男を、拾った。

 私がこの町に帰ってきたのはつい、一ヶ月ほど前の蒸し暑い夜だった。田舎ではないけれどどこか閑散とした寂しい町。リンリンと鈴虫が鳴いていて、なにがそんなに哀しいのかと少しだけ気になったが、煩かったので草むらに石を二三個、投げ込んだ。

 コンクリートと奇妙なにおいというのが、私のこの町を思い浮かべるときのイメージだ。町外れにある工場の印象が強いのだろう。なにを造っているのか知らないし、もしかするとなにも造っていない工場なのかもしれないけれど、その、どこか世界とは隔絶された感じは私の中でなにかしらの位置を占めているように思う。

 灰色。

 そんな印象の強い町。そして、工場。私の住処はその工場が見下ろせる高台にあった。工場が見下ろせる高台に住処があるというのは、私の選択には関係ない。ただの偶然。帰ってきてみて気付いたのだ。その住処から工場が見下ろせることに。子供の頃は全然、気付かなかった。工場の存在すら、あまり覚えていない。私の子供の頃から、そこにはあんなにも大きな建物があったはずなのに。イメージだけが私の中に残っていた。

 なんにせよ、そんな工場の存在なんて別に大したことではない。工場なんてどこにでもあるし、私の生活にそんな工場なんてこれっぽっちも関係してこないからだ。私は朝方に寝て、夕方にはとことこと盛り場に出ていって荒稼ぎをするという、なんとも気楽な生活だ。お金もあるし、時間もある。度胸もあるから、これといって悩みごとも思いつかない。

 どうせだったら、悩みごとのひとつやふたつあったほうが暇をしないだろうと思う。淡白な性格というのは暇なのだ。まあ、そんな性格も手伝って、私がこの職業に向いているというのは確かだと思う。だって、すごい楽だもの。最低限の労力で最大限の効果を引き出せる職業。それが天職というものだろう。

 けれど、私がだらだらと疲れた、既にやる気の無い頭でハイヒールを引っ掛けて住処に辿りついたとき、最初に見える光景がいつも、なんの変化をみせない灰色の工場だということは、私にとってじわじわとなにかを馴染ませるようにして影響を与えている。まるで、アルコールと煙草の煙にまどろんだ暖炉の前で優秀な数学者になにかを語りかけられているように。

 ある日、私がいつも通り、住処に帰ろうと林道を歩いていたとき、道の端に人が倒れていた。とっさに私は死体だと思って近づいた。木に寄りかかるようにして倒れている。顔が俯き、長い黒髪が顔にかかっていた。最初は女かと思ったけれど、体付きががっしりとしていたので服を脱がせてみたら、やっぱり男だった。脈を取った。生きていた。生きているんだなと思った。

「君、だいじょぶ?」

 私は声をかけた。明らかに大丈夫そうに見えたし、まあ、生きているから大丈夫でしょと思ったけれど、体調はやっぱりちょっと悪そうだった。顔色が悪いし、やせ細ってる感じはする。面倒臭いから、あんまり関わりたくなかったけれど、私は手を差しだした。

「シウ」

 彼がそう口にした。可愛い声だった。見た目通りといった感じ。とは言っても、身体に切り傷やら、刺し傷があるのがわかっていた。そのギャップがまた、私には面白かった。自分でも、不思議なほど冷静にこの男に興味を抱き始めているのが理解できた。私の中の理性がこういった場合のもっとも理性的な対処の仕方を弾き出そうとしていた。難しい問題に思えた。

「シウ? 君の名前?」
「まあ、そういうことになるよね」
「そりゃまあ、珍しい名前だこと」

 偽名だと思った。そもそも、苗字がわからない。「シ・ウ」という名前だったら面白いなとか思ったけれど、たぶん違うだろう。けれど、名前なんてなんだって良かった。私だって、どれが本当の自分の名前なんだか忘れてしまった。本当の名前って戸籍上の名前なんだなと思うたびに「そんなもんなのかな」と思ってしまう。別に何だって良かった。私が決めたわけじゃないし。もし、彼の名前が偽名なんだったら、そのほうが良いなとすら思った。少なくとも、それは彼が自分で付けた名前だからだ。

「うちにおいで、それに、あそこを目指していたんでしょう?」

 私は林道を抜けた高台にある、小さい住処を指差した。
 彼はうんうん、あるいはそうそうといった感じで頷いた。
 私は彼を起こしながら言った。

「なんか、君のこと、わかりそうな気がするわ」
「そう?」
「ええ、なんで、あんなところで寝ていたの?」
「あ、寝てたってわかった?」
「もちろん」
「麓では警察に捕まりそうになったよ」
「物騒ね」
「かな」
「いや、そうでもないかも」

 私は笑った。久しぶりと言えたかもしれない。
 私はこのとき、部屋を掃除しておかなかったことを急速に後悔した。
 けれど、同時に私が部屋を掃除していたら、彼に会わなかったかもなとも思った。

「昨日、買い物しとけば良かったわ」
「僕の為に?」
「そう」
「そりゃ、無理だ」
「いや、なんか予感はしてたのよ」

 そのとき、彼が私にキスをした。
 なんだか、前にもこんなことがあった気がする。
 いつの間にか私は泣いていて、彼がそれを見て、微笑んだ。

「不届き者め……」
「予感はしてた?」
「ちょっとね」
「もう一回しようか?」
「したら殺す」

 怒りというか、やけに切なかった。
 自分はなにかを忘れている気がする。
 私は彼の腕を肩に担いだまま、黙って道を上り続けた。

「これが、ここからの景色よ」
「…………」

 彼は黙って、頂上から工場を見下ろしていた。
 不思議な男だった。魅力的、といえたかもしれない。
 私は住処の脇に彼を置いて、気付かれぬよう、急いで家に入った。

「ああ、忙しい……ああ、忙しい……」

 ばたばたと部屋を片付け、着替えなどをしながら、私は笑っていた。