「ああ、繋がった……繋がった」

 男はすがるような口調でそう言った。

「この電話が繋がらなかったら、俺はたぶん、もう、駄目だった……だから、いま、俺は嬉しい。わかるか、この電話がお前のところに繋がったということ自体がすでに俺には嬉しいんだ。お前がどこにいるかは知らないが、物理的に俺たちはなにかしら同じ世界にいるんだ。そのことが俺は嬉しいんだよ。わかるか? なあ、わかるか?」

 電話の向こうの人物は『ああ、わかるよ』と簡単に呟いた。

「思えば、俺とお前は近いところにいたんだ。なあ、お前は絶対にいい気はしないと思うが聞いてほしい。俺とお前は似てるんだよ、俺にはわかる。ただな、ただ、俺はお前が羨ましかった。俺はお前に憧れた。お前の才能に憧れた。お前の人格に、お前のなにもかもに感心した。恵まれた奴だと思った。そして、お前が俺になんの興味も示さなかったのが悔しかった。なんぼでも言える。いいか、俺はお前に似てた、だから、俺はお前に影響されたんだ。全部、お前のせいなんだ」

 男は冷静な口調でそう言い立てた。

「いつから俺はこうなったのか、もう思い出せないし、そんなことはもうどうでもいい。なにか、ちょっとしたきっかけだったんだ。いつも右側の席に座る列車に、その日、俺はたまたま左側の席に座ってしまった。始まりはその程度のことだったんだ。なにかが違うぞ、と俺も気付いたはずさ。ただ、俺はそんなことを大したことだと思わなかった。大したことじゃないと思い込むことで必死だった。お前がいたからな。それがどんどん水増しされていっただけなんだ。赤ん坊が不味い飯を食って成長するみたいに、ただ、それだけの話なんだ。たった、それだけなんだ。いいか、たったそれだけのことが、こうも俺には致命的だったんだ」

 男はぎりぎりと奥歯を鳴らした。

「いいか、俺はいつの間にか、お前のせいでここまで来た。なにもお前が悪いんだなんて言いたいわけじゃない、そこんところは間違えるなよ。ただ、これはお前のせいなんだって言いたいだけなんだ。なあ、教えてほしいんだ。お前は知ってたんだろう? 俺がお前の才能と人格とその人生に惹かれていることを? そして、俺がお前を自分に重ね合わせているがために次第に自分を見失っていっていることを? なあ、そうだろ? それを知っていてお前は俺を止めなかったんだ。そうだろ?」

 男は青い空の下、シンプルな木製の椅子に座っていた。
 そよそよと柔らかな風が吹き、暖かな日差しが男に優しい。
 目の前の上等な木製のテーブルには紅茶があり、ケーキもあった。

「お前は頭がいいよ、とびきりな。それは俺がいまさら認める必要なんてないだろう。お前はいろんなものを手にした。俺にはないものばかり、お前は手に入れたんだ。俺のおかげだ。お前は俺をこんな風にしやがった、だから、お前はそういう風になれたんだ。わかるか? お前は俺を貶めるようなことなんてなにもしていないだなんて言うかもしれないがな、それは違うぞ。お前は、お前という人格と、その人生もろごとを使って、俺をこんな風に貶めやがったんだ、冗談じゃない!」

 苦笑した口元の上には忌々しいものを侮蔑するふたつの目があった。

「嬉しかったか? 優越感に浸れたか? お前は俺がこんな風になることを知っていた、わかっていたはずだ……そうだろ? いま、お前はこんな俺の言葉を聞いても苦笑すらしていないんだろうな、え、そうだろ? 無表情でただ聞いているんだ。俺を憎みも、蔑みもしない、反論もしなければ、慰めもしないんだろうな。的確なアドバイスでもいただけるのかな? ふん、俺なんかの影響なんて受けないかい? ああ、そうだよな、俺なんかに影響されるような人間じゃないんだ、お前は。だから、こんな一方的な電話でも切らずに聞いているんだろ? お前は受話器に耳を当て、俺の言葉を聞いている。しかも、俺なんかの考えや悩みなんか全部お見通しなんだ。そうだ、それだよ、それこそ俺がお前に憧れた理由のひとつだ」

 男は紅茶を飲もうとして手を伸ばしたが、その瞬間、カップが消えうせた。

「お前は薄情な奴だ、わかってるんだろ? お前はいろんな人間の思いを踏みにじって生きているんだ、忘れるなよ。お前は卑怯な奴だ。とことん卑怯だよ。お前を非難すればするほど、こっちが貶められるんだからな。だから、お前はかっこいいんだ。お前は自分の周りの人間達を不当に貶めることによって輝いている星なんだ、それを決して忘れるな。お前は卑怯で、汚い、最低の人間なんだ。なあ、お前だってわかってるはずだ、いいか、それを俺がいま抉ってやってるんだよ、どうだ、気持ちいいんだろう? そうやってお前は輝きを増すんだからなぁ」

