「  ……きて、……ですよ 」

 声がする。

「ほら、由宇さん、起きて下さい」

 ぴちぴちと左の頬をはたかれる。
 あれ、真菜って右利きだったっけと思いながら、由宇は目を開けた。

「なにしてるの?」
「起してます」
「いや、そうじゃない、そういうんじゃないよ」

 由宇は目線を、真菜の膝元、自分の身体の上に向けた。

「ああ、これ」

 真菜は嬉しそうに応える。

「跪座ですか?」
「いや、気障じゃないけど、正座だよね」

 なにを考えたのか、真菜は由宇の身体の上に座っていた。
 重いうえに、膝が肋骨にごりごりあたって痛い。

「いえ、跪座です、弓道の跪座です」
「うん、わかった」

 由宇はなにがわかったのかきわめて怪しい言葉を口にした。

「わかったから降りなさい」
「えー」
「えーじゃないよ、」

 そう言うと、由宇は真菜の浮いている膝頭を左右に弾いた。
 瞬間、どさっとまたがるように、真菜の腰が由宇の腰に落ちた。

「あるいは、こういうのなら、けっこう歓迎なんだけど」

 由宇はぼうっとした頭でそう言った。
 目をつむって欠伸を一回、横隔膜におはよう。

 由宇が目を開けると、真菜は不思議な表情で固まっていた。
 驚いたような恥ずかしいような、焦点が合っていない。

「フリーズ?」

 由宇は真菜の顔の前で右手をひらひらと揺らした。

「…………」
「ハングアップってわけでもないよね」

 右手を下ろして頬を掻いていると、急に真菜の視線が由宇を捉えた。
 妙に迫力があるが、しっかり観察すると泣きだしそうといった感じでもある。
 困った。でも大丈夫、こういった場合の対処法を、由宇は非常にこころえている。

「もしかして、待ち状態だったりする?」

 どん!

「!」
「朝ですよ」

 そう言って、真菜は由宇の腹に拳をめり込ませると、いそいそと寝台から降りた。
 由宇はやや悶絶したが、衝撃が引き、呼吸が整うと、また睡魔に襲われた。

「やれやれ」

 楽しい朝だなあ。由宇は本当にそう思う。自分は恵まれている人間だ。

「起しましたからね」
「うん、ありがとう」

 由宇が微笑んでそう言うと、真菜のぶすっとした顔が少し晴れた気がした。
 別に最初から本気で怒っているわけではないのだ。所詮、冗談と、お遊び。
 それを自覚している、どちらもわかっている、由宇と真菜とはそういう関係だ。

「そこにある錠剤、とってもらえるかな」

 由宇は部屋の片隅のデスクを指差して言った。

「その小さな壺の中に入ってる」
「これ?」
「うん、それ」
「なに?」

 ものすごい不審そうな目で真菜は由宇を見る。

「ビタミンRさ」
「ビタミンなの?」
「あ、それはいい質問だね、メチルフェニデートのことだよ」

 二度、真菜は頷き、はい、と由宇に渡した。

「水は?」
「いや、いいよ」

 由宇がそう言うと、真菜はブラインドを開き、部屋に陽光をいれた。

「眩しいね」

 由宇は思わず呟いた。

「なにがですか?」

 真菜がすかさず尋ねる。

「なにだと思う?」

 こういう風に返すときは、概ね、なにも考えていない。
 自分の考えをまとめるための、たんなる時間稼ぎである。
 安易に口走り、こういう状況を招いてしまうというのは、失敗だ。

「…………」

 真菜はなにも言わず、一度だけ肩を竦めるとさっさと部屋を出て行った。
 僕はその後ろ姿を見送り、静かになるとまた枕に頭をうずめた。

「なかなか、朝からだめだね」

 もしかすると、朝だからだめなのかとも思ったが、別にどうでも良いことだった。
 正直でも、素直でも、誠実でも、真摯でもないし、なににもまして眠いのだ。
 人間が起きているうちにやらねばならないこととはなんだろうか。

 生存するという前提を除けば、きわめて少ないといえる。

 楽しむこと、作ること、害すること……行動することはそれほど重要だったか。
 生きることが、これほど眠いことだと知ったのは、比較的最近のことである。
 どこまでも暇、どこまでも退屈、しかし、人間として生きなければならない。

 自分は産まれるときにも、やはり、これほどに不快だったのだろうか。
 それはもう、由宇にはわからないし、誰にもわからないことだろう。
 ただ、この世に産まれた人間はみな、最初に必ず泣いている。

 悲しいか、苦しいからだろう。人間は利口だ。