烏の御岩が浮いたのは、本当に僕が小さかった頃。
 五歳か、六歳だろうか。
 お父さんに何かを怒られて独りで庭に出た。とても寂しかった。
 夜。
 黒い、生暖かい空気が僕の身体を包み込むのが分かった。
 じとっとしていて、やけに、暑い……。

 縁側から、こよみちゃんが見ていた。
 僕は庭の真ん中で裸足のまま、黒い土と緑の雑草だけを視界に捉えていた。
 このまま地面に近付こうかな、と思った。
 どうしてそんなことを思ったのか、いまでは分からない。
 その意味すらも、もう分からない。
 こよみちゃんが僕の肩に触れた。

 振り向いたわけじゃなかったけど、それは簡単に分かることだった。
 柔らかい手の感触。
 とても気持ちの良いその感触に、身体の力が抜けた。
 身体を背中から抱かれる。
 こよみちゃんが何かを言った。
 僕は顔を上げた。

 そして、見た。
 目の前に浮かび上がっている、烏の御岩。
 地面には大きな穴が開いていて、地面の黒よりもっと黒い、穴だった。
 烏の御岩がふらふらと揺れる。
 御神木の前でどっかと偉そうに存在を主張していた筈の、烏の御岩が浮いていた。
 僕は、笑った。

 口元を歪ませて、確かに笑った。だって、面白いじゃない。
 けど、自然に笑ったのに、笑顔はどうしても不自然にしかならなかった。
 こよみちゃんが僕の正面に回って、腰を下ろして目線を合わせた。
 こよみちゃんは怒らなかった。
 僕の頭をそっと撫でて、また、抱いてくれた。
 いつの間にか、雨が降り出していた。

 雨粒でぼやける視界に、僕は見た。
 こよみちゃんの顔がうっとりとして、口が緩く開いたのを、目が細くなったのを。
 そして、その後ろ、雨の中、御岩の頂点に黒い鳥がとまっているのを。
 僕は、それを咄嗟にカラスだと思った。けど、それにしては少し身体が大きかった。
 その鳥は、クエェ、と鳴くと、その影ごと雨に流されて消えた。
 そして、烏の御岩は地面の本来あるべき場所へと、ぽっかりと開いた穴へと収まった。
 この話は、こよみちゃんも信じてくれなかった。

 こよみちゃんは僕の頭を両手ではさむと、顔を近づけて接吻した。
 僕は、どうすれば良いのか分からなくて、黙って立っていた。
 口の中でごちゃごちゃと何かが動いて、不思議な感覚だった。
 少し経って、こよみちゃんは顔を遠ざけた。
 こよみちゃんは僕の頭を撫でながら何かを言った。
 けど、それは聞こえなかった。  

 ざあざあと単純な雨音に、複雑なそれは吸い込まれたのかもしれない。
 いや、たくさんの雨粒に、音が全部吸収されてしまったようだった。
 ちょっとずつ、本当に少しずつ、音が聞こえ出す。
 僕は、ぼうっとしていた。惚けていた。
 何が起こっているのかわからなかった。夢の中のよう……。
 夢の中で現実を夢見ている自分、それを見ている自分……?

 そんな時、こよみちゃんが耳元で囁いた。
 いつもの、こよみちゃんの声じゃなかった。
「誰にも言っちゃ駄目だよ……特にこの家の人達には。秘密だよ、二人だけの、ね……」
 こよみちゃんが首をちょっとだけ傾けて、笑った。
「じゃなかったら……僕、殺されちゃうからね……死んじゃうよ」

 僕は誰に殺されるのだろう、と思った。
 殺されるってどういうことだっけ、と思った。
 そして、「殺されるんなら、こよみちゃんにがいい」と、そう口にした。