2009年04月

30日(木)「態度に影響を及ぼすもの。それは純粋な体系と無縁ではないが、異なってはいる」
29日(水)「いくつか候補が挙がるにせよ、それは言動だろうか。それならば、むしろ態度だ」
28日(火)「では、私に「わかっていない」と思わせたもの、それはいったいなんなのだろう」
27日(月)「しかし、これらの表現が適用される現実の広がりに違いを感じることはたしかだ」
26日(日)「いやまて、もしかするとこれは、感情の表現として援用しているだけではないか」
25日(土)「つまり、「わかり」のあり方に差異がある。知識に関して、こういうことはない」
24日(金)「だが、後になって、「やはり、わかっていた」と思い直すこともままあるものだ」
23日(木)「あるいはもっと根本的な感覚の相違、前提の不足を「わかっていない」と感じる」
22日(水)「このときの「わかっていない」は示せない、ないし言語化できないということだ」
21日(火)「これは信念に関係することだろうか、あるいは「わかる」は三階の述語だろうか」
20日(月)「しかしそのように表現したいこともある。つまり知っているのにわかっていない」
19日(日)「単純に考えて、知っているのに知らないということは、矛盾するのでありえない」
18日(土)「少なくとも、することができるというとき、やるべきことはわかっているだろう」
17日(金)「できる、ということで卓越したものを示すことは難しくとも、することはできる」
16日(木)「だが、この場合、できないというのは、おそらく、上手にできないということだ」
15日(水)「しかしもちろん、実際には、わかっているのにできないということは、多々ある」
14日(火)「わかるということを分析する・弁別するということで捉えるとこれはややこしい」
13日(月)「これは正しいかもしれないが、知識に関する内容と状態を曖昧にしがちな表現だ」
12日(日)「知っていることをわかっているなら、それを言語化することができるはずである」
11日(土)「ということはやはり、なにかしらの共同体による承認は必要になるということだ」
10日(金)「言語的に背負わされているこうした要求の主眼は「できる」というところにある」
09日(木)「知っているなら言語化できるだろうし、わかっているなら実践できるはずである」
08日(水)「知っているなら教えてほしいし、わかっているならやってほしいと感じるだろう」
07日(火)「知っているというよりわかっているというほうがしっくりくる場合がわりとある」
06日(月)「脳は考えていない。私をある状態から他のある状態へと移行させるものはなにか」
05日(日)「脳と発達の研究による知見は、なにをどこまで明らかにしてくれるものだろうか」
04日(土)「理性、経験、感覚、言葉、信念、どこまでが前提でどこからがメディアだろうか」
03日(金)「知るということがなんらかの働きによって与えられるとして、その基礎はなにか」
02日(木)「東洋における、理性の中央集権的な信頼は何によって担保されているのだろうか」
01日(水)「何かを理解できているとするにせよ、私は理性によって理解しているのだろうか」

2009年03月

31日(火)「言動の無矛盾性を文脈を貫通して保持しようとすると困惑してしまうこともある」
30日(月)「文句を言うにせよ、もしその判断を理解できていない人は相手にされないだろう」
29日(日)「どうして納得できたのか。説明される前にそれが理解できていたのはなぜだろう」
28日(土)「徳のある人は悩みもするだろうが、その後に納得できる決断をするのではないか」
27日(金)「人が複数の選択肢を前に逡巡するのを見て「倫理的」と言うのもなにか足りない」
26日(木)「功利論は本性に立ち返ろうとするあまり、そうでない思考を排しがちではないか」
25日(水)「ある場面では功利的に、ある場面では義務論的に。これは功利的な考えだろうか」
24日(火)「わからないものを掘り起し、わかった状態にすることで、なにかが変化するのだ」
23日(月)「わかるということは大切なのだが、それ以上に、わかっている状態が大切なのだ」
22日(日)「出来事の内実を整理するという作業にそもそもカタルシスの効果があるのだろう」
21日(土)「思考の道筋を組み立てるとともに、思い詰まった思考を癒せる体制も必要になる」
20日(金)「判断を誤らないためではなく誤った判断の後遺症を癒す効果に期待しているのか」
19日(木)「言動の一貫性を求めるあまり、規範の一元性を追求するのは不自然に感じられる」
18日(水)「極端な事例を扱える考え方を抽象して一般化したものにどれだけ納得できるのか」
17日(火)「神によって。たしかに、ここを起点に始まる考察には豊かな広がりがあるだろう」
16日(月)「正しさは何によってもたらされるのだろう。文句を言われないということからか」
15日(日)「正当性が必要とされるのは、集団がなんらかの正しさによって支えられるからだ」
14日(土)「正当性のなさによって束縛されてしまうとき、論じることは自由をもたらしうる」
13日(金)「思い込みから生じる不利益を解除するためには議論を組み立てなければならない」
12日(木)「極限的な状況における判断になにかしらの根拠を与えようとするのはどうしてか」
11日(水)「それはあるいは、いわゆるエートスではないのか。なるほど、そうかもしれない」
10日(火)「理念は主題やテーマとは異なる。それは前提として物語の中に組み込まれている」
09日(月)「少女漫画的な現実の中心的理念は「恋愛」あるいは「純愛」ということができる」
08日(日)「山登りの知識と経験、景色を完全に想像できるなら山登りは時間の無駄だろうか」
07日(土)「あるがままを神秘なるままに受け止めようとするならば、言葉は沈黙するだろう」
06日(金)「発想の新奇さを言葉の古さによって受け容れられないということは奇妙ではない」
05日(木)「余剰がなければ豊かさは増えないが、余剰こそが豊かさだと思うのは誤りである」
04日(水)「知ることは容易だと思うのは、知らされる内容は自然に湧いていると思うからだ」
03日(火)「知っていることよりやっていることを評価されるのはおおむね適切なことである」
02日(月)「言語化しないままに胸を張れるのは、まさしく、言うまでもないことなのだろう」
01日(日)「理想を結果の中にしか見出さない人にとって、言葉は行為以上の役割を持たない」

2009年02月

28日(土)「結局のところ、立ち戻る。人はたんに「なにかになる」そして「果たす」だけだ」
27日(金)「職業は選択している。しかし与えられていない選択肢を演じることはないだろう」
26日(木)「社会契約論に違和感があるとしたら、そんな契約していないという事実に根差す」
25日(水)「実際、私たちは選択していない。元々あるものに最初から参加してしまっている」
24日(火)「どこにもそんなものはない。まさか。そこここにあると思わないわけにいかない」
23日(月)「誰に規定されているのか。そうではない。何に規定されているのか。社会・世間」
22日(日)「演じる。演じると自覚したとき、演じる自分も演じられる自分も客体化している」
21日(土)「規定されている。規定されているフリをする。人は受け容れて、従うだけだろう」
20日(金)「規定する。しかしそうだろうか。実際、規定するなどということがあるだろうか」
19日(木)「人はなにかの真似をして、そのフリをすることによって、自分の役割を規定する」
18日(水)「なにか「になる」ということは、その人が社会化するということを示唆している」
17日(火)「誰かが誰かを判ずるときに、その人はいったい、なにのどこをみているだろうか」
16日(月)「自己意識の高まりが「自分の思い通りにしたい」という範囲を広げたのだろうか」
15日(日)「好意か敵意かという色分けをするなら、人間の本性は自分勝手さに根差している」
14日(土)「人の言動が、きわめて単純な複雑さに裏打ちされていることは容易に理解できる」
13日(金)「現代人にとって感情は欲望以上に「そうせざるをえない」という性格を持ちうる」
12日(木)「特異なものを禁忌とするか崇拝するかはさておき、求めているものは同じだろう」
11日(水)「人間の感情の多彩さを自然的なものとして受容すると落ち着けることはたしかだ」
10日(火)「目的論的な発想、あるいは充足理由律を前提にして考えを進めるのは違うのかな」
09日(月)「妬み・嫉み・僻み・羨みといった感情は、いったい何のために発生しているのか」
08日(日)「理解と共感を求めるのは身を守る術なのだろうか。人は何と戦っているのだろう」
07日(土)「できる人ときれる人は異なると分析するなら、人間の優秀さはもっと繊細になる」
06日(金)「能力に関して人柄を問わないという姿勢は、逆説的に同種の人柄を寄せ付けあう」
05日(木)「優秀さの射程はそう広くはない。誰だって優秀な人を知り合いに持ちたいだろう」
04日(水)「評価したりされたりすることを嫌悪する人は欺瞞的な優しさに溺れやすいものだ」
03日(火)「評価の尺度が社会的なものだからではなく、評価という行為自体が社会的なのだ」
02日(月)「同じ役柄を同じだけ充分に務められる人が、同じように評価されるとは限らない」
01日(日)「どのような優秀さも、最終的には人柄によって生かされるというのは正論だろう」

2009年01月

31日(土)「私は理解するということで納得したいのだ。納得するために理解したいのである」
30日(金)「現実は分有される、と言うのは、おそらく正確ではない。やはり、感染するのだ」
29日(木)「現実の同一性を語ることを通して、その当座の現実は補充され、強固になるのだ」
28日(水)「厳密に言うのなら、どの現実も同一ではあり得ない。しかし、問うことはできる」
27日(火)「現実の同一性は現実の共有を確認してから語られる。まず、枠組みが与えられる」
26日(月)「他者の、自分以外の現実に思いを馳せるとき、世界は語るに足りうる意義をもつ」
25日(日)「第三者に披露する話し合いや行動に保証を与える話し合いは儀式的なものである」
24日(土)「互いに断片的な知識を持ち寄り、互いを補完し合う話し合いは有意義にとられる」
23日(金)「もちろん、教えるということの好きな人にとって、それは価値のあることだろう」
22日(木)「有益な話し合いとは、結局、教えてもらうということだ。核心は聴くことにある」
21日(水)「あまりにも現実の豊かさに差のあるとき、議論はときに教示となり、有益となる」
20日(火)「議論により鍛えられる。それは議論によりもたらされても、議論の結果ではない」
19日(月)「話し合いは人を思い留まらせる。お手のできる犬はできない犬より賢いとされる」
18日(日)「実現するという組み立ては、合議の価値とは異なる次元にある思考の産物である」
17日(土)「解決をもたらす意志は覚悟を伴う。それは話し合いの要素とは異質のものだろう」
16日(金)「物事の解決は行動によってもたらされる。話し合いとは、そのための儀式である」
15日(木)「話し合うことによって求められるのは合意であるかもしれないが、解決ではない」
14日(水)「もし話し合うことで解決するのなら、本来的に話し合う必要はなかったのである」
13日(火)「私の思考を説明することは容易であるが、説明の限りを尽くすことは困難である」
12日(月)「思考とは独白である。どのような土壌にあるとしても、私は無自覚的に表現する」
11日(日)「穏かにして強力な思考力は、その周囲に敬意のないとき、独白として表出される」
10日(土)「世界の像を描いた記号空間を想定せずに協同的な思考活動を維持するのは難しい」
09日(金)「何のために問うのか。そのようなことを考えずとも人は問うことができてしまう」
08日(木)「普遍的なテーマなどどうしてありうるだろう。しかし、私たちは共有できるのだ」
07日(水)「大勢の人が「わかった気になれる」文章は本来的に正しさを求められてはいない」
06日(火)「問いを共有することは謎を共有することではない。謎を把握することはできない」
05日(月)「意図の隠れた質問に意図の隠れた回答を返すことは、人付き合いの摩擦を減らす」
04日(日)「いかに思考を停止したままコミュニケーションを成立させるかというのは大切だ」
03日(土)「大雑把な質問に大雑把な回答を寄せるのは安全だが、それは穏やかな思考停止だ」
02日(金)「目的に正解はないが合目的性を用意できない行為の説得力のなさは自然ではない」
01日(木)「面白いから研究する。この手の応答の無垢さに説得力を与えるのは政治力である」

2008年12月

31日(水)「個人の能力はその許容量を奪い合うという先入観は、有限性の無益な呪縛である」
30日(火)「機械のように働き、立ち回ることは、実際には、きわめて人間的な優秀さである」
29日(月)「虚構のなかにしか真理や感動を見出せないとしても、それは異常なことではない」
28日(日)「現実の描写は、世界を描こうとするものと人間を描こうとするものに大別できる」
27日(土)「恋愛は好きな人とだけするものだというのは、どれだけ適切な先入観なのだろう」
26日(金)「人は鈍感になると同時に棘付きの鉄球のように過剰な意識が偏在するようになる」
25日(木)「全方位に鋭敏な人は、結果として、情報量を相殺することで安定を保とうとする」
24日(水)「エンターテイメントになっていない自意識の過剰さを鬱陶しく思うのは仕方ない」
23日(火)「常識のなかに天才は溶けさる。真に画期的なものは、発見と同時に自然に馴染む」
22日(月)「授業の上手さと研究者としての優秀さは必ずしも常に一致しているわけではない」
21日(日)「練られた漫才が作品であるということと同様にして、練られた授業は作品である」
20日(土)「ずる賢い人をずるいと思うのでなく賢いと考えられるならそこに学ぶものはある」
19日(金)「同一性の性格が環境において異なるなら、複数の現実を使い分けることは易しい」
18日(木)「現実の多様性は現実が選択した結果ではないが、その比喩は不正確ともいえない」
17日(水)「多様な現実から、その現実における規定に沿うような多様な存在者を想定できる」
16日(火)「厳密なものからさらに厳密なものを求めて豊かさを増せるなら幸福であるだろう」
15日(月)「世界を水増しすることによって、新たになにかわかったつもりになるのは危険だ」
14日(日)「予定のない期間を解消するだけで、ゆとりのある生産力は十分に蓄えられている」
13日(土)「美しさも醜さも、それをしげしげと眺められるなら、醜さや美しさに変貌しうる」
12日(金)「純粋な感情と言われるようなものほど、美しさと醜さを見間違わせるものはない」
11日(木)「感情は嘘を吐かないからこそ、人を誤らせる。感性の育成を疎んじてはいけない」
10日(水)「表現の影響力を信じることができなければ、どうして書き続けることができるか」
09日(火)「嘘を吐かないことは美徳であるが、その評価は嘘を吐けるからこそのものだろう」
08日(月)「人が自分の能力に見合うだけの幸福を受け取るわけではないことは不運だろうか」
07日(日)「人間目線の不確かさは、しかし、だからこそ、合理的な性格をそこに内包しうる」
06日(土)「自律性を有するほどの現実は「自ずから立ち現れた」とでも表現されうるだろう」
05日(金)「諸個人の有する現実は通常、その成り立ちの経歴からして家族的に類似している」
04日(木)「現実の同一性はどのように担保されているのか。それは重畳的にのみ捉えられる」
03日(水)「同じ現実を展開しているのだが、異なる言語を用いているということがありうる」
02日(火)「倫理的な発話を適切に行使できる人が満たしているべき格率はどのようなものか」
01日(月)「視野の狭さは、有する諸現実の貧困さと弱小さが排他性を纏うときに有害になる」