 男がフォークでシフォンケーキを口に入れようとした瞬間、それは消えうせた。

「お前は、お前が俺に与えた悪影響のことなんてとんとお構いなしだろうな。こうやって話していても、次の瞬間には俺は過去の思い出になるんだろうな。かっこよすぎて反吐が出る。俺はお前に憧れたよ、ほんとに憧れた。お前になりたいすらと思ったよ。だがな、それは俺には無理だった。そうさ、俺はお前にはなれない。ただな、それだけじゃない、俺はお前以外の誰にだってなれない。当たり前のことだ。そんなことは俺だって知ってたさ。馬鹿じゃないんだからな。ただ、それを心の底から感じる相手がお前だったのが俺の不幸さ」

 男の手からフォークが消えた。

「なあ、頼む、もう少しだけだ、俺の話を聞いてほしい。お前はそんなことは嘘だというかもしれないがな、俺の周りにはいま美しい花畑が広がっている。見渡す限りお花でいっぱいだ。地平線が花だよ。笑えるなぁ、おい。なあ、ここはどこなんだ? 教えろよ。知ってるんだろ? ここはあまりに安易過ぎるんだ。花畑? なんだそれは? お前は説明できるか? 花畑に俺がいる理由を? 見るからに、馬鹿馬鹿しいほどに綺麗だよ。馬鹿馬鹿しい。ほんと、馬鹿馬鹿しいよ。なんだここは? なんだこれは? お前ならわかるだろ? お前なら絶対にわかるはずなんだ。俺にはそれが確信できる。なあ、言えよ、それで俺はいいんだ。ほら、言えよ」

 ここはどこなんだ?

「俺は木の椅子に座ってる。そして上等なテーブルの上には俺の望むものならなんでも現れるんだ。ただな、俺はそれを絶対に手に入れることができない。手に取れば崩れ落ち、触れば消える。今度こそ手に入ると思った瞬間、当たり前のように俺の望みは奪われる。ここは地獄だ、地獄だよ。いまも俺を誘惑する女が隣に座っている。俺が望んだからだ。俺の好みのいい女だよ。妖艶な姿態で俺を惚れ惚れさせる。俺の好みってやつが始めてわかった。この女こそがそれだ。まるで天使だよ。知らなかったな、俺はこういう女が好みなんだ。笑えるぜ。俺はこの女とひとつになれるなら死んだっていい。そう思うんだ。やっぱりな、天使ってやつは死ぬときに現れるもんなんだよ。ふわっと現れて違う世界に俺を連れ去るのさ。わからないだろ? そうさ、お前にゃわからないよ」

 お前にはわからない。

「もういいだろう、教えろよ。俺の話ももう終わりだ。ずいぶん、時間がかかった。それでもこれでよかったんだと俺は思える。これでよかったんだ。それは俺の生きてきた時間の全部が作り出す結論の輪郭だよ。俺は決してこれでいいだなんて方向に向かって進んできたわけじゃない。俺はあがいてあがいて、ここに来た。こんなところに来たかったわけじゃない。それでもいま、これでよかったと思う。それがいまの俺だ。俺は負けたんだ。負けてもいいんだといまなら思える。いまさらだけどな。負けっぱなしの真っ最中にはそんなことは思わなかった。俺の全部はいま、なにかを掴もうとしてるんだ。言えよ、俺に教えろよ、ここはどこだ? この天使は何者だ?」

 電話の向こうの男は静かに応えた。

『君はそこが地獄だと言った。地獄にいるのは悪魔だよ、天使じゃない』

 男は隣に座る女をじっと見て、沈黙した。
 すると女は右腕を伸ばし、彼の頬を優しく撫でた。
 ふっとなにかを嘲笑するように鼻から息を漏らすと、男は呟くように言った。

「俺の目の前にあるテーブルには俺の望むものならなんでも現れた。そして、俺がそれを手に入れようとするとそれらはあっという間に消えうせた。なんでもだ。なぜだろうな? わかるか? 俺はそれを考えなかったよ。一番最初に考えても良さそうなもんだが、それだけは考えなかったんだ。いろいろなことを考えても、そのことだけは考えなかった。なんで俺はそのことを考えないようにしてたんだろうな、明らかに不思議な現象に違いないのに、なぜだろうな? 心のどこかで俺は無条件にそれを受け入れていたのか? そんなことはない。久々にいま、俺の身体は震えてるよ、怖いなぁ……怖いんだよ。なあ、この気持ちがお前にわかるかい?」

 男は頭を振った。

「そしてな、俺はいま、電話を手にしている。この電話はな、俺の目の前のテーブルから現れたんだ。俺はこの電話を手に入れることができた。これだけは即座には消えなかったんだ。だから、いま、こうやってお前と話すことができている。なあ、なぜ、この電話だけは他のものと同じように消えなかったんだろうな? これは俺が望んだから現れたはずなんだ。そして、そのはずなら、俺は手に入れられないはずじゃないのか」

 男は電話をテーブルの上に置いた。

「結局、俺は本当になんにも手に入れちゃいないんだ」

 電話は次第に空気に滲んで消えうせた。

「こんなにも、自分が偉い人間だとは思わなかったな」

 男は隣に座る女を抱き寄せて、キスをした。
 その瞬間、甘美な想いが身体を突き抜けた。
 そして、男の意識は急速に遠ざかっていった。

「お前だって、この世界のどこかにいるんだからな」