室に鮭いやがりましたよ、はっは、捌いちゃおっかな。 「那美君さ、鮭食う?」 「むさぼり食っちゃうよ」 「おけおけ、熊なみだね」 私は包丁を取りだすとどんっと鮭に落としました。 塩・胡椒を少々、バターを少々、醤油を少々、で焼け、焼いちまえ! 「でけたよー」 「はやっ、ていうか、芋焼酎まだだよ?」 「いま、燗してるから、こっちおいで」 私が呼ぶと、ダイニングに那美君がふらっと来るわけ。 こういう風に言うと、ちょっと「紐」みたいかな、あるいは子どもというか。 まあ、なにをやっても噂にできるし、詮索できる世の中だからなあ、あはは。 「ワイルドの『獄中記』読んでたんだ」 那美君、テーブルの上の本を発見したようです。 「うん」 「面白かった?」 「まだ読みかけだけど、嫌いじゃないね」 「どういうところが」 「なにかさ、熱中できることがあると、人ってものを残せるんだなって思った」 「それって本当に本の内容と関係あるの?」 「私にとってはね。読書ってそういうものです」 妙に偉そうな口調になってしまうのは、自分でもなぜか不思議です。 那美君がそうするように仕向けているのか、どうなのか。 頭も良いし切れるのに、どこか飄々としてるんだよな、那美君て。 こうやって私が心配するのも杞憂なのかなとかたまに思う。 気楽な者同士というか、でも、どこか不安を抱えた者同士というか。 ただ、こう漠然としてるのにある種の信頼があるのっていうのは、嬉しい。 「ファイト・クラブ、知ってる?」 「プラッド・ピットの?」 「そう」 「あれでそういう場面があるよ」 「どういう?」 「熱中せざるを得ない状況に追い込まれる、幸せな人のお話」 「それ本当に映画の内容と関係あるの?」 「あまりない」 私は那美君が椅子に座るのを見計らってどんっと、料理の皿をおきます。 どうだ。 「見るからに鮭だけど美味しそうでしょ」 「感動的なまでにまごうことなき鮭だね」 「味付けもシンプルだから、鮭を堪能せよ」 「きっと美味しいんだろうね」 「そう思いたいね」 「サトさん、独り身なのに家庭的って切ないね」 「独身っていうか過程的家庭だね、つまり、花嫁修業さ」 とかいいながら、こう料理がうまいのも食う人がいるおかげです。 「鮭久しぶりだな」 「最近なに食って生きてたの?」 「食わないでも生きてけれるもんだよ、以外に」 「那美君、さすがにそれは死ぬよ、愛や恋とは違うんだから」 「だから、サトさんとこに来るわけ」 ちっ、こいつめ、だめな奴だな。 「まあ、食ってけよ」 「お酒飲むとさ、いろいろなことが忘れられるよね」 「まあ、そうだね」 「逆にさ、美味しいもの食うと生きようって思うんだよね」 「便利な体質だね、それ」 「そっか、サトさんにそうずばっと言われると、うん、斬新かも」 「あはは、ども」 でも、それって、年の功ってやつだと思うなあ。 違ったらいいなあ、私の発想が褒められたと信じたいなあ。 「じゃあさ、美味しいもの食いながらお酒飲むとどうなるの?」 「それはもちろん、複雑だね」 「どういう風に?」 「どうして美味しいものを食いながら、お酒を飲んでるんだろうって」 うわー、複雑だなあ、それ。 「ねえ、サトさん、それが美味しいお酒だったりしたらどうする?」 「私だったら泣いちゃうかもしれないね、神様ありがとうって」 「なんていうかさ、信じられないよね、そういうのって」 「慣れてないだけだよ」 「なにに?」 「そういう場にさ」 「うん、でもね、僕はそういうのにずっと慣れないんじゃないかとも思うよ」 私は煙草に火を付けると、台所の換気扇を回しました。 「煙草吸うときは?」 「ん?」 「那美君は煙草吸うとき、なにを思うの?」 「なにか思うのがいやだから吸うんだよ、煙草は」 「それでもなにか思うことってあるでしょ」 「そういうときは、煙草ってなんなのかなあって思ってるよ、僕は」 煙草は煙草じゃなかったですか? 「それで、煙草ってなんなの?」 「煙草だね」 「あれ、煙草だった?」 「そりゃそうさ、煙草は煙草でしょう?」 そうだね。 「いろいろ思いようはあるけどね、それでも煙草は煙草なんだ」 「あはは、結局意味がないというか、意味しかないって感じ」 「そういうこと」 「那美君少し変わったかな」 「そう?」 「大切にするものと、大切にする仕方がちょおっと推移した」 「まあ、やや拡張されたところはあるかな」 「どうでもいいことだけどね」 「そうだね」 私は煙草の煙を吐きだしました。 無粋な会話をしちゃったなと後悔をしながら。 だって、どうでもいいことならさ、喋らないほうがいいに決まってるじゃない。 那美君も馬鹿じゃないから、なんか微妙な雰囲気になっちゃった。 「あれだ、嗜好品の時制の話、覚えてる?」 「ん?」 「あれ、忘れた? 酒は過去、煙草は現在、食は未来」 「それ誰が言ったの?」 「君が言ったの」 「食とか、嗜好品と違うじゃん」 「知らないよそんなの、ただ、それぞれにかかわるらしいぞう」 あれは面白かったなといって立ち上がると、私は換気扇を止めました。 うむ、我ながら下手な話の変え方だな、感心してしまう。 でもいいや、別に。 「燗できたんじゃない?」 「そうね、ぼちぼちだね」 うーん、これは那美君に助け舟だされちゃったよね。 優しい子だなあ、まいっちゃうよ、お姉さんは。 「そのお酒は美味しい?」 「黒霧島だよ、美味しさは君の舌で決めて」 鍋ごと熱燗をテーブルに乗せると、はい、食卓ができました。 もう、こういうときはさすが那美君としか言いようがないな。 さっきのいまなのに、ちょっと私の気も晴れました。 「さて食おうか」 私はしめしめという感じで手を合わせました。 お腹減ってたんだよね、実はさ。 「実に複雑な状況だね」 「ルービック・キューブみたいにね」 「それって複雑?」 那美君が真正面で不思議そうな顔をしています。にやっとしちゃうね。 「状態による」 「だろうね」 「どうしてもさ、私、最初に青揃えちゃうんだよね」 とか言いながら、私たちは食事を始めたのでした。 |