2008年11月

30日(日)「ある特定の現実の展開において能力を発揮できる人物だけが優秀なわけではない」
29日(土)「知的に優秀な人間というのは、その知的な態度の誠実さにおいて優秀なのである」
28日(金)「特定の現実に必要以上の役割を与えることは、時と場合に応じてなされるべきだ」
27日(木)「類縁的な諸現実を局所的に細分化することによって解体することは無益ではない」
26日(水)「諸現実を弁別する前提に無自覚なら、言語的な経験はリゾーム状態のままである」
25日(火)「生身の体験は言語的に経験される。各個人の経験の諸相は認識として把握される」
24日(月)「体系的に知識を吸収し、適切に応用できることは、もちろん、重要なことである」
23日(日)「確実に規定された現実の展開にしか理解はないと考えるのは権力に毒されている」
22日(土)「最初はわけのわからないままに受容し、次第にわかったような気になるのである」
21日(金)「学習の過程を能動的なものと想定できるのは、学習し終えているからではないか」
20日(木)「一見したところ、慣習的な表現の慣習性は何にも担保されていないように思える」
19日(水)「どうしたら言語ゲームにおける多種のルールのまとまりを把握できるのだろうか」
18日(火)「誰がいつどこで誰に向かって言ったのかという文脈との距離による影響は大きい」
17日(月)「それらはともに立派な表現活動であるが、その方向と性格は大きく異なっている」
16日(日)「手によって考えると言いうるのであるなら口によって考えるとも言いうるだろう」
15日(土)「話すことにより洗練される文章も多い。読み書きを重視する姿勢には功罪がある」
14日(金)「書いたものよりも話したもののほうが抜け落ちてしまう事柄が多いわけではない」
13日(木)「尋ねる、応じる。対話においては、それを作る、そして見せることに重点がある」
12日(水)「二者間の似たような発言の蓄積に特別な表現効果があるのは、どうしてだろうか」
11日(火)「対話編というのは、結局、似たようなことをお互いに言い合っているわけである」
10日(月)「体系的に明文化されることによって現実は緊張する。自然的な性格は背後に回る」
09日(日)「コミュニケーションの非対称性は情報の多寡や立場にだけ因っているのではない」
08日(土)「同じ現実を共有しているのだが、異なる現実を生きているということはありうる」
07日(金)「時代と世代と地域の異なりが前提の導入を阻む。つまり、順番が違うということ」
06日(木)「原初的な姿を希求することと始原的な次元に遡ることを混同することは破滅的だ」
05日(水)「多様さの単一性は物語を霧散させるかのように思われる。しかし、そうではない」
04日(火)「否定することにより暗黙に肯定するということしかできない人こそ、危険なのだ」
03日(月)「孤独の繋がりが連帯する危険を否定はできない。だが、それは危険ではないのだ」
02日(日)「学問を作品の領域に引き込もうとすることは狭い孤独からの逃避行かもしれない」
01日(土)「涙を流して怒りながら笑っているとき、その人はどのような気持ちなのだろうか」

2008年10月

31日(金)「人を情報のパッケージとすると、生命は情報に信頼を付与するための装置だろう」
30日(木)「憧れの人にこれからも憧れていたいと思うのなら、憧れの人に触れてはいけない」
29日(水)「ひとつの手法にこだわる必要はない。より広範囲を覆う明晰さを目指してもよい」
28日(火)「信頼できるのは自分だけだ。そう思うからこそ、僕は人の信頼を裏切りたくない」
27日(月)「きっちりと理解しうるものは理解した瞬間に理解したという事柄を忘れてしまう」
26日(日)「経験のうちに研ぎ澄まされる牙もあれば、孤独のうちに練り上げられる牙もある」
25日(土)「才能あるいは天才に惹かれるときにのみ、あらゆる属性は付随的なものに見える」
24日(金)「個人としての絶対的意見を表明したあとにその相対性を強調されると興醒めする」
23日(木)「虚栄に身を費やすことと同じように、虚衰に身を窶すことも白々しいものだろう」
22日(水)「理性の溜息に感情は溜息をつく。理性が目を瞑るとき、感情が首を振るのである」
21日(火)「練磨に伴う虚しさは愚かさに反射する洞察である。閃きはその刹那に価値がある」
20日(月)「悲観的な態度を研ぎ澄ますことは、楽観的な態度でいることよりも遥かに難しい」
19日(日)「いや、道のさきに進もうとする限り、そこに決定的な孤独などないのではないか」
18日(土)「道を歩むうちは人を感じることができる。決断は、そこからさきをどうするかだ」
17日(金)「眠ろうとしないとしても、眠ることができないということは影響を及ぼしている」
16日(木)「眠れないのが恐ろしいから倒れるまで起きているというとき、私の意志は優しい」
15日(水)「リサーチとは個人の仕事である。複数で取り組むのはプロジェクトに他ならない」
14日(火)「研究とは独りきりの作業である。どのような助け合いも、根底にあるのは孤独だ」
13日(月)「尖っていないと研究できない。しかし、楽しくなければ研究しているいみがない」
12日(日)「記憶を悔悟のうちに弾けさせるのは事態の過酷さよりも、無力さと惨めさである」
11日(土)「形をなそうとするときに伴う虚しさに飲み込まれそうになることは自然なことだ」
10日(金)「右や左はどこにあるか。もちろん、どこにもない。その問い方は誤りなのである」
09日(木)「やれる人はやるといい。それを止めるのは、それを止められる人に任せたらいい」
08日(水)「完全なる支配とは、支配されることに安心感を抱かせるものでなければならない」
07日(火)「あまりにも能力に開きが生じると、その差を認識できないようになるものである」
06日(月)「知識状態の変化の度合が高いからといって世界観の変容をもたらすとは限らない」
05日(日)「閉塞による傲慢も解放による怠慢も日常生活の根底に密かに滑り込む危険はある」
04日(土)「後戻りできないほど理解してしまうと、理解できないことは悪い冗談でしかない」
03日(金)「自分に見合う目標を適切に設定できる人間なら、もとから時間を無駄にはしない」
02日(木)「溌剌とした活力に惹かれるとき、その奥底にある狂気との振幅に魅せられている」
01日(水)「自分に自信を持たないままに自分の自信を失わないことなど、できるのだろうか」

2008年09月

30日(火)「平等化圧力が高いほど、差別は生じやすい。あきらかな差異は差別を助長しない」
29日(月)「大声を出すと楽しい・楽になるというのは、どういう精神状態を示しているのか」
28日(日)「哲学することに哲学は首を絞められる。哲学的たろうとするとき哲学は窒息する」
27日(土)「自分にしかできないことを見付けられた人はそう簡単に絶望には堕ちないだろう」
26日(金)「主導権を握ろうと思うなら、自分の弱さも相手に託せるようでなければならない」
25日(木)「信頼の連鎖が信頼を担保する。最初の一人を無条件に信頼できるなら参入できる」
24日(水)「科学の神は信仰を必要としていない。その活動の先に求められるのを望むだけだ」
23日(火)「会話の内容が具体的か抽象的かの判断は、相手の依拠する現実に応じて変化する」
22日(月)「意思と意志は構造的に同じ事柄を意味するが、定位する現実が異なるのだろうか」
21日(日)「そうだと思っている事柄とそうだと思うように決めた事柄の違いはどこにあるか」
20日(土)「信念が問題になるのはどのような場面だろうか。それは現実に定位しているのか」
19日(金)「信念とはなにか。それは「なに」という仕方で尋ねることの適切な対象だろうか」
18日(木)「異なる現実を跨いで矛盾する信念を持っているということはありうることである」
17日(水)「複数の現実を理解できるとき、複数の言語を理解できていると言うこともできる」
16日(火)「人が曖昧さに期待するのは、単に未確認であることを希望と錯覚するからだろう」
15日(月)「より穏当な処置は、想定される問題を事前に察知し、未然に対処することである」
14日(日)「現実の変換による対処には、問題の解消の他に、問題の回避と問題の無視がある」
13日(土)「問題を解消するというのは、その問題を定位させる現実を切り替えるということ」
12日(金)「現実のあり方を衝突させることは精神の不経済であるが解消することもできない」
11日(木)「個人としての絶対的意見を表明したあとにその相対性を強調されると興醒めする」
10日(水)「才能あるいは天才に惹かれるときにのみ、あらゆる属性は付随的なものに思える」
09日(火)「嫌われている人間に好かれようと試みるよりは、認められようとしたほうが早い」
08日(月)「わかりやすい危険にしか注意を向けないということこそ危険なことに他ならない」
07日(日)「行為の価値に疑念を抱かないでいられる人は、生きるための適性に恵まれている」
06日(土)「通常、人は多数の現実に感染して成長する。人は現実を通して世界を眺めている」
05日(金)「しかし、仮に私的言語を認めるとしても、それは各個人の現実として表象される」
04日(木)「このとき、世界とは私の世界である。私の想念の限界が、私の世界の限界である」
03日(水)「一見、出鱈目な想念だとしても、それを世界と一致させることは不可能ではない」
02日(火)「個人と世界とが直接的に対置するだけなら、内外の分節化は不整合を起こさない」
01日(月)「内側から限界を定めるとき、内側と外側は同じ構造を有していなければならない」

2008年08月

31日(日)「私という境界が内面と外面を分離する。この区別は外部の事柄には触れていない」
30日(土)「内面と外面を一致させるような独我論は、その境界にもう一人の私を内在させる」
29日(金)「自分のあり方の根拠は外部の、ほどほどの距離に求めるのが穏当な生き方だろう」
28日(木)「独我論は世界のあり方を記述するものではない。現実のあり方を既定するものだ」
27日(水)「単純な話:想念のない人にとっては、自己のあり方などどうでもよいことである」
26日(火)「純粋な独我論は忘我を求める。その意味合いにおいて、それは実在論と符合する」
25日(月)「独我論は内面の喪失に漂着する。ただ、それが間違いであり不要なわけではない」
24日(日)「私は私の総体において相対化される。自己とは存在ではなく、現実の問題である」
23日(土)「統一的な私と均一的な私の扱いを分けたいとき、人間は効率を求めて序列を作る」
22日(金)「そこには運動と変化の軌跡がある、変化を変化たらしめる基体は規約としてある」
21日(木)「私の通時性は連続する経験の記憶を空間的に把握しようとするときに意識される」
20日(水)「童心に還るというとき、人は見慣れた光景の一回性を追体験しているに違いない」
19日(火)「定点としての主体は、ないといけない・あるだろうという仕方で要請されている」
18日(月)「自己の同一性はまずもって社会的な問題である。それは個人的には問題ではない」
17日(日)「私が内面を通してなにかを見ようとするとき、私は円周上の点として立ち現れる」
16日(土)「私を環や球面としてみることも可能だろう。そうであるとしても不思議ではない」
15日(金)「基体を中心とした同心円的な自己というモデルに説得力を感じるのはどうしてか」
14日(木)「どこから問題が始まるのかではなく、どこで問題が生じているのかが重要なのだ」
13日(水)「感じている内容を捉えようと思ったら、言語によって類型化して語る必要がある」
12日(火)「人間の斉一性を前提してなされる活動においても、現実の自律性は当てにされる」
11日(月)「純粋科学は、現実の自律性、対象言語の自律性を前提にしてなされる活動である」
10日(日)「求められる解答が実在するという信念のもと、問題もまた実在すると考えられる」
09日(土)「擬似的な問題であっても、その限りにおいて人によっては十分に問題でありうる」
08日(金)「解答を与えうる枠組みを用意するか、問題を解消する枠組みに変換するかである」
07日(木)「解消することも解決することもできない問題こそが、擬似的な問題に他ならない」
06日(水)「対処:擬似的な解答を与える。問題を解消する。問題を解決しないまま保留する」
05日(火)「解答のある問題と解答のない問題がある。必ずしも後者が擬似問題とは限らない」
04日(月)「適切な曖昧さは、存在に求められるのではなく、現実に担保されるのが望ましい」
03日(日)「周囲に既知の事柄をまとめそこに安息する人は、曖昧な存在を求めるようになる」
02日(土)「人は法則化を求める。現実は矛盾を含まないように安定した状態にまとめられる」
01日(金)「あらゆる認識は現実とともに始まるが、認識は現実から生じているわけではない」

2008年07月

31日(木)「だからこそ、社会はそれなりに理屈に沿って運営され、ある程度、安定している」
30日(水)「人は元から十分に倫理的であるし、論理的でもある。人はその直観をもっている」
29日(火)「時空のなかに位置をもたない対象を扱うとき、私はいったいなにをしているのか」
28日(月)「人に優しいといわれる人の、その優しさのために、人は傷付けられることもある」
27日(日)「人を癒す接し方とは優しさや厳しさを伴うものではない、単に接することである」
26日(土)「詳細を知っているにも関わらず、「なに」の詳細なのかわからないことはあるか」
25日(金)「知っている状態から、さらに当の事柄の詳細を知るということは不思議ではない」
24日(木)「知っていると思っていたのに「実は知らなかった」ということは常に起こりうる」
23日(水)「証明してしまっているのにそのことに気付いていないということはしばしばある」
22日(火)「語ることによって示すことのみをできるとき、その語りは豊かに洗練されている」
21日(月)「知っていると語ることと知っていると示すことは異なる。これは演出の差である」
20日(日)「知っていると言うとき、知っているということを知っていることは含意している」
19日(土)「知っているということと知っていると知っていることは、どのように違うだろう」
18日(金)「自転車の乗り方をどんなに記述しても、自転車に乗れるようになるわけではない」
17日(木)「世界と言語を区別して思考することは、演繹科学にとっては基本的なことである」
16日(水)「知識を武器にしうる者にとり、物知りであるという誇りは最低限の自尊心である」
15日(火)「知っている自分を誰かに知られていないと自信を持てないのは人の性なのだろう」
14日(月)「間違うことや他愛ないという評定を恐れているうちに人との接点を失ってしまう」
13日(日)「狭い世界に生きているというのは、少数の現実の狭い領域を抜け出せない状態だ」
12日(土)「取るに足りない気付きに過剰な感動を覚えたことを恥じるのはやはり成長だろう」
11日(金)「当然のことながら、対象言語とメタ言語という区別は言語に属する区別ではない」
10日(木)「私が従いたいと思うような私の規則というのはそもそもどのようなものだろうか」
09日(水)「現状の維持に手一杯な状態の人に、自己顕示と権力を志向させることは酷だろう」
08日(火)「ひとつのコミュニケーションを見せるということはその共犯関係の密度を高める」
07日(月)「自分の有する前提と現実を顕示することで、現実の感染力は高めることができる」
06日(日)「奇妙なことに、人間は自己を表現しようとしていないと生きていられないようだ」
05日(土)「図々しい人間に、鈍感な人間にならなければ、得ようとすることに耐えられない」
04日(金)「現実はコードの総体に留まらない。癖や含み、現実のあり方すら造付されている」
03日(木)「底流に無常観を有する人間は、個我の境目を曖昧に保つことに耐性をもっている」
02日(水)「万能ではないことを惜しむとき、自己の視野を意識した思索は始まったのだろう」
01日(火)「古来、人間は有限性により境界を引いてきた。いや、非無限性により引いてきた」

2008年06月

30日(月)「できないのならいい。できるのにやらないということは次第に自分を追い詰める」
29日(日)「毎日続けること。これはなにに関してもそうだ。それはきっと特別なものになる」
28日(土)「思考において明確に構成でき、それを表現しうるなら、それは存在しうるだろう」
27日(金)「実在しないのに存在すると想定してよいのは、現実に定位できるものだけである」
26日(木)「脱現実に神秘を見るのなら、それは神に秘されたのではなく人間に隠されている」
25日(水)「現実の一部を空洞にし、それを非現実で補完するとき、神秘に位置が与えられる」
24日(火)「人間は現実を介さずに世界に面することもある。体験とはその次元にあるものだ」
23日(月)「定義とは、言語に対してなされるものであり、存在に関してなされるものである」
22日(日)「同じ構造をもった現実が異なる容貌をもって現れることはまるで不思議ではない」
21日(土)「私たちは、彼らに人間と認めてもらえるだろうか。人間は十分に人間的だろうか」
20日(金)「それは、あらゆるものに生命を感じ、それに足る敬意を払うということとは違う」
19日(木)「家庭のなかの動物を家族と見なすとき、そこにある愛着を異常に思うことはない」
18日(水)「人間的な付き合いを交わすことに関して、人間であることは大して重要ではない」
17日(火)「私たちがそれを人間と認める。これは生理的・倫理的・政治的な問題ですらない」
16日(月)「単純な話:「人間」の定義を改め、彼らを人間と認めるのなら彼らは人間である」
15日(日)「「人間」という語は当の人間たちを固定的に指示する。そこに機械は含まれない」
14日(土)「人間の心を持った機械は人間だろうか。このような問いは言語的に混乱している」
13日(金)「曖昧さは現実的である。もし曖昧さを求めるのなら、あらゆるものは曖昧である」
12日(木)「生命と非生命の境界は曖昧である。しかし、その曖昧さはひとまず問題ではない」
11日(水)「存在の水準が持ち上がっているのなら、同様に、生命の水準も持ち上がっている」
10日(火)「現実もまたひとつの事実である。現実のまとまりは二様の仕方で形作られている」
09日(月)「人の現実には生命と結託している現実もあれば、半自律的で無自覚な現実もある」
08日(日)「生命は現実に感染することから世界に接する。環境を受け容れることから始まる」
07日(土)「「物理的世界」という表現は「科学的世界観」という表現に置き換え可能である」
06日(金)「事実と虚構は等しく現実的でありうる。人間はその両方から十分な影響を受ける」
05日(木)「原初状態を想像することは、それが過去にあったとしても虚構のうちにしかない」
04日(水)「ただ、より実践的には、私たちは最初から生産された世界に産み落とされている」
03日(火)「世界は再生産されたと同時に生産されたのだろう。その過程こそ最初に生まれた」
02日(月)「存在の水準の持ち上がりは人間とその思考を対象化しようという試みから始まる」
01日(日)「私たちは生命を持っている。生命とは現実を結束している紐のようなものである」

2008年05月

31日(土)「人との接触で内部に生じた摩擦を滑らかにしようとする働きも活力には違いない」
30日(金)「人称のないものを相手にしようとすることによって、現実の地平面は開拓される」
29日(木)「音読し、対話するということ、その要はコミュニケーションを図ることではない」
28日(水)「過不足のない記述というのはどういうものだろう。それはなにのためにあるのか」
27日(火)「誰もが気付いているのだとしても、それを魅力的に語ることはそう簡単ではない」
26日(月)「理解の積み重ねにより描かれる模様の変化に伴い、ときに現実自身も変容しうる」
25日(日)「理解の組み合せにより抱かれる現実は変わりうる。それらの平面は連動している」
24日(土)「些細な理解の積み重ねから、理解の大きな模様が描き出されるということもある」
23日(金)「理解した状態とは安定した状態である。二者間においては一種の平衡状態にある」
22日(木)「人間はきわめて自然に互いを知り合おうとする。互いを理解し合おうとしている」
21日(水)「人は生まれながらにして知ることを欲する。そして、知られることも欲している」
20日(火)「人はときに知らないことを欲する。人はときに知らないままの状態に安心をする」
19日(月)「現実とは、言語によって分節化された他者との共有可能なコードの総体だろうか」
18日(日)「現実を各人に個別のものとしているのは、その現実と生命との結束に他ならない」
17日(土)「現実は各人に固有のものとは限らないが、各人に個別のものということはできる」
16日(金)「私の現実は私だけの現実とは限らない。私以上に私の現実を知る人は存在しうる」
15日(木)「なにかを語るとき、なにか語ろうとせずに、そのなにかを語っていることはある」
14日(水)「私の理解を表現したとき、私だけがそれを理解できないということはありうるか」
13日(火)「理解するとはどういうことか。わかっていることと知ったことの対応にあるのか」
12日(月)「自身のうちにある諸現実の境界を意識するとき、そこにある前提は露わにされる」
11日(日)「人は知らぬうちに現実に感染している。だから、それに無自覚でありがちなのだ」
10日(土)「問題はどこにあるのか。それは現実のなかに、また、それを語るときにしかない」
09日(金)「現実が求心的な作用を強めるときには、その背景に特別な働きかけがあるものだ」
08日(木)「現実の感染力はそれに無自覚的な状態のときほど、人々をゆるやかに凝集させる」
07日(水)「現実は多元化しうるように思われるかもしれないが、実際にそうなることはない」
06日(火)「区別されるべきなのは現実である。生命は多様な現実と結びついて生活している」
05日(月)「当たり前のことではあるが、合理性を合理性から区別することなどできないのだ」
04日(日)「神秘主義的な合理性を科学的な合理性から区別することは、できるものだろうか」
03日(土)「完全な理解を宇宙との合一に求めるなら、その極致に至る神秘は多様にありうる」
02日(金)「現実を残すことのために、人はときに生命の謳歌を痩せたものにすることもある」
01日(木)「自分の欲するものを他者に提示するだけだとしても、その包容力は偽者ではない」

2008年04月

30日(水)「正の充足には負の停滞が先行する。それは一定の現実において、そうなのである」
29日(火)「人は納得したり、納得しなかったりする。どうして、人は納得できるのだろうか」
28日(月)「判断するとき、人は真理にコミットする。その真理は任意の現実に定位している」
27日(日)「現実を意識的に弁別し、諸現実を調整すること、こういうことが必要なのだろう」
26日(土)「意見の食い違いや混乱は、判断基準に異なる現実を用いている場合に生じやすい」
25日(金)「選好順序は通常、同一の現実において定められる。それがもっとも安定している」
24日(木)「価値観とは価値の組み合わせのことである。人は複数の価値をもって生きている」
23日(水)「真理の程度は個人の世界観と相互関係にある。真理の度合は方法論に依存しない」
22日(火)「前提は現実を隔てる。前提は現実の根底にあるというよりは、現実の境界にある」
21日(月)「なにかを前提とすることによってなにかを解決するというのは、どういうことか」
20日(日)「道徳を知る人が道徳的とは限らないように、幸福を知る人が幸福的とは限らない」
19日(土)「人は現実に感染するとき、現実の内容とともに、その現実のあり方をも受容する」
18日(金)「幸福はひとつの現実を形成する。ただ、幸福の現実と幸福な現実は異なっている」
17日(木)「人間ほど幸福に怯える生き物はいない。幸福であるときもないときも人は憂える」
16日(水)「幸福は、おそらく、人と諸現実との結合において成り立っているものではないか」
14日(月)「幸福な現実とともに生きることは、ときにその人を不幸にすることもあるだろう」
13日(日)「ただ、その現実がなにかしらの幸福を表現したり、示していたりすることはある」
12日(土)「現実の中で幸福が成立するのではない。成立する必要もないし、しても仕方ない」
11日(金)「人は雑多な現実を住み分けるが、生理的な反応を現実化することはとても難しい」
10日(木)「現実の感染により共有される常識において反発される因習は異なる現実をも含む」
09日(水)「忌まわしいからこそ効果があるとされるときのほうが、人々の生理的な絆は強い」
08日(火)「権力を無化するという手段は、権力を機械的に制御することからかけ離れている」
07日(月)「感情を基盤にしないような判断機構を構築することにより組織は安定させられる」
06日(日)「デザインされた社会は強力な現実を保有している。その強さが寛容さを生み出す」
05日(土)「忌まわしい因習を払拭するために持ち込まれる理屈はどうしたら理解されるのか」
04日(金)「迷信において漫然と生きられる社会はどのようにして幸福を目指そうとするのか」
03日(木)「根拠のない因果関係を打ち崩すことは、しばしば権力装置を打ち崩すことである」
02日(水)「啓蒙主義者は科学(的世界観)の発展により人々の生活は幸福になると信じていた」
01日(火)「真理は共有されうることを目指される。それは感覚を媒体とする場合でも同様だ」

2008年03月

31日(月)「宇宙の法則ほど万人に開かれているものはない、これもやはり前提にされている」
30日(日)「実験的な学問にせよ論証的な学問にせよ、真理が恒常的であることは前提される」
29日(土)「自然を制御できるということが、あたかも魔法のようにして、知を力に変換する」
28日(金)「科学的真理のもっともらしさは、その再現性にある。これは真理の普遍性に適う」
27日(木)「それによってなにが可能になるのかという仕方で真理を理解するのは穏当である」
26日(水)「どの現実が正しいかと問うことは不適切である。それは非常に誤解を招きやすい」
25日(火)「人間のいない世界の像を現実として描写することだけが真理の探究なのではない」
24日(月)「10や20の様式の可能性を列挙したところで、相対化による危険性は深刻ではない」
23日(日)「真理の対応説と真理の剰余説はともに正当だろう。これらは特に矛盾していない」
22日(土)「しかし、真理を対象として扱うといった仕方で現実を整理することも可能である」
21日(金)「真理を対象のように扱ってしまうことに不備があるという語り方は可能ではある」
20日(木)「私は世界の全体性に戦慄することよりさきに、むしろ、現実の個別性を自覚する」
19日(水)「個別の宗教的実践において、はたして真理はどのような働きをしているだろうか」
18日(火)「宗教的真理は可能性こそ開かれているものの真理自体は私秘的な領域にしかない」
17日(月)「人は能動的に現実に関わろうとすることによってのみ、現実の感染を制御できる」
16日(日)「感染ということによってしか現実を受け取らないなら、思考とは常にメタである」
15日(土)「文脈とは整理された現実に他ならない。メタ的考察は現実を筋道立てようとする」
14日(金)「メタ視点からの考察は知識を文脈に回収するために必要とされるものでしかない」
13日(木)「そうであるところの事柄を主張するのに「真理」という語はまったく不要である」
12日(水)「真理として提出される言明は、正しさへのコミットメントが純粋であると言える」
11日(火)「科学的世界観が優秀なのは与えられた真理を一定の仕方で確認できることにある」
10日(月)「事実よりも虚構の積み重ねのほうが現在を生きる人の精神に適うことはままある」
09日(日)「現実の堅牢さをいかに高めようとも環境と調和しない現実は儚いというほかない」
08日(土)「大勢の人間に共有されている現実は環境と調和するというところで安定している」
07日(金)「もし現実として把握できているなら、それは自己と周辺環境の齟齬の問題だろう」
06日(木)「人の内面の問題はその人の現実のなかにはない。現実化できないから問題なのだ」
05日(水)「ここではないどこかへのチャンネルとしての現実に感染するときオカルトになる」
04日(火)「語りにおいては、それらも任意の現実を形成しうる。問題は排他性の強弱にある」
03日(月)「形而上学が神学と親和性をもつのは、それらがともに世界を扱おうとするからだ」
02月(日)「世界のあり方、世界を包摂するような世界観は宇宙観ということができるだろう」
01日(土)「人は思考において、あらゆるものをあらゆる仕方で分解し、再構成しようとする」

2008年02月

29日(金)「神話や神秘思想にみられる始原的な一の物語に人間の生活を分解する能力はない」
28日(木)「宇宙観の樹状モデルに欠点を探すなら、それは本来、モデルではないということ」
27日(水)「必然的に調和の生じる次元というものを想定してみよう。それは平衡面だろうか」
26日(火)「美しさは必ずしも同じ大きさではない。そして、ときに美しさは人を欺きもする」
25日(月)「人は美しいと直感する体系・構造・解法に惹かれ、その逸脱にも精力を注ぎ込む」
24日(日)「それは結局、完全であることをどこから観察し、言及しているかによるのである」
23日(土)「完全なものはそれを語る言葉によって不完全さを纏ったものとならざるをえない」
22日(金)「真理とその理解を語るとき、私は唯美主義と実利主義を往来したりはしないのだ」
21日(木)「探究の果てに、私は真理を発見する。真理は決して発明されているわけではない」
20日(水)「真理の程度は方法論に依存し、また、方法論は個々人の世界観と相互関係にある」
19日(火)「個別の規定の真理らしさを問うのなら、その真理は性質として振舞うことになる」
18日(月)「言葉を定義するときに存在は要請できる、しかし、実在を確保するとは限らない」
17日(日)「真理は一般的で普遍的とは限らないのか。たしかに現にそういうことはありうる」
16日(土)「真理にも程度はある。選択的重力の法則にも真理らしさはそれなりにあるだろう」
15日(金)「物理法則や論理法則に変化する可能性があるように真理の真理性も変化しうるか」
14日(木)「証明する手段や方法の違いによって、真理として扱われる事柄は変化するだろう」
13日(水)「私は真理を示さなければならないが、同時に私は真理らしさを語らざるを得ない」
12日(火)「役に立たない真理は真理ではないなら、真理の道具化には有用性の考察が必要だ」
11日(月)「私は真理になにを期待するのか。なにも期待していない。そこに効用は現れない」
10日(日)「ある事柄が相対的であると言うとき、私の視点はそれらを比較できる位置にある」
09日(土)「正当性は内容に付随するものなのか。違う。正当性は内容の正当化の過程にある」
08日(金)「世界観が相対的であるなら、個別の価値に依存する真理の正当性も相対的になる」
07日(木)「主観性は客観性をある程度まで侵食しうる。しかし、それは客観性の拡張なのか」
06日(水)「個人の現実は世界のうちにある。しかし、諸現実の総体が世界であるのではない」
05日(火)「私が私の責任において決断するとき、私は私の現実を世界のうちに投げ込むのだ」
04日(月)「父性的な克己も母性的な救済もそれによりさらに生き続けられるのなら問題ない」
03日(日)「人生を経済する発想は無駄ではない。人は進まなければ振り返ることができない」
02日(土)「ただ、その種の欺瞞を検討する必要はない。そうした手段はその目的に適わない」
01日(金)「真理言明の正当化は、権力行使の正当化と同化しうる。この側面は無視できない」

2008年01月

31日(木)「私に正しさを保証する必要はあるのか。どうして、私は正しさを保証したいのか」
30日(水)「この検討は最終的に人間の認識における自然と規範の互助関係に遡ることになる」
29日(火)「差し当たり、それに尽きるというほかない。私たちの認識は言語と密着している」
28日(月)「理想もやはり、私たちとの現実的な関わりのうちにその姿を現すほかないだろう」
27日(日)「現実的な関わりとは、知覚可能な仕方で表現されることだけに尽きるのだろうか」
26日(土)「理想的な状態として彼岸にあるものとして措定するなら、それは別の問題になる」
25日(金)「語の側から規定される当のものを恣意性を排除した仕方で画定できるわけはない」
24日(木)「客観性が現実に絶対的であるなら、そもそもそれを定めることができないだろう」
23日(水)「人の求める客観性は慣用的にいって、さして客観的でも絶対的でも確実でもない」
22日(火)「客観性にどれだけの絶対性を求めるかということに潔癖だと、簡単に行き詰まる」
21日(月)「真理の私秘性を解除して真理の客観性を求めることはそう悲観的なものではない」
20日(日)「その真理の自明性に訴えかけても真理を語ることの必要性が失われることはない」
19日(土)「問いと答えが原初的に与えられているとしても、それらを把握する条件は異なる」
18日(金)「私が私の重要な人から生命を託されたなら、私はもう、自殺することを許せない」
17日(木)「君は自分の人生を誰かに託すかもしれない。しかし、受容されないかもしれない」
16日(水)「死を体験することはできない。まさか。私は死を体験するから、まさに死ぬのだ」
15日(火)「君の生命だけは君のものだ。誰からの譲りものでもなく、まさに君のものである」
14日(月)「知識の問題を扱うためにどのような態度をとるか。また、このことをどう扱うか」
13日(日)「どのような構成にせよ構造にせよ体系にせよ、記述的な定点は必要になるだろう」
12日(土)「それは背後に隠されているわけではない。しかしまた、目に見えるわけでもない」
11日(金)「それはある種の真理である。しかし、真理などと言った瞬間にそれは崩れ落ちる」
10日(木)「その世界にはあるものがある。そのうえ、ないものですら、あるようにしてある」
09日(水)「それがなにであるかよりも、それがどのようにあるかのほうが重要なのだろうか」
08日(火)「真偽を問おうとするなら、発話を文脈から切り離して永久化しなければならない」
07日(月)「私にとって私が存在するかどうかはさして重要でない。だが、問うことはできる」
06日(日)「私はどうして単数なのか。それはおそらく人には口がひとつしかないからだろう」
05日(土)「私はどこにいたっていい。これは場合分けのようなものだ。私だけは確実である」
04日(金)「それ以上の変化の多様さを見込めないとき、その生命は地に根を張ったのである」
03日(木)「生命の消失の本質的重大さはその人が自分自身に関して有する情報の消滅にある」
02日(水)「存在と実在は区別される。存在しうるもののすべてが実在しているわけではない」
01日(火)「人生は生命に結束されているときも拡散している。共有と感染はその途上にある」

2007年12月

31日(月)「生命の消失と人生の消滅は異なる。存在の一部が透明になるとき生命は消失する」
30日(日)「その人の死を知ることによって、自分のなかのその人はなにか変化するだろうか」
29日(土)「変項の値になるものはたしかに存在しうる。しかし、変項はいかに得られたのか」
28日(金)「存在は問うことに価値を有する。どうして存在を問うのか。それは自明ではない」
27日(木)「存在と存在言明はどう関わっているのか。これには、細やかな説明が必要になる」
26日(水)「存在する、と言うことは、それ自身と同一である、と言うことほど自明ではない」
25日(火)「人生は存在を通して与えられる。彼と彼の現実を通して、彼の人生は与えられる」
24日(月)「私は私の人生を完結したものとして観照しうる。ここに様々な困難も立ち現れる」
23日(日)「特定のありふれた観点をあえて掬うなら、当該の人物の生死は些細な問題である」
22日(土)「各々の世界観に生命が内蔵されているかどうかは、常に確認を要する事柄である」
21日(金)「極端な例:死ぬことによって、より豊かな存在を保証されることすら、ありうる」
20日(木)「個人の視点は些細な問題になりうる。唯一性の幻想は人に自由と不自由を与える」
19日(水)「人生とは事実のみから成るのではない。この結論は、存在の性格に依拠している」
18日(火)「その人が存在しなかったのなら、その人の人生もまた、ない。これは必然である」
17日(月)「その人の生きている人生のうちにその人の死は現れない。人は人生を完結しない」
16日(日)「その人の生きている人生とその人の残した人生は異なる。どうして、異なるのか」
15日(土)「一連の諸事実とはなにか。それはその人に関わる諸事実である。これは循環する」
14日(金)「人生とは存在の軌跡である。それは諸事実を積分するときに現れるかもしれない」
13日(木)「私たちの人生は決して事実から始まるのではない。事実のなかに人生は現れない」
12日(水)「信じてしまっているということはどうして起こるのか。これも重要な問題である」
11日(火)「変化したあとに成立することは変化するまえに成立しうるかどうかに依っている」
10日(月)「分析の物語は主に過去を相手にする。この場合、現在形は永久性を表現している」
09日(日)「事実のみを獲得することはできない。私は常に、事実を補完する領域を想定する」
08日(土)「根源を求めて縮約された事実の総体はもはや‘元の’事実の総体ではないだろう」
07日(金)「最初からそこにあったという原初的体験すら相対的なことに不安定さは起因する」
06日(木)「あらゆる拡張された現実は基底的事実に縮約されうる。事実を基底にするならば」
05日(水)「自己の透明さすら要素にすぎないとするなら、わたしたちはどこまでも飛翔する」
04日(火)「現実を介して事実は拡張される。わたしたちはどこに生きるのか。これが重要だ」
03日(月)「人の判断も言語を介して対象化される。このことは慎重に理解しないといけない」
02日(日)「人の現実をも含むように世界を再生産するとき、存在の水準は持ち上がっている」
01日(土)「あるがままにある世界というときの「あるがままに」は「原初的」を意味しない」

2007年11月

30日(金)「組み込むことはできる。むしろ、そうすることによって、世界は更新されている」
29日(木)「擬似的なメタ言語を対象言語に組み込むように擬似的な私を世界に組み込めるか」
28日(水)「私が「私の存在」というとき、それは基底的であるがゆえに擬似的に現れている」
27日(火)「学問的語彙の理解に必要な日常言語の把握からして、世代によって異なっている」
26日(月)「価値観とは各人の諸価値の選好順序である、価値観と世界観とはステージが違う」
25日(日)「なにを観照するのかという目的に応じて世界観は切り替えられなければならない」
24日(土)「なにを基底的な価値とみなすかに応じて現実は整理される。諸現実は独立しうる」
23日(金)「私は私の世界のなかに生きはしない。私は私の世界とともに生きているのである」
22日(木)「ここでいう「私の世界」とは私の現実である。それは私の「世界の観方」である」
21日(水)「私の存在はどこに位置づけられるか。世界が私の世界ならそのなかに私はいない」
20日(火)「ここでいわれている私自身というのは私の存在から私の現実を除いた残余である」
19日(月)「一方は私の現実に組み込まれたのであるし、一方は私自身に響いたのに違いない」
18日(日)「人生に付加されることもあるし、人生のあり方が変容することもまた、ありうる」
17日(土)「認識と言語が不可分に密着しうるのなら、信念もまたそれらと密着しうるだろう」
16日(金)「私の人生になにかが付加されるとき、私は私の判断や行為に影響する信念をもつ」
15日(木)「信念とは決意か、そうではない、ただ、そう理解する言語使用はありうるだろう」
14日(水)「ある信念を私の信念と言うとき、私はその信念を自己において了承したのである」
13日(火)「言語理解の絶対性を内包した遠心的発想はときに破壊的であり、不寛容でもある」
12日(月)「固い信念には神秘的な力がある、これは第一に願望であり、第二に処世訓だろう」
11日(日)「信念と信じる行為は異なる、これが同化するとき信念は自己に対する教条になる」
10日(土)「信念の強弱とはなにか、それは信念を保持する態度の頑強さ、態度であるだろう」
09日(金)「信念とはなにか、そう問われたらどう応じるか、これは慎重にならねばならない」
08日(木)「私たちは信じてしまっているときよりも、むしろ疑いのなかにあるときに信じる」
07日(水)「信じるということは判断に影響を及ぼすだけでない、それ自体もまた判断である」
06日(火)「これは二値を極端に有する尺度に連続的なグラデーションを持たせたのではない」
05日(月)「疑うことは信じないことではないし、また、信じることは疑わないことではない」
04日(日)「あらゆることを常に疑い続ける人は、はたして自分が疑えることを疑うだろうか」
03日(土)「人間の内的活動において、信じることが伴っていない事柄はないように思われる」
02日(金)「真理とは信念なのか、たしかにそうである、しかし、それはさして重要ではない」
01日(木)「ただ、私に保証できないからといって困ることもない、単にそれだけの話なのだ」

2007年10月

31日(水)「どのような真理定義の真理性をも私は保証できない、真理の正当化は循環を伴う」
30日(火)「真理を厳密に定義することもできる、彼はこのとき真理を道具として使うだろう」
29日(月)「理念のあり方は個々の価値と対応している、一般に、理念には強弱があるだろう」
28日(日)「個々人の探究の奥にどのような理念を発見しうるかは、彼らの世界観に依存する」
27日(土)「より高い場所にいたときに見た記憶によって、低いところを進む技術は養われる」
26日(金)「私が内なる太陽を自覚するのなら、私は太陽すら洞窟のうちにあったのだと悟る」
25日(木)「求道的な姿勢というのは魅力的ではある、皆がそうなら、どれだけ静かなことか」
24日(水)「意味論的に降下し、実践において示すには、語る者を無視する態度が必要となる」
23日(火)「循環することを嫌悪することはない、むしろ、有意義な反復こそが現実を育てる」
22日(月)「世界は各人の現実を受容し吸収することで、意味を帯びたものとして生成される」
21日(日)「世界の客観性はなにに担保されているのか、それは世界を同定する人々にだろう」
20日(土)「主観に基いて客観を構成する、客観に基いて主観を定立する、ここに循環がある」
19日(金)「ここには主観と客観、相対と絶対という二項対立における説明のジレンマがある」
18日(木)「人は主観を客観的に把握する、その他にどうやって主観なるものを定立できるか」
17日(水)「人はどうして客観性を求めるのか、人は客観性をどのように用いているだろうか」
16日(火)「主観の限界にあるような「私」なるものを確信することは幸福な誤謬なのだろう」
15日(月)「客観の限界にあるような「世界」なるものを措定することは危険な統一でもある」
14日(日)「定冠詞付きの世界が消失するとき、定冠詞付きの人格もまた消失しているだろう」
13日(土)「集まりのなかから自然に生じた常識は規範性を帯びることで独立した領域となる」
12日(金)「ゆえにこの常識は公共的ではあるが、客観的ではありえないということがわかる」
11日(木)「この意味合いにおいて、常識は常識ではないということは常識であると言いうる」
10日(水)「あらゆる議論領域は常識に底打ちされる、議論の成立に世界観はこうして関わる」
09日(火)「常識は確認するときに公共的なものになり、証明するときに客観的なものになる」
08日(月)「常識は明示化されることで、他者に把握される対象として認められることになる」
07日(日)「だから、常識と思われているものは公共的でも客観的でもない、その必要がない」
06日(土)「常識は現実の共有により生成される、常識は合意によって形成されるのではない」
05日(金)「現実が感染する以上、人間の現実は似通ったものになる、そこに常識もまたある」
04日(木)「大まかに言うなら、それは人に残す場合と、物に残す場合の二種類に分けられる」
03日(水)「したがって、人が存在を永続させたいと思うとき、それには二種類の手法がある」
02日(火)「彼自身と彼の現実、すなわち、彼の存在は二種類の影響力を内包した存在である」
01日(月)「人は表現されぬものに感染することもある、それは彼自身に感化されたのである」

2007年09月

30日(日)「具象化とは知覚可能な仕方で表現しうるということであり表現である必要はない」
29日(土)「現実とは具象化された思考とも言うことができる、思考は表現できる必要がある」
28日(金)「現実においては、実在も虚構も同程度の影響力をもった存在として認められうる」
27日(木)「普段、人は対象や存在について思考しない、思考は具象化されて影響力を有する」
26日(水)「なにを対象として認め、存在として措定するかは、それの属する体系に依存する」
25日(火)「私はいま世界のうちに、反省能力をもった人間とその現実を含めて考察している」
24日(月)「現実の不安定さは現実を構成する事態を形成する要素の不安定さに起因している」
23日(日)「当然、個々人の世界観は世界全体を見渡したものではない、それが現実の実態だ」
22日(土)「なぜなら、個々人の現実、個々人の世界観もまた、世界のうちにあるからである」
21日(金)「ただ、個々人の現実は世界を構成する要素ではある、世界は更新され続けている」
20日(木)「個々人の現実はそれぞれの世界を形成する、という言葉遣いは混乱を導きやすい」
19日(水)「世界と彼の現実が一致している領域はセカイになる、そのとき、世界は縮退する」
18日(火)「彼と彼の現実を合わせて私は彼の存在と呼ぶ、ある面、彼の存在は不安定である」
17日(月)「個々人の世界観を私は現実と呼ぶ、私の現実は他者の現実なしにあり得なかった」
16日(日)「価値は世界のうちにある、そして、私の世界観も、私とともに世界のうちにある」
15日(土)「価値とは世界の観方である、私は他者の世界観に魅了され、その価値に感染する」
14日(金)「価値とはなにか、価値は世界のうちにないのか、私はどこで価値を獲得したのか」
13日(木)「世界を観るとは一定の価値を規準にして己の認識を言語化することに他ならない」
12日(水)「感情のような内的な彩りは認識に影響を与えはするが認識のなかに現れはしない」
11日(火)「言語を学ぶという活動は、あらゆる学習がそうであるように社会的な活動である」
10日(月)「同一言語でも各界隈によって用いている言語が異なると言うことは奇妙ではない」
09日(日)「意志の伝達と意思の疎通は異なる、伝達は理解により疎通は共感により成される」
08日(土)「相互の信念を言語を介して把握するとき私の信念は私の認識に裏付けられている」
07日(金)「他者との伝達に用いられるのが言語なら相当数の表現は言語として認められうる」
06日(木)「私の認識は他者に伝達される限りにおいて私の認識としての身分を持ちうるのだ」
05日(水)「私は立派な人になろうとする、立派な人とはなにか、ここに人間の気高さがある」
04日(火)「我々はヒトという存在を擬人化する、やはり人は人になろうとして人になるのだ」
03日(月)「曖昧な豊かさは表出したいという意志と結び付いて様々な表現として姿を表わす」
02日(日)「僕は人間の内的豊かさを否定しない、しかし、それは神秘ではない、自然である」
01日(土)「私の認識が他者に影響を与えるためには、その認識はコード化される必要がある」

2007年08月

31日(金)「私の認識は私だけのものであるとするなら、それは「認識」という名に値しない」
30日(木)「世界を観るということは個々人の認識と関わりはするが、隠秘的な営為ではない」
29日(水)「こうして人は間抜けな問いを発するようになる、私はいったい、どこにいるのか」
28日(火)「物自体には到達不可能であり、物自体に到達しようとするものにも到達不可能だ」
27日(月)「直観の形式は人自体の性格に関することであって、語り得るものではないだろう」
26日(日)「種の本性により認識能力の差異はあるだろうけれど、それは身体的探究の範疇だ」
25日(土)「認識を成立させるためには概念の枠組を必要とするという発想は父性的なものだ」
24日(金)「言語上の問題を言葉遊びと嗤う人は、神秘主義者か不遜な形式主義者なのだろう」
23日(木)「いまや世界観も世界の範疇にある、そのとき存在は物自体から浮び上がっている」
22日(水)「世界観を統一するためになにをするのか。それは第一に用いる言語の統一である」
21日(火)「分野によって共有する世界観が異なることは当然ある。その逆も同じようにある」
20日(月)「世界があり各人の現実がある、言語があり各人の解釈がある、これは同じことだ」
19日(日)「各人の現実とは各人の世界観のことだ。しかし、世界を観るとはどういうことか」
18日(土)「人の影響を受けるとはどういうことか。それは、その人の現実に感染することだ」
17日(金)「各人の現実とはなにか、誤解を恐れずに言うと、それは各人の存在のことである」
16日(木)「現実は事実と虚構を含む、個体領域の置き方に応じて各人の現実が認められうる」
15日(水)「分析の最小単位をどこに設定するかは、構成要素の融通のしやすさで大体決まる」
14日(火)「解明のさなかにわかるのはおよそ常識の強固さであり、当たり前の精緻さである」
13日(月)「事実の溶け込まさっているような状況なるものを想定すると穏当に説明しうるか」
12日(日)「ここで事実の内的連結性ないし因果的連鎖を持ち出すのは論点先取ではないのか」
11日(土)「言語化されていない事実といった潜在的な豊かさはどこから引き出されているか」
10日(金)「事実や事実の総体を、人や人の用いる言語の恣意性から切り離すことはできるか」
09日(木)「実際、科学ほど盲目に信仰されているものもない、だから新興勢力に利用される」
08日(水)「信仰前提の変化というのは信じるものの変化ではない、信じる仕方の変化である」
07日(火)「信じるという行為の帰結は盲目的であるけれど信じるという行為は盲目ではない」
06日(月)「宗教を信仰するとはいかなることか、宗教の変化とは信仰形態の変化ではないか」
05日(日)「科学を信仰していますと言う人は、宗教を信仰していますという台詞も許容する」
04日(土)「「世界」に関する言語ゲームの多様化は、翻っては共通の基盤を探し求めている」
03日(金)「徹底した懐疑論が念頭にあるとき、判断は常に世界を規定する決意とともにある」
02日(木)「同一性言明は端的に事実を表現しているのではなく事実なるものを主張している」
01日(水)「他人の問題を他人の問題として受容するところに自分にとっての問題が生まれる」

2007年07月

31日(火)「他人の問題を自分の問題として思考するということに、僕は気持ち悪さを感じる」
30日(月)「僕は君に何も教えられない。それでも君に僕をもっと知ってもらうことはできる」
29日(日)「世界の理解というのは通常、相対的全体としての記号的宇宙を捉えることである」
28日(土)「現実を可能性の一種としてみることは、現実と現実の関わりのなかで価値をもつ」
27日(金)「擬人化と同一化というのは人の理解にとって非常に強力な装置であるに違いない」
26日(木)「事柄の単なる記号化はいまだ理解ではない、理解の対象は究極的には他者である」
25日(水)「コミュニケーションにとって規則や規約は本質的ではないけれど基礎的ではある」
24日(火)「我々はそこでともに論じ合うことのできるような何かしらの基盤を共有している」
23日(月)「語りを続けているうちに、語る必要のないことに語る価値が生まれることもある」
22日(日)「正義の要らない社会と正義が適切に行使されている社会は、どちらがより穏当か」
21日(土)「倫理的感性を普遍化して人を道徳的本性に閉じ込めようとする発想には辟易する」
20日(金)「純粋な私的言語は自覚すらされない。それは私的言語として言語を纏って現れる」
19日(木)「私的言語はもはや言語とはいいがたい。それは言語というより習慣に近いだろう」
18日(水)「私的言語は潜在的にはあり得るけれど、それを把握することは何者にもできない」
17日(火)「まったき私的言語を把握しようとする私は何者なのか。そうした者はあり得ない」
16日(月)「なにも隠されてはいない。その通り。そして、すべてが現れているわけでもない」
15日(日)「内側に向かって本質を探究する人は限界的なものとしてしか本質を把握できない」
14日(土)「内側と外側という比喩を用いるとき、その二領野を確認できることは前提にある」
13日(金)「集合論と圏論はともに適切な研究領域であるが、その相違はなにを含意するのか」
12日(木)「運動しているものと運動はどちらがより本質的なのかと問うことは適切であるか」
11日(水)「私が私という運動であるのなら、私として運動しているものはなにかと問われる」
10日(火)「私が純粋な作用であるのなら、私に働きかける私とはいったい何者なのだろうか」
09日(月)「比較不能な差異とはなにか。我々は比較不能な差異をどうして想定したがるのか」
08日(日)「私とあなたの視野の差異を説明するとき、私はなにを規準にそれを区別するのか」
07日(土)「もちろん、人間の言語実践はなにも形式的な世界の記述にとどまるものではない」
06日(金)「科学的世界のなかに自意識をもった対象を存在させることは穏当な見方ではない」
05日(木)「世界を記述する、というときに目的となるのは、なにかしら形式的な世界だろう」
04日(水)「宇宙の法則、物理法則や論理法則が我々の習慣を裏切る可能性すら残されている」
03日(火)「現実が論理を逸脱する可能性は常に残されている、それは論理的に残されている」
02日(月)「人生に勝ち負けはないけれど、それでもやはり人生は戦いの舞台ではあるだろう」
01日(日)「言語の意味は諸言語において解明される、文脈原理をさらに拡張するとこうなる」

2007年06月

30日(土)「私の理解は常に不充分であるように思われる、私は常に理解を更新し続けている」
29日(金)「私はなにを理解するのか。理解は状態なのか。むしろ理解するという活動なのか」
28日(木)「無根拠な豊かさや曖昧さ、自他の差異を最後の防波堤として認めるのは優しさか」
27日(水)「理解の全体を説明することはできるだろうか。理解の豊かさは幻影なのだろうか」
26日(火)「解明とはいったいなにか。それは説明ではない。いうなら、世界の開示だろうか」
25日(月)「私は表現されるものを表現しようとしてしまう。ただ、それは適切な姿でもある」
24日(日)「人はときおり必死に指し示そうとする。私とあなたというこの距離が階梯を生む」
23日(土)「我々は類推の山を体験する。より高所で見た記憶によって低所を進む技術がある」
22日(金)「我々は言語に飛び込むことにより意味論的に降下する。梯子はむしろ無視される」
21日(木)「規則の規範性を受容することは、それらの把握や理解や解釈とは根本的に異なる」
20日(水)「規範の必要を日常のなかに求めるのか有事のなかに求めるのかで方針は二分する」
19日(火)「規則の規範性はどこにあるのか、それはそれ自身に盲目的になるところに存する」
18日(月)「私が私の規則に従っているということは、実際、私の人生に何も付加していない」
17日(日)「我々は規則に飛び込む、人が規則に従うということはそのようにして生じている」
16日(土)「通常、規則に従わせることによって、規則に従うことを規則付けることができる」
15日(金)「こうした問いかけの場面に必要なのは説明や説得ではない、むしろ、慈悲である」
14日(木)「どうして私はその規則に従うのか、「規則」を自覚したときに人はそう問いうる」
13日(水)「ときにそれは打算であるけれど、規則に従おうとする意志が人を規則に従わせる」
12日(火)「本来、人は規則とともに生きるのであって規則に従って生きるというのではない」
11日(月)「規則の定立も改定もその適用に存する。行為と命題、実践と説明には間隙がある」
10日(日)「規則の定立とその改定を命題で把握しようとするなら、私の規則は不可能となる」
09日(土)「私が私の規則を改定するとき、私は私の規則に従って規則を改定できるだろうか」
08日(金)「私は私の規則に従いうるが、同時に私は私のその規則を改定しうる立場にもある」
07日(木)「同じことを違う表現で語れるとき、常にそれは分析が先に進んだことを示唆する」
06日(水)「独我の極北には忘我がある、私は私の世界を生きるということの不可能性を悟る」
05日(火)「自覚とは近似的なもので、一回性を極度に尊重するなら自覚することもできない」
04日(月)「ここでも選択肢は複数ある、世界観ということだとリアリティがもっとも重要だ」
03日(日)「超越論的な内部は超越的な外部に直結することで、自分を含めた世界を回復する」
02日(土)「独我的見解の最深層で人は宗教的になる、信仰という行為のもとで、誠実になる」
01日(金)「自分のあり方の根拠を内部に求めると、外部を切断することで独我論に漂着する」

2007年05月

31日(木)「あるということで最初に、無色の一を考えるか、未分の多を考えるかは生き方だ」
30日(水)「しかし、ある、それも、ただある、というものしか残らないのはおかしいだろう」
29日(火)「何かがあってほしい、なければいけない、やはり僕はそういう風に思ってしまう」
28日(月)「なにかを残そうとして壊しているうちは新しい視座には至らないのかもしれない」
27日(日)「思考し続ける私とは、メタ言語の外側に向かおうとする働きの軌跡のことである」
26日(土)「ここに形而上学的な私を措定する必要はない、作用に反作用が伴っているだけだ」
25日(金)「物語ることで同定される自己は常に読まれることで場所を保ち、場所を移動する」
24日(木)「認められないことに直面したときに私の分析は始まる、思考は探究の訓練である」
23日(水)「最初に何かを認めないと分析は始まらないのか、むしろ、それは逆ではないのか」
22日(火)「私となにも共有しない存在を他者というとき、他者は限界概念として彼岸にいる」
21日(月)「私と他者が大筋において似かよっているという信頼は無根拠ではあれ自然である」
20日(日)「他者に語ることで抜け道ができる、他者として語ることで、私は群れに帰属する」
19日(土)「限界概念としての基体には常に到達可能ではある、しかし、到達することはない」
18日(金)「悟性は意識一般について循環する、日常的な場面なら、それは本質的に思われる」
17日(木)「私自身を作用と内容とに分離しようとするとき、その「作用」は常に内容である」
16日(水)「感覚与件言語は独我論を引き寄せる、それはコミュニケーション不全の独我論だ」
15日(火)「いかに些細な差異であれ、そこに差異があるのなら、それは明らかな差異である」
14日(月)「語り得ない私を語りたい私、それこそ、私が本当に語りたかった私ではないのか」
13日(日)「ロゴスの精確さや精密さは、言語活動と言語体系の多様性と多層性のなかにある」
12日(土)「感じていることの豊かさを否定はしない、ただ、その客観性や現実性は疑わしい」
11日(金)「なにが証明されることになるのかが理解されないままに厳密な証明はなされうる」
10日(木)「理解しようとされる限り、私は常に誤解される、私は受容されなければならない」
09日(水)「言語の衣装を纏っている私、いや違う、私は言語的な私としてまさにここにいる」
08日(火)「私の跳躍を感じることはなにも不思議ではない、むしろ断絶と連続はそこにある」
07日(月)「としての私は私の人生という脈絡において問われねばならない、私は分析される」
06日(日)「私を統べる私、私を支える私、原子論的に私を構成しようとする試みは息苦しい」
05日(土)「意識主体である私はたしかにいる、もしそう語れるなら、僕はそれにひれ伏そう」
04日(金)「生の意味とは実際に生きてみせることだろう、私は生きるために生きてはいない」
03日(木)「行為が意志を示し、価値を見定めようとする、人は惑うことで内省し、自覚する」
02日(水)「語り得ない私を語ろうとするとき、私がどうして語るのかは示されねばならない」
01日(火)「閉じた自己規定が悪いわけではない、ただ、それは共同的な世界に不向きなのだ」

2007年04月

30日(月)「成立していないという仕方で成立し、知らないという仕方で知っている静の世界」
29日(日)「論理が語り得ないのは、写し取るという行為が私の具体化に本質的だからである」
28日(土)「私を対象化するときに、そこに自意識を入れることでモデルは根本的に変容する」
27日(金)「私を見る私の眼差しは他者の眼差しとなにも違わない、自覚において同等である」
26日(木)「私は私を裏切ることができる、私は私を殺すのではない、私は私に殺されている」
25日(水)「自殺者の魂を解放してやれないような自己論は不十分だろう、私は私に殺される」
24日(火)「私は変化する、変化しているほうこそ本質である、私は私の総体から自由なのだ」
23日(月)「内側にも客観性があるからこそ、内側の像の逆写像を外側に投影することもある」
22日(日)「彼は己の独我的世界に没入して行動しているにも関わらず、完全に実在的である」
21日(土)「無我夢中に何かをしているとき、私はいない、ただ没頭している行為のみがある」
20日(金)「端的な「私」はいない、いる必要性もない、私はただ「としてある」のみである」
19日(木)「根源的な場所において、私はない、ここにはいかなる不思議さもない、私はない」
18日(水)「主体としての私はないのではない、常に不定なのだ、主体を語ることはできない」
17日(火)「私の総体は主体としての私では決してない、私は収束しない、私は発散し続ける」
16日(月)「私の世界とは、私の総体に囲まれた領域のことである、私の世界は変化し続ける」
15日(日)「対象化された内側は、外側と同じだけの客観性をもって語られなければならない」
14日(土)「我々は言語を用いてこの連動を示そうとする、メタ言語の外側に向かおうとする」
13日(金)「私の内側と外側は究極的には厳密に連動する、この理想はミクロコスモスをなす」
12日(木)「環としての私に窓はない、その意味合いにおいて、私の豊かさは皆に同等である」
11日(水)「考察は生まれるのではない。考察は始まる。考察を始める何者かは前提にされる」
10日(火)「考察は始まる。内側の向こうに他者としての私を見るときに、私の考察は始まる」
09日(月)「私は私の外側を眺めるのと同じようにして、私の内側を眺めることもまたできる」
08日(日)「形而上学的な点としての私はおかしい、形而上学的な環ないし殻として私はある」
07日(土)「もし、私は私でしかないのなら、どうして私は私だと知ることができるだろうか」
06日(金)「主観が目的を目指すというよりは、目的を定めたときに主観が浮上するのである」
05日(木)「眼差しとは点から全体に照射する光ではなくて、全体から点に収束する光である」
04日(水)「「私」から「私の総体」に、「眼」から「眼差し」にヘッドウェアを換装しよう」
03日(火)「内側に程度はない、すなわち、私は内側と外側の境界、それらの限界にいるのだ」
02日(月)「内側の内側の内側にいる私は誰の内側にいるのか、どうして私は内側を知るのか」
01日(日)「能動・受動の二分法を前提にして「私」を探求することは厳密には間違っている」

2007年03月

31日(土)「その行為は損だと示唆することが諭しの本質であり、これは叱りより怒りに近い」
30日(金)「サドは自己言及的な性格のためマゾを含意しているが、マゾはサドを含意しない」
29日(木)「不条理をも受け容れる器を持たずして、不条理に陥らない器を構成できるものか」
28日(水)「思考行為が知覚可能な仕方で表出されるとき、それは常に破壊的活動としてある」
27日(火)「落ち込むことも許されない関係性において、停滞は生命の維持を含意していない」
26日(月)「距離感のあることが問題なのではない、距離感すらないということが問題なのだ」
25日(日)「意志を否定する意志はどうやっても相対的には思われない、意志は屹立している」
24日(土)「探究には目的がなければならない、しかし、探究行為それ自身も目的になりうる」
23日(金)「学習するようにして教授する、主張から我を消す技能は主張する人の人柄に宿る」
22日(木)「主張は主張する人がいて成立する、しかし純粋な主張はそれを超越して成立する」
21日(水)「価値があると思い込めることは才能だ、その価値に見合うだけの探究をすべきだ」
20日(火)「非時間的なものや無時間的なものは我々の時間に触発されていることで動きだす」
19日(月)「研ぎ澄まされる魅力もあれば、醸される魅力もある、いろいろあることが大切だ」
18日(日)「人間に寛容になるということは、滅私の姿勢を受容する用意があるということだ」
17日(土)「理想的な世界に住むのは危険だ、そこに住むのは理想的な人間ではないのだから」
16日(金)「大勢の人間がいるのに覗き穴は一個しかない、その覗かれる世界に人は住めない」
15日(木)「あるがままにある世界(1)に人はいるのか、いる、ただし摩擦はないものとする」
14日(水)「現に生きているということから、どこで・なにが・いかにという問いが生まれる」
13日(火)「超越論的観点を閉じるには上を無視するというより下を見ないようにすることだ」
12日(月)「生身の問題というのは構成されるものではない、その問題は現にそこにあるのだ」
11日(日)「私は常にひとり、それは間違ってはいないだろう、ただ、その態度が誤りなのだ」
10日(土)「世界を破壊することでセカイは濃密になる、しかし、その世界は空洞化している」
09日(金)「真理への意志、権力への意志、建築への意志、これらは欠いてはならないものだ」
08日(木)「意識→態度→体質→構造の順番が理想的だが、実効的には、この順番は逆転する」
07日(水)「できるということと同様に、やらないということを実質化することは強みとなる」
06日(火)「過去の言葉を大事にしすぎていては学識に血は通わない、たしかに死に体である」
05日(月)「期待は裏切られるものだ、裏切られても価値があるからこそ、それは期待なのだ」
04日(日)「事後的に規約化された言語のある世界に寄り添って「私」は産み落とされている」
03日(土)「人間の言語が複雑化した単なる信号であるとしても、それは構わないし仕方ない」
02日(金)「誰であれ、相手を一個の対等な人間として扱えないことを少なくとも僕は恥じる」
01日(木)「どれだけ武装したところで本質が無防備な万能感である限り、その人は間抜けだ」

2007年02月

28日(水)「しかし、視点は自由になる、人は自分の決意によって文脈を選択することになる」
27日(火)「その脅迫すら自覚されるときに、人は間違うことすらできない位置に立たされる」
26日(月)「自覚が肥大化すると過剰な疑問に襲われる、おまえは間違っていると脅迫される」
25日(日)「もちろんできる、我々は何に立っているのかを知らずに立っていることができる」
24日(土)「我々は自分の足の裏の下を一度も確認することなしに歩むことができるだろうか」
23日(金)「現実は世界よりも幅広い、しかし、世界にはそれを受け容れるだけの深さがある」
22日(木)「しかし、世界(2.063)においては、成立していないということすら成立している」
21日(水)「世界に多様性はない、世界の受けとめ方に多様性がある、現実は世界より幅広い」
20日(火)「何の目的もない人にとって、価値や存在にどれほどの真理が含まれているものか」
19日(月)「価値も存在も多相的である、目的を看取できぬときにそれを混同し本質を見誤る」
18日(日)「一芸万事に通じながらにして木を見て森を見ず、これでは相似性を追いきれない」
17日(土)「より大きな文脈との親和性を発見しつつ自分の異邦さを知るとき、壁は霧消する」
16日(金)「その価値にどのような態度をとるかということが、価値を現実化する契機となる」
15日(木)「価値が存在に寄り添うのなら、むしろ、価値を認めるという行為は独立している」
14日(水)「その敬いが憤りを生み、不和をもたらす、言葉にできぬ羨みとはそういうものだ」
13日(火)「美しいものに価値があるからといって美しからぬものに価値がないわけではない」
12日(月)「最適さや調和することの必要性を無視して鋭利な生命に涙するのは危険なことだ」
11日(日)「すでに自分が価値とともにあることを忘れるときに、人は価値にめまいを感じる」
10日(土)「もし人間の生命が対称的なのだとしたら人類の目的は母の胎内に還ることになる」
09日(金)「知ることによる楽しさを享受できたことのない人に、知ることの楽しさは難しい」
08日(木)「託す、託される、という事象を把握するためには、特別な感応力が必要とされる」
07日(水)「上に上にと登っていったら最上部が最下部に通じていた塔は、実に印象的である」
06日(火)「人間の言語使用の仕組みを解明しようという試みは、やはり組織的な試みだろう」
05日(月)「我々は通常、二階ないし一階や三階で生活している、それが無難で誠実な日常だ」
04日(日)「思考の海は否定的な水に満たされており、衝動的な感情の風は陸にも押し寄せる」
03日(土)「賢い人間の聡い言葉は身にしみる、しかし、僕の胸を抉るほどの理不尽さはない」
02日(金)「語る必要のなさまで語ろうとする、語らざるをえない、これこそ人間の業だろう」
01日(木)「ウィトゲンシュタインは、語り得ぬものに「語り得ぬ」という価値を与えている」

2007年01月

31日(水)「悟りによる理解は「なにか」に直結してしまうが、岩盤に直結するとは限らない」
30日(火)「端的に思うに、悟りとは非常に高次の理解だろう、そこでは理解行為が縮退する」
29日(月)「存在のスペクトル:多様な地図がありうるように多様な存在論の体系がありうる」
28日(日)「存在論はその存在を言明することに価値がある限りにおいてなされるべきである」
27日(土)「私たちは岩盤を忘れてはいけないのだ、複雑で不透明な地図に溺れてはいけない」
26日(金)「はたして否定の承認は、肯定の承認と同じように行為の指針となりうるだろうか」
25日(木)「いったい、どれだけ敬虔な価値観で現実を生きると、真理以外が虚偽になるのか」
24日(水)「自覚なき犯罪が罪深いように、真偽に到達できない問いもまた罪深いものだろう」
23日(火)「虚偽は真理に値しないと言うと誤解を与える、虚偽は真理にきわめて近いからだ」
22日(月)「比喩が実効的でありうる現実性を受容することは、実際、真摯な態度でありうる」
21日(日)「私の内側と私の外側は連動しているとすると、私の言語はその連動を示している」
20日(土)「私は私の外側を眺めている、ただそのとき、私は私の内側を眺めることもできる」
19日(金)「機械が人間にではなく、人間が機械になりきらないということが大切なのである」
18日(木)「真理としての価値が真理を育み、虚偽としての価値が虚偽を育む。その逆も然り」
17日(水)「魂を尊重する限りにおいて、人はまさにその個人として他に干渉できるのだろう」
16日(火)「愛が人の数だけあるとしても、愛のために途方に暮れる人の助けには、ならない」
15日(月)「手元にあることが、その価値を損ねることを悟るとき、人は願望を過去形で表す」
14日(日)「すると私は、内側にも外側にもいないである。私の限界は、水のように器に象る」
13日(土)「基体は点なのか、別に円形でも構わないだろう、内側にも外側にも中心などない」
12日(金)「感じられるものを対象化することの利点は感じるものを対象化できることだろう」
11日(木)「私は他者が痛みを感じていない感覚をもっているのか、これはわけがわからない」
10日(水)「己の過去を慕う人は自分に自信があるのだろう、僕はできるだけ透明になりたい」
09日(火)「哲学が時間のなかにおかれるとき、それはなにかしらの現実の価値に働きかける」
08日(月)「信じ続けるということは、信じなければならないほどに疑い続けるということだ」
07日(日)「答を出し続けるということは、同時に、それらを信じ続けるということでもある」
06日(土)「私たちに問題とできるのは神の存在ではなく、神の存在を問題とするかどうかだ」
05日(金)「神の存在を認めるということは前提の後ろに仮定を認めるということではないか」
04日(木)「逆説的に思われるかもしれないけれども、問い続けるには答を出し続けることだ」
03日(水)「結果のない原因は原因であるか。現在を原因としてみるとき未来を想像はできる」
02日(火)「語り得ないものを示そうとする言葉が実際にはある、ということは無視できない」
01日(月)「生きるというのはほとほと、恥をかき続け、それを取り繕い続けるようなものだ」

2006年12月

31日(日)「人の人生とは託されるものだ。閉じた人生の所有者は、その人生の主人ではない」
30日(土)「自分の人生が自分を示しているということがあるだろうか。もちろん決してない」
29日(金)「言語と存在が随伴生起しているのなら、両者の模型的関係は同語反復的でもある」
28日(木)「関わりのなかになにがあるのかと問う人は、関わりのうちに価値を求められない」
27日(水)「神や純粋学問のように、人間から遠ざかるほど優しいという誤解には共感できる」
26日(火)「人間関係の距離感という観点でみると、日常言語は紳士的だということがわかる」
25日(月)「凡人における思考の経済の最初の一歩は、その経済性に自覚的になることである」
24日(日)「論理が直観の形式であるのなら、それは時間や空間の形式に先立っているだろう」
23日(土)「生きるということは、戦いではないとしても、それでもやはり勝負ではあるのだ」
22日(金)「人は、言語を用いて何かを示す代わりに、人生を用いて何かを示すこともできる」
21日(木)「真理とは言語以上に人生にかかわるものであると確信している人は完全に正しい」
20日(水)「真理とは存在を規定するような価値であり、真理は言語において問題になりうる」
19日(火)「どこまでも僕は脆い、だからこそ、僕は強さを身に纏うのだ。生き続けるために」
18日(月)「書かれた思想こそ抜き身の信念である。そこに人間的な場当たりさは含まれない」
17日(日)「死ぬということの価値を純粋に見詰めて生きる人の言葉は我々の記憶を揺さぶる」
16日(土)「異なる現実ということで異なる世界を考えると、そもそも異なりが理解できない」
15日(金)「同じ現実を生きることと異なる現実に生きられないことの、どちらがより重要か」
14日(木)「自殺は目立つ死に方である。自分の存在を抹消したい、という目的には適わない」
13日(水)「論考のなかに人はいない、論考のなかにはただ考えられたことがあるだけである」
12日(火)「論考を用いて語ることと論考で示されていることを語ることはまるで違うことだ」
11日(月)「人を打つのは確固とした人である、それはそれ自体が歪んでいても構わないのだ」
10日(日)「人の過ちを矯正するために正しいことをいう必要はない、それは有害にすらなる」
09日(土)「尊敬に値する人間になろうとすること、これはやはりかなり尊い目的意識である」
08日(金)「気紛れで生き残る人間もいるし、行動を起こして失われる才能もある。世は儚い」
07日(木)「正しいことを規定し可能性を列挙する。それはたしかに間抜けのやることだろう」
06日(水)「複数の体系を見方に応じて使い分けることはひとつの能力であり、技術ではない」
05日(火)「下らない自尊心という虚飾に巻き込まれて、自分の平安が侵されるのは堪らない」
04日(月)「はたして理解は必要なのか、この疑問は、理解している人には辛うじて許される」
03日(日)「多様な言語で遊んでいるという、まさにそのことが、人にその空間の理解を促す」
02日(土)「多様な理解をもつとは異なる文化を自分の言語で再解釈するということではない」
01日(金)「自分で自分の人生を語ることの見苦しさは、その人生が、そういう人生だからだ」

2006年11月

30日(木)「憧れに殺されないためには生き続けるしかない、そのうち自分を許せる日が来る」
29日(水)「努力は語り得ないというとき、どうして才能は語り得るように思われているのか」
28日(火)「ああなりたい、と前進を繰り返してきた人ほど、赦免可能な類型を多く保持する」
27日(月)「自由であるとしても自由なものとしては生きない、それはより崇高なことだろう」
26日(日)「その影響を受けたことが自覚されないような影響こそ、人の形を変えるのである」
25日(土)「知的な粘り強さを放棄する不誠実さが格好良いなら、それもひとつの手ではある」
24日(金)「論理の本質は、ある種の知識に含まれるのか、それとも実践する技術に潜むのか」
23日(木)「知識を探求するという活動そのものが探求するための技術を要請しているだろう」
22日(水)「フレーゲは知識を探求しておりウィトゲンシュタインは技術を考究しているのか」
21日(火)「お約束の展開は地面に直通している。だからこそ現実感を損なうこともありうる」
20日(月)「努力することではなく、なにが努力となり得るかを察知できることは才能だろう」
19日(日)「努力も才能だというのなら、どうやって努力する才能を伸ばせばいいのだろうか」
18日(土)「なにを考えているかより、どう価値付けているかわからないことが、不安なのだ」
17日(金)「困難に安住することが容易な一方、容易なものを積み重ねることもやはり容易だ」
16日(木)「個性を問うことが個性的かどうかに関わらず、それに答えることは個性的である」
15日(水)「始まりと終わりを放棄しながらも、移ろわない循環を肯定することは大切だろう」
14日(火)「人から死ぬ権利を奪った人間は自殺してはならない。罪はまた善意とも結合する」
13日(月)「僕は自殺を否定しない。しかし、僕と関係のある人間が自殺することは認めない」
12日(日)「人を圧倒するものには或る種の誠実さが付きまとう、それは善悪を超越している」
11日(土)「それなら、あらゆる現実とそれに対立する虚構の大地はひとつの現実に落ち込む」
10日(金)「虚構という装置を用いることで私たちは現実に迫る。すると、現実は対岸にいた」
09日(木)「私たちは神殺しを誇りに思えるか。その検討が神を殺すこと以上に大切なことだ」
08日(水)「理解しようとすることと理解することのどちらにあなたは重きを置いているのか」
07日(火)「しかし補助以外のなにがあるのか、社会が男性的である限り、社会は女性化する」
06日(月)「女性的なものは補助として用いられやすい。そうあるものとして把握されやすい」
05日(日)「にしても、言葉によって壊すことのできるのは言葉によって作られたものに限る」
04日(土)「言葉はどういうわけか破壊的である。言葉はなにも作らない、いつも壊している」
03日(金)「自分を成長させること以外に、他者にとっても教育的であるような活動はあるか」
02日(木)「相手に快楽を与えるために自分を殺す、ということも、十分に押し付けがましい」
01日(水)「社会を体験しなければ社会を想像できない人間は、そもそも教師に向いていない」

2006年10月

31日(火)「理想が高いなら下げることもできるが、そもそも理想がないならそれもできない」
30日(月)「事実に関わるのは面倒臭い、それでも事実に巻き込まれるよりはまだましである」
29日(日)「人は目的のために生まれるわけではないが、目的のために生きられる人は幸福だ」
28日(土)「間違うことを恐れるよりも、間違ったのかどうかわからない不安のほうが大きい」
27日(金)「自信は要らない、その発言で意図しているのは、自信は不要だということである」
26日(木)「安心できる環境を整えること、安心を与えようとするとき大切なのはそのことだ」
25日(水)「ある程度の理想化を許さないのなら、人の言語使用はきわめて困難なものになる」
24日(火)「そもそも、在るということがすでに不自由だ。そう感じる程度には自由だけれど」
23日(月)「夢をもっているうちは不自由だ。夢に生きられない人こそ幸福な不自由を背負う」
22日(日)「表象が内的、物体が外的なものとすると、思想はたしかに公共的ではあるだろう」
21日(土)「前進する人は解明しているさなか、往々にしてその価値を理解していないものだ」
20日(金)「面白い論文には文才も伴っている。早い話、それは人柄であり、我の強さだろう」
19日(木)「事実に到達するために思想を仮定するか事実から展開するために思考を続けるか」
18日(水)「うまくいっているときにうまくいっていないと信じると、かなりうまくいかない」
17日(火)「しかし、情に絆されたというとき、私たちはやはり説得されてしまっているのだ」
16日(月)「理のない情に人を説得する力はない、と言ってしまいたい気持ちはたしかにある」
15日(日)「私をなにかしらの領域において指標とみなすとき、すでに私は対象化されている」
14日(土)「私は私であり、私がひとりだということは、もっとも自然に課された拘束だろう」
13日(金)「苦労したと思っている人の「苦労しなさい」という説教の嘘臭さは拭い切れない」
12日(木)「真に努力している人の前に壁は生まれないし、後に足跡が残るということもない」
11日(水)「規範の構成と規範の適用とは扱いが異なる。それは働きかける方向の違いだろう」
10日(火)「その人の死そのものが病気であると把握できるとき、その人の死は加速していた」
09日(月)「最終的な根拠を人々の傾向性に求める議論の説得力は危ういと僕には感じられる」
08日(日)「最後にせよ中途にせよ、裁かれるときに、評価されるときに、私はひとりになる」
07日(土)「極端な話、私は私であるべき、なのであり、私が私である、という必然性はない」
06日(金)「私は私にとって根源的に存在してはいるが、直接的に存在しているわけではない」
05日(木)「私を直接的に困らせるのは、私というよりはむしろ、私の周りにいる他者である」
04日(水)「私や「私」の不在で困るのは僕ではない、そのとき僕は間接的に困るにすぎない」
03日(火)「独我論は私たちになにをもたらすのかという問いは、あまりに無益な問いである」
02日(月)「入力される理論と出力される理論があると考えることはもっともらしく思われる」
01日(日)「感情の沸点が低い人はやはり、できるだけ低地で静かにしているのが安全である」

2006年09月

30日(土)「言い切る人間は言い切ろうと判断せずに言い切る、そうでない人間は言い続ける」
29日(金)「私たちが周囲に矛盾を探すとき、私たちはいったいなにを期待しているのだろう」
28日(木)「形式が先か内容が先かという問いは、父親が先か母親が先かという問いと同じだ」
27日(水)「学識には消費されるものと蓄積されるものがある、金になるのは主に前者である」
26日(火)「私の、君の、我々の宇宙を考えるということは、同時にその魂を想像することだ」
25日(月)「私は私に到達することすらできない、この謎は解けない。託すしかないのだろう」
24日(日)「私は私をやめることも、私を考えることもできない、私は私を想像するしかない」
23日(土)「無という表現がまさにないことの比喩であるのなら、有もまたそれと同じだろう」
22日(金)「表現の特性からいって、日常言語は幅のある現在を前提していなければならない」
21日(木)「客観性が保証されているのは命題の表現なのか命題なのか。それらは同一なのか」
20日(水)「考えている、しかし、私はなにを考えているのか、それは誰にもわからないのか」
19日(火)「人に影響を与える著作は、間違っているかいないか、どちらかのとき明瞭になる」
18日(月)「賢者同士の会話の受け答えには一言あるなら事足りる、すなわち、その通りです」
17日(日)「思考が行為であるならば、思考の本質は何かしらの表現活動でなければならない」
16日(土)「言語行為がまさに行為であるならば、私的言語で言語行為は遂行できないだろう」
15日(金)「僕のなかで結婚と自殺は対極の位置にある、どちらも甘美で、それ自体は単純だ」
14日(木)「まさに伝達しようとしている主体が消え去るのだから、伝達は不可能なのである」
13日(水)「主観的でしかありえない主体を客観的で伝達可能なものに託せるわけがないのだ」
12日(火)「私にしか把握できない「私」の意義は、語られえないが、実際、示されてはいる」
11日(月)「それでも、感動したねと訊いたとき、そうだねと応じられることには価値がある」
10日(日)「感動を伝達しようとすることは愚かな試みだろうか。たしかにそうかもしれない」
09日(土)「可能性の網の目は、私の理解を調整する働きをもつ。思考は実効的であるべきだ」
08日(金)「私たちは最初の一歩を下るのか、上るのか。その選択肢と決断は人生を左右する」
07日(木)「もし、厳密にいうのであれば、言語に階層などない。ないとわかることが大切だ」
06日(水)「言語の階層性を意識するときに、結局、私たちはなにを意識しているのだろうか」
05日(火)「心の底から誰かに何かを言われたことのある人は、きっと違う人生を歩むだろう」
04日(月)「わからないことを言う人はたまにいるけれど難しいことを言う人はそうはいない」
03日(日)「あるがままにある世界に矛盾はない、矛盾は評価であり価値であるということだ」
02日(土)「君はどれだけ当たり前のことを知っているだろうか。世界は常識で覆われている」
01日(金)「探求とは、問題が生じる限りにおいて、それ自体が問題になりうるようなものだ」

2006年08月

31日(木)「洗練され完成されたものには違和感を感じる。美しいものは隠れるということだ」
30日(水)「価値抜きされた世界において、私は機械や昆虫とは異なった行動をするだろうか」
29日(火)「大勢の人々とともにいるということのほうが、私個人よりも本質的かもしれない」
28日(月)「判断されたものに、解釈の余地はあるだろう。しかし、判断に解釈の余地はない」
27日(日)「あるがままにある世界と、言語を介して私に把握された世界があるということか」
26日(土)「親の存在、親との関係、それが自己に影響を及ぼさないということはありえない」
25日(金)「「……を知る」というとき、私たちは同じ「……」を知りたいと思うことだろう」
24日(木)「手品師は事象に不思議さを演出する。不思議さを理解できないとき不思議はない」
23日(水)「どうやら我々は想像以上に虚構の中で生活している。示せることは非常に少ない」
22日(火)「まず問題を理解できるほどには、私たちの前提、問題の生じる場は頼れるものだ」
21日(月)「手品の不思議さを理解できない人にとって、その種明かしは無感動なものだろう」
20日(日)「死を体験すると生を自覚するようになる。生きているのに生を欲するようになる」
19日(土)「私的な言語の表出は、決して表現になりえないにもかかわらず、解釈はされうる」
18日(金)「私的な言語によって把握されている意図は、示唆はされうるが表現はされえない」
17日(木)「個々人の表象は、いわゆる個々人の私的な言語と同等であるようなのものだろう」
16日(水)「この誤りの根は、言語と存在の問題から、人間という単位と範囲の問題に向かう」
15日(火)「私は特別である。ここにおいて、理論に特異点が現れたとしても不思議ではない」
14日(月)「しかし、私はここにいる。私が「私」と言うとき、その私は、この私なのである」
13日(日)「だれでも「私」を用うことができる。「私」と言うとき、そこに私はいないのだ」
12日(土)「示された世界のなかの完結した私を語り出すのは、私以外の人間にしかできない」
11日(金)「私たちは「夢をみる」ときに現実を想起しているし、現実を語るように夢を語る」
10日(木)「全条件が透明になることはありうる、ただ、それで条件が失われるわけではない」
09日(水)「外的世界の存在を私は誰かに示そうとする。その主張は、私一人では成立しない」
08日(火)「現実的であるものが客観的であるとは限らない、これは協同的な世界観に基づく」
07日(月)「むしろ、第三領域はなければならない。客観性とはそこに担保されるからである」
06日(日)「現実世界は蓋然的だが、第三領域は確かにある。それがフレーゲのリアリズムだ」
05日(土)「対立することができないときは、合意することもできない。愛に理解は必要ない」
04日(金)「愚者の力は狂気にある。それはわたしたちが動物であるということを想起させる」
03日(木)「現実は評価を有するが、世界は意味を有さない。そこで事実は世界に導入される」
02日(水)「こころ温まる詩には胸を打たれない。たんなる共感は感動を生まないからである」
01日(火)「自称詞の変化が示しているのは、僕と私は同時に現れられないという事実である」

2006年07月

31日(月)「思想は理想的というよりは、むしろ、純粋とみなされるのが適切な存在者である」
30日(日)「世界との関わり、世界との関係のうちに私は生まれる。存在はその自覚を求める」
29日(土)「私もひとつの像だとしたら、私を私たらしめる要素はどのように結合しているか」
28日(金)「わたしたちはどのように常識を知るのか。違う。わたしたちは常識を知っている」
27日(木)「わたしたちが酒を覗き込むとき、酒もまたわたしたちを覗き込んでいるのである」
26日(水)「常識を持つ、というようなことはできない。むしろ、わたしたちは常識に落ちる」
25日(火)「異なる集団において、人は言語という衣装を、ときには言語の仮面を付け替える」
24日(月)「わかりあっている人々は、それ以上のわかりあいをどのようにして求めているか」
23日(日)「ある事柄の異なる見方を語るとき、私は同じものを見ていることを前提している」
22日(土)「常識の形成と共有が集団を形成する。集団内部で常識は意識されないことが多い」
21日(金)「「我々にとって自然だ」の意味は、「自然」よりも「我々」の幅により変化する」
20日(木)「常識などないという感覚を共有しあう人々は、そのような常識に生きているのだ」
19日(水)「常識などないと安易に口にする人は単に自分にしか関心がないというだけである」
18日(火)「自称詞の交換可能性。私は「僕」ではないし、同じように、僕は「私」ではない」
17日(月)「「私」と言うとき、それは「私」であり、「僕」と言うときそれは「僕」である」
16日(日)「人は場面により仮面を替える。そのとき、人は実にさまざまなものを替えている」
15日(土)「同性間の愛情が成立するのなら、異性間の友情が成立すると思うのも理解できる」
14日(金)「伝統を守ることが尊重されるなら、伝統を作ることも尊重されなければならない」
13日(木)「狭いところで真理とされるものが、広いところでも真理であるのなら問題はない」
12日(水)「ある人に理解されてしまったとき、私はその人の理解を打ち破る方法をもたない」
11日(火)「もし僕が誰かに理解されるなら、そのとき、僕はなにか新しいことを知らされる」
10日(月)「論理に程度はない。そうであるかそうではないか、そのどちらでもないかである」
09日(日)「定義は誰にでもできる。要点は、その規定がなにをどう識別するかということだ」
08日(土)「私は現実をもちうると認めるのなら、私には現実の多様性を許容する用意がある」
07日(金)「推論は必然性によって、制御は信頼性によって、私たちの生活に安心感を与える」
06日(木)「理解をしているかどうかは、行為に現れる。しかし、私たちはいつ理解したのか」
05日(水)「言語化・対象化できない恐ろしさもある。それは恐ろしさの表現形態の差である」
04日(火)「学問は乾いた磐石の物足りなさのゆえに、さらなる展開を思い巡らせる場となる」
03日(月)「自分のうちに蓄積する面白さもあるし、周囲の人と消費する楽しさもあるだろう」
02日(日)「合理的であることによる不合理さをも許容し検討しうるのが、穏当な人間である」
01日(土)「学問には王道しかないというのはつまり、我々は基礎で満ち足りるということだ」

2006年06月

30日(金)「存在は個々人の現実に付加されるけれど必ずしも世界に含意されるとは限らない」
29日(木)「世界のうちに私はいる。世界のなかの現実のひとつこそが私の世界観に違いない」
28日(水)「問題に解答できることと、問題と解答の意味を理解できることは別のことである」
27日(火)「お互いを理解することのために、お互いの信頼を犠牲にすることは得策ではない」
26日(月)「世界にある存在を適用すると潜在的にある構造・形式・層に言及することになる」
25日(日)「科学的な現実には洗練された存在論が要求される。人はさまざまな現実を生きる」
24日(土)「世界の多様性ということで、その岩盤が割れているところを空想してはならない」
23日(金)「些細な庶民的な間違いを指摘して得られる華々しさは、学徒としては虚栄である」
22日(木)「ある現実を、そうであるとみるか、そうでないとみるかは、私の観方に依拠する」
21日(水)「世界があるようにしてあるのならば、存在は世界に付け加えられるものではない」
20日(火)「表現しないことによる表現とは、表現の空白を提示することでなければならない」
19日(月)「結局、私たちはなにをしているのか。それは常に解明されていなければならない」
18日(日)「他者は同時に神の視点をもちうる。神の絶対的な他者性には到達できないにせよ」
17日(土)「信仰の本質が祈りにあるとき、祈りは言葉にできない。そこにただ行為のみある」
16日(金)「あらゆるものは私とともにあるというとき、神すら私とともにいるという虚脱感」
15日(木)「見られているものの不在を嫌悪するときに、人は見ている私の縮退を恐れている」
14日(水)「閃きに閃きを重ねてはいけない。また閃きを閃きのままにしておいてはいけない」
13日(火)「幸福は世界のうちにあるのではなく、わたしたちは世界について幸福を受け取る」
12日(月)「なにかに働きかけるとき、働きかけられるなにかが存在すると考えるのは自然だ」
11日(日)「扉を叩いた手袋は乱暴だけれど親切で窓から覗いた山高帽は丁寧だけれど不躾だ」
10日(土)「各人がやりたいことをやるべきようにしてやる。まず、これは仕方のないことだ」
09日(金)「明確な評価基準のない領域においては、誰に評価されたいかが行為の指針となる」
08日(木)「人はしばしば良く評価されることだけを目指して、適切に評価することを忘れる」
07日(水)「確固とした証明にも様々な解釈は読み込まれる。証明以上に証明の解釈は難しい」
06日(火)「この世界は私のための世界であるとしても、それが私の世界であるとは限らない」
05日(月)「行為するときに事柄も現れるのであり、事柄に行為も付随しているわけではない」
04日(日)「僕は僕の部屋を出ることができる。そうするとき、僕は家を見ることすらできる」
03日(土)「制限なしに「私のもの」を私が認定するときは、あらゆるものは私のものである」
02日(金)「外的要因を排してなお、学問のためだけに学究していることはやはり苦だろうか」
01日(木)「僕は窓をもつ。しかしそれは、手に持つようにしてもっているわけではないのだ」

2006年05月

31日(水)「理解しやすい位置にいるということは、その立場を想像しにくい位置にいるのだ」
30日(火)「僕は窓ではないからこそ開けることのできない窓が窓であると知ることができる」
29日(月)「あらゆる人は、開けることのできない窓をひとつ、かつ、ただひとつもっている」
28日(日)「人はたいてい、なにかに立とうとは思わずになにかにそのまま立っているものだ」
27日(土)「窓と扉はどう違うのか。窓は開かれ、扉は閉ざされる。違う、そうではないのだ」
26日(金)「太陽が中天に昇る。ある名により意味される出来事の実質は特定の時空間なのか」
25日(木)「人は理解されたいのか、誤解されたいのか。知らせることでなにを隠したいのか」
24日(水)「確定した性格を示しているとき、他の性格を仄めかすことを意図する必要はない」
23日(火)「言語の世界という言い方をするとき、自分の視点の位置には注意する必要がある」
22日(月)「何かが随伴生起しているというときそれは単一の事柄に関して言われているのか」
21日(日)「内側からの限界付けには、強固な外側が保持されていることはやはり要求される」
20日(土)「相違や合意には基準が必要であり、規準が必要なときに、人は関わり合っている」
19日(金)「汎用的なものの場合、それの生成と同時にオリジナリティの崩壊に遭遇している」
18日(木)「物事を明確にするときに大切なのは、強調したい観点の抽出の仕方・手法である」
17日(水)「わからないことに関する寛容さと、知らないことに関する寛容さは異なっている」
16日(火)「革新的なことも当たり前のことになる、そのときに当たり前だったことがわかる」
15日(月)「どの私がこの私であるのか、気にならないとしても気にしないわけにもいかない」
14日(日)「「あれ」という語によって、自己を指し示すことの違和感は、どうにもならない」
13日(土)「「これ」と「あれ」のどちらかひとつを選ばされるとき、僕ならどちらを選ぶか」
12日(金)「なにかを悟るとする。それは表現に落ちないけれど、それが思考の始まりなのだ」
11日(木)「自己の現れの自由さは無制限ではない、それは少なからず世界に束縛されている」
10日(水)「純粋なる固有名は静的には終点であり、だからこそ、むしろ動的には始点である」
09日(火)「私から到達可能なあらゆる他者の現実に了解されるときそれは常識になっている」
08日(月)「私は私において層をもち、純粋なる固有名はその中心を代替し、指し示しもする」
07日(日)「痛みを知る、ということで了解されているのは、その感覚のことではないだろう」
06日(土)「より豊かな示し方を示唆する語り方の組み合わせ、その語り方はかなり無根拠だ」
05日(金)「自然を切り離し、社会を切り離し、世界を切り離し、その次は何を切り離すのか」
04日(木)「その痛さはどうしたって私の痛みで、その限りにおいて、僕は感覚の奴隷なのだ」
03日(水)「なにかを得ることで陰るものがあるかもしれない、しかしなにも失ってはいない」
02日(火)「私は私を名乗ることはできるかもしれないが、私は私に名付けることはできない」
01日(月)「物が私の一部になり、私の一部が物になるとき、私はなにを得、なにを失うのか」

2006年04月

30日(日)「私の痛みが目の前にあり私は苦しむのだけれど、私はどこが痛いのかわからない」
29日(土)「本当にそう思っているのなら、その信念のゆえに表現してはならないこともある」
28日(金)「人間のこころの問題に関して、解答はないなどと、そう簡単に言うものではない」
27日(木)「偽装された意味を揮うことや前提された無意味を隠すことは不誠実であるだろう」
26日(水)「意味のなさに罪はない。その無意味さに頓着しないということが問題なのである」
25日(火)「できないことはしてはならないと語ることは、その矛盾によって離脱を企図する」
24日(月)「ある場面においては、独我論に陥ることなく私以外という語り方が無意味になる」
23日(日)「痛みにも層はある。そう考えざるをえない。その痛みとは傷の深さではないのだ」
22日(土)「私の痛みは私にしか感じられない。ただ、私は私の肉体の外側にも痛みを感じる」
21日(金)「愛を対象として取り扱う語り方をするとき、そこで意図されているのは何なのか」
20日(木)「悩みには、計算に乗せる必要のない悩みと、そもそも計算に乗らない悩みがある」
19日(水)「悩みとして解消しようとすることで、解決不能になってしまう問題もあるだろう」
18日(火)「階段を駆け登ると、そのうち僕は舞い上がり、そのうち僕は下らない人間になる」
17日(月)「何度も何度も繰り返し思考する。終わりのない階段を歩み下り、なにかを求める」
16日(日)「死ぬ気になることでできるようになることは、結局、死ぬこと程度のことである」
15日(土)「この私の生という果実の瑞々しさを得ること。これが前半生の模範的解答だろう」
14日(金)「人類は一個の種と言われるけれど、それは生物的にか、それとも政治的になのか」
13日(木)「人間のさまざまな文化という代わりに生物のさまざまな世界ということもできる」
12日(水)「人間は皆わりと似通った現実を生きている。それは言語的・文化的な要請だろう」
11日(火)「学術的な知識はセオリーを求め、実践的な知識はルーチンを求めがちに思われる」
10日(月)「同一性は性質や関係より前に、判断や分析のための仮定ないし前提として現れる」
09日(日)「社会的な事柄のほかに、個体の同一性が保たれていないことで困ることはなにか」
08日(土)「食事との類推で知識を把握するとき、排泄されているものはいったいなんなのか」
07日(金)「知っていることは書かない、知らないことは書けない、すると書こうと思えない」
06日(木)「実在しないということは、存在ということに関してどれだけ致命的なことなのか」
05日(水)「原始的な人間関係は、最終的に生物的関係と社会的関係のどちらに帰着するのか」
04日(火)「細やかなノードの集合と構造がその本質であるといわれて、それを認められるか」
03日(月)「どのようにして関係は持たれるのか、どのようにして、その関係は知られるのか」
02日(日)「あるものが独立しているかどうか、それを確かめることはどれだけ重要だろうか」
01日(土)「どうして死のうとしないのか。いや、どうして、死のうとしていないと思うのか」

2006年03月

31日(金)「行為の意図が行為の結果と等価であることを望む。このような信条は可愛らしい」
30日(木)「あなたは賭けるしかない。確実に思われても、それが判明するまでは疑うほどに」
29日(水)「確実に存在するものを僕は君に示すことができない。いや、その必要もないのだ」
28日(火)「文が意味をもつということと、わたしたちがそれに働きかけることは別のことだ」
27日(月)「私はどこにいるのか。ある解答はこうだ。僕はすでにここにいる。冗談ではない」
26日(日)「真偽は文脈に相対的に決定するとしても、それが真であるなら確定的に真である」
25日(土)「人は決定的に環境の内側にいる。抽象的にはネットワークの、根源的には母体の」
24日(金)「寄り添うことで相手の形を気付かせたいとき、自己は決して変形してはいけない」
23日(木)「人は不意に前提の階段から滑り落ちてしまう。それこそ病気の始まりなのである」
22日(水)「ひとつの致命的に不遇な出来事は、多数の不遇さに醸成されて、ふと、姿を現す」
21日(火)「疑いにはいくつかの種類がある。重要なのは、そのどれもが目的ではないことだ」
20日(月)「あらゆることが虚偽で虚構だと思う不誠実さに苦しむなら、その人は誠実である」
19日(日)「要請されるものと前提されるものの根本的な妥当性は、なにが担保しているのか」
18日(土)「終わりなさは三種類ある。いずれにせよ、なさを意識することは安全保障になる」
17日(金)「間違えることができなければならない。しかし、この正しさは間違えられるのか」
16日(木)「形式と操作はどちらが優位なのか。それらの決定的な優先度の違いはどこにある」
15日(水)「前提においているものの妥当性をどう問うか。僕はなにを信用しているのだろう」
14日(火)「私が再帰の指標になるものだとしたら、私は私の働きかけにより霧がかっている」
13日(月)「名前は付けるものか付けられるものか。名前には入力と出力の異なる次元がある」
12日(日)「独我的な見解は、そこにいる人間が二人だろうが三人だろうが成立しうるものだ」
11日(土)「独我論に不備はない。しかし、人が独我的でなければならない理由はまるでない」
10日(金)「僕は生きている。そして、僕は生きたいと思う。このおかしさは不思議ではない」
09日(木)「僕は内部に脱出する。内部はどちらか。視覚の比喩によって私は誤解されている」
08日(水)「私しかいないということは、私はなににも影響されない・できないということだ」
07日(火)「対策を講じる必要のない問題を擬似的な問題とすることは、ないやり方ではない」
06日(月)「私は彼の論理を疑い、批判しているのか。それとも単に彼を信用できないだけか」
05日(日)「疑いのうちに異なる主張を抱いているなら、それはもはや、単なる疑いではない」
04日(土)「存在する、認識する、把握する、これらの(表現の)違いは、どのようなものか」
03日(金)「私は疑い続けている。しかし、私はどうして疑うのか、何のために、誰のために」
02日(木)「直示の確実性はその行為というよりも、話し手と聞き手の信頼関係の強さにある」
01日(水)「内側から限界を規定する、というような語り方はそもそもできないのではないか」

2006年02月

28日(火)「私が彼を疑うとき、問題は彼の思考というより彼自身に、あるいは私自身にある」
27日(月)「自身の存在を疑うということの正当性はどこにあるのか。疑いのうちにしかない」
26日(日)「疑うとき、人を非難したい気持ちがどこかにないか。疑いは内側に向かっている」
25日(土)「疑うということと、疑いを表明し、正当化するという行為を混同してはならない」
24日(金)「しかし、疑いとは、まさに疑われているそのことによって成立するのではないか」
23日(木)「確信がそうであるのと同様に疑惑も抱かれるだけでは正当化することはできない」
22日(水)「ある種の閃きによってなにかを知るとき、その人は確かになにかを得たのだろう」
21日(火)「神の啓示も、その理解も疑う必要はない。ただ、その人と会うのをやめるだけだ」
20日(月)「神の啓示を受け、それを理解したと語る人々を疑うことと、どのように違うのか」
19日(日)「わかっているということはいったいどういうことなのか。それは表現可能なのか」
18日(土)「しかし、望みを隠すことにより、人をさらに語らせるなら、それは無益ではない」
17日(金)「そうすることによって、なにをしたいのか。なにを言いたいのか。自覚はあるか」
16日(木)「私に私の存在を証明する必要はない。はたして私は誰に私の存在を証明するのか」
15日(水)「規則は内側からも与えられうるけれど、それで規則が規則足りうるわけではない」
14日(火)「夢は閉じており、現実は開いている。共有できる夢は、もはや夢ではないだろう」
13日(月)「夢と現実は私にとってはなにも変わらない。しかし、夢は私にとっての夢である」
12日(日)「夢は存在しない。それは現実は存在しないと言うのと同じように存在しないのだ」
11日(土)「現実と夢を対立させることが誤謬だろう。それは意識のあり方の違いにすぎない」
10日(金)「私は夢のなかにはいないし、夢を見てもいない、このとき、私はどこにもいない」
09日(木)「世界は作られているというとき、作られた世界は何によって構成されているのか」
08日(水)「終わらない物語をわたしたちはその形式において読み終わることができるだろう」
07日(火)「夢は見られているのか。違う、私は夢を見てはいない。見ていることも夢なのだ」
06日(月)「私が夢を見ているとき、私は夢のなかにいるのか。すると私はふたり必要になる」
05日(日)「終わりは続きがあるときにのみ、その姿を示す。それゆえ、生き返ることはない」
04日(土)「私の死は私には体験できない。ただ、眠る瞬間を私は体験しているのではないか」
03日(金)「死は体験できない、というのは不正確である。私は私の死以外は体験しうるのだ」
02日(木)「態度の図々しさが空転するのは、人柄と才能がその人を後押ししないときである」
01日(水)「性質の担い手というのなら、その担い手はその性質を担っていなければならない」

2006年01月

31日(火)「私の意識がふたつ以上ないということは、どのようにしたら疑うことができるか」
30日(月)「間違いと嘘は異なる。嘘は自覚を伴い、主張もまた自覚と、そして、疑惑を伴う」
29日(日)「間違ったことだけを言い合うゲームのルールというのはどのようなものになるか」
28日(土)「完全なものが万能であるわけではない。むしろ、完全に近いほど、孤独に向かう」
27日(金)「解答はあるなしに関わらず求められている。そのことはまずもって重要とされる」
26日(木)「知るということが自分の内なる行為なら、どうして言語化する必要があるだろう」
25日(水)「空から岩が降ってくることもあるように地下に豊かな街がないとは言い切れない」
24日(火)「基礎を遡及することは大切だけれど、それは地面を下に掘り進むこととは異なる」
23日(月)「応用を予定するからこそ基礎は基礎なのであって、基礎だけの基礎は存在しない」
22日(日)「要点は、私たちの日常生活は、実際、それほど美しいわけではないということだ」
21日(土)「美しさを問うときに美しさの多様性は認められている必要がある。いずれにせよ」
20日(金)「共通性を無視して、どうして多様性を理解できるだろうか。相互に補完を要する」
19日(木)「多様性を表現するのに多種のものから始めるなら、志向はむしろ単一性になろう」
18日(水)「結局、古典的な科学、基礎的な哲学は白黒の二色の模様になるわけではないのか」
17日(火)「ある表現を台詞として把捉するとき、それは表現者の人生と密接に関わっている」
16日(月)「言語は本来的に色彩豊かなものであり、だからこそ迷彩にもなっているのである」
15日(日)「なにが「難解」なのか。もちろん、それは表現だろう。そして、表現でしかない」
14日(土)「同じか違うか、肯定か否定か、結局のところ、やはり、それが大事なことなのだ」
13日(金)「単に思考しうるというだけでは、どうして当の事柄の可能性の根拠になるだろう」
12日(木)「ときには本質的な等しさよりも実質的な違いのほうが重要な場合もたしかにある」
11日(水)「等しいというとき、なにをどこでどうやって比較しているのかは前提されている」
10日(火)「理解をしていても、それを自覚できていないのなら、理解しているとは言えない」
09日(月)「曖昧かどうかも曖昧ということは、もう、まさに曖昧のなかにいるということだ」
08日(日)「曖昧さに素直になると、曖昧は曖昧であり「曖昧」は曖昧ではないことはわかる」
07日(土)「曖昧さを保持するとき、その曖昧さを曖昧なままにしては、思考は続けられない」
06日(金)「正しいことからは正しいことしかでてこない、正しさを疑うとはそういうことだ」
05日(木)「自然さを求めることすら不自然なのだとすると、人生は不自然さに覆われている」
04日(水)「称賛は、仮に自然な行為であろうとも、必要以上の行為であるように感じられる」
03日(火)「どれだけのことを言い切りながら、生きていけるのだろうか。生命はゆれている」
02日(月)「自分で読解することを通して、初めて、洗練された読み方の普遍性を実感できる」
01日(日)「初心を忘れるのはいけないだろうが、常に初心というのも卑怯な態度になりうる」

2005年12月

31日(土)「最初の一歩は最後の一歩に最後の一歩は最初の一歩に左右される。確認を怠るな」
30日(金)「否定のない視野は自分にとって確立された判断のみで飽和しているわけではない」
29日(木)「否定を煮詰めると否定のない視野にいたる。ある種の洗練された態度のみがある」
28日(水)「堅牢な否定は否定する意思すら忘却させる。しかし、その忘却は記憶されている」
27日(火)「影響力と有益性に関して、得策であることと有効であることは異なる事柄である」
26日(月)「ある価値の魅力を減じようとするとき、当の価値に働きかけるのは有効かどうか」
25日(日)「なんらかの判断を下すとき、わたしたちは直接的に価値に関与するわけではない」
24日(土)「人間の単一性も複多性もともに認められうる。この相関はまるで不思議ではない」
23日(金)「的を射る言葉の正しさは、人生に残らないとしても、人生に関わることにはなる」
22日(木)「いまあるものを忘れようと努めると、いかに自分が借物であるかは透けて見える」
21日(水)「どのように受容するか、その基準が近いからといって相性が定まるわけではない」
20日(火)「無視する段階に達するためには、まずは無視できるだけのものを得る必要がある」
19日(月)「嫉妬はその嫉妬を先回りすることによってのみ、その方向を捻じ曲げられるのだ」
18日(日)「努力というのは褒められるために、正確に言うと、蔑まされぬためにするものだ」
17日(土)「夢は現実以上に自分の思い通りにならない。制御された夢は現実の支配下にある」
16日(金)「足し算の美学も引き算の美学も、どちらも算術の美学であることに変わりはない」
15日(木)「得ることで失うものは陶酔的であり、また、失うことで得るものは虚無的である」
14日(水)「得ることと失うことは明らかに等価のやり取りではない、それはどうしてだろう」
13日(火)「載積する人類の思索の記録は、自覚する、ということの比類なさを漂わせている」
12日(月)「欲望により動かされし、欲望なしには動かない。この「欲望」は置換可能である」
11日(日)「幸せを常に疑うことのやかましさと、幸せに常に満足することの危うさは紙一重」
10日(土)「付き合うとか別れるとか、魂の契約を前提とする信仰に心地よさを感じられない」
09日(金)「語らぬうちが華なのだけれど、語らないのなら語っていないことも示せないのだ」
08日(木)「個々人の現実を個々別の世界とみなす独我論は、語らないという態度に漂着する」
07日(水)「実在論と観念論が一致するような独我的世界は、そこに人間がいる世界ではない」
06日(火)「私の生が私のみで完結するとしても、私は針の先端に屹立しているわけではない」
05日(月)「包括的な世界を前提にした二分法は結局、緩やかな修正を求められることになる」
04日(日)「問題なのは、はたしてその描像に能うほど世界はきれいなのかということである」
03日(土)「私が私の世界であるのなら、生きるとは他の世界を参照することにほかならない」
02日(金)「分割されたものを統合するには困難が伴う。分割に細工をしておく必要が生じる」
01日(木)「二分法を前提するなら、私には外的世界に属する私と内的世界に属する私がいる」

2005年11月

30日(水)「私も世界の一部であるのなら、私が私の現実を参照するというのは奇妙ではない」
29日(火)「私の現実は世界を参照して「ここにはたしかになにかある」と再認し続けている」
28日(月)「わたしたちは存在を前提して生きている。だからこそ、虚構にも価値はあるのだ」
27日(日)「物はわたしたちを触発する。しかし、それにもかかわらず、物は常に受身である」
26日(土)「自己紹介とは自らを腹話術師の人形にするような行為か。私とは社会的な定点か」
25日(金)「私が発話するときに、私が私以外の何者かであることはありうるだろうか。ない」
24日(木)「主語としての私はどうしても必要なのか。そこにある主張力はどのようなものか」
23日(水)「私の世界が閉じているかどうかを画定することはできない。蛇足は循環を生じる」
22日(火)「なにかを主張するときに、その正しさを抱いて主張しないことは不誠実だろうか」
21日(月)「正せるような間違いには価値がある。間違いかどうかもわからないと、少し困る」
20日(日)「気付いている、気付いていることを表現するということの困難にも気付いている」
19日(土)「実際のところ、私たちは括弧を付けては喋らない。これも当たり前のことだろう」
18日(金)「直接的に示すということが他の指示より明瞭・明白である根拠はどこにあるのか」
17日(木)「語のもとに情報はまとめられる、意味の輪郭は再帰する検証によりぼやけている」
16日(水)「それはそれ自身と同一であるという前提は、変化の理解において有益に機能する」
15日(火)「それはそれ自身と同一であるという言明は、あまりの妥当さに人間を当惑させる」
14日(月)「それはそれ自身と同一であるという記述は、氷に触れて冷たいというようなもの」
13日(日)「わたしが現実を把握しようとする限り、現実は無限に拡張され続けることになる」
12日(土)「現実も現実のうちに場所をもちうる。これは一見、おかしいが、不可能ではない」
11日(金)「虚構とは、縁日の綿飴のように心棒のないときは形を成せないようなものだろう」
10日(木)「現実と虚構の落差は現実の追求と虚構の追求という行為の嗜好性の差異に存する」
09日(水)「虚構は非現実的だとしても非現実ではない。そして、反現実であるとは限らない」
08日(火)「虚構は実際に存在する。現実は虚構を含むが、現実は虚構のみでは成立しえない」
07日(月)「ある事柄の現実性は私以外の存在に担保されることにより個々の現実に姿を現す」
06日(日)「私の現実は私だけのものか。そうではない。私は私の現実を外部に移管するのだ」
05日(土)「現実も虚構も立場は同じである。その観点から言うと、現実と虚構は同じなのだ」
04日(金)「過度の束縛は人を苦しめるけれど、同じように、過度の自由も人を苦しめている」
03日(木)「人はたしかに物に囲まれており、その知り方を私は学習する。なにから。人から」
02日(水)「実在や存在者に名前は付けられる、名前において実在や存在者は結合させられる」
01日(火)「固有名には符丁として機能する側面もあるし記述を結束して保持する側面もある」

2005年10月

31日(月)「どうして、誠実さを求めるのか。誠実なことが美徳とは限らない。だが、しかし」
30日(日)「誠実さの極北に現れる態度を誠実なものとして受けとめることはもはやできない」
29日(土)「同じことの表裏に違いないとしても、内部があるからこそ、外部はありうるのだ」
28日(金)「理論を放棄することを主張する理論は、理論としては責められなければならない」
27日(木)「規則は内側から与えられ、法則は外側から与えられる。規則も法則ではないのか」
26日(水)「科学的言明は法則を正確に表現している、どうして、それを不思議に感じるのか」
25日(火)「相対的に真であることが真であるなら、それはやはり、絶対的に真ではないのか」
24日(月)「自分の居所を快適にするために、自分の内側に向かう人と外側に向かう人がいる」
23日(日)「真正なる無知の救いようはあるに違いないけれど満足した無知の救いようはない」
22日(土)「時間を気にするあまり常に時計を見ているうちはなにもできない。動きを忘れろ」
21日(金)「手に入れたいものと失ってはいけないものを天秤にかけるのは避けたほうが良い」
20日(木)「知るとともにわかることは当然のように思考に馴染み、無知の過去は刷新される」
19日(水)「もし僕に才能があるのだとしたら、才能について語っている場合ではないだろう」
18日(火)「説明はできないが正しいなどということは、仮にあるとしても言ってはならない」
17日(月)「互いを完全に理解し合っても問題は生じる。理解は完全だとしても問題は起こる」
16日(日)「早々に納得する人(またはその逆の人)には、どこまでの説明が必要されるのか」
15日(土)「あるなにかを見ているとわかるときには、そのなにかはすでに分節化されている」
14日(金)「個物は単位化される際に区切られなければならない。区切るとはどういうことか」
13日(木)「起源のある名前、起源のない名前、起源のはっきりしない名前は、それぞれある」
12日(水)「変化を敏感に察知し、それを対象化して、こころを宿らせるのは恐怖からだろう」
11日(火)「私たちは表現に込められた意図を汲み取ろうとし、表現に意味を与えようとする」
10日(月)「私たちの側にあるからといって、私たちのなかにあるとは限らないのではないか」
09日(日)「記号がなにを意味するかと、記号を用いてなにを指示するかは異なる事柄である」
08日(土)「私たちと言うとき、そこにはすでに記号でしかないような人も含まれうるだろう」
07日(金)「本質的に意味は記号の側ではなく私たちの側にある。私たちの側とはなんなのか」
06日(木)「言語が何を表現するのかと、言語によって何を表現するのかは異なる事柄である」
05日(水)「私の属している私の言語のネットワークはどこまで拡張すると閉じるのだろうか」
04日(火)「習得したときから言語は環境と結び付いており、私的言語は仮定的にのみ現れる」
03日(月)「人は状況に応じて顔を替える。そして、文脈に応じて言語と思考も替わっている」
02日(日)「信仰を論理によって原理的に説明することの限界は、私になにをもたらしたのか」
01日(土)「精確な時計というのもまた、人間に寄り添う時間において精確なのではないのか」

2005年09月

30日(金)「間違いだらけだとしてもそれがたしかに間違いであるのなら、さらに前進できる」
29日(木)「夢や虚構が現実でありうるとしても、現実が夢や虚構ではあることはありえない」
28日(水)「翻訳とは意味を固定したままに表現を変えようとする試み。それは変換だろうか」
27日(火)「楽譜は音楽と、書籍は思想と、同じ内容をもつ。多少の無理を感じないでもない」
26日(月)「表現するものと表現されるものに根本的な違いはない。どちらも像に他ならない」
25日(日)「表現と表現の用法は人々の活動の重なりのうちにそれらの適正さを担保している」
24日(土)「人の表現(行為)と表現されるものの先行関係を思考するのは単純な誤謬だろう」
23日(金)「対象と概念を区別してもなお、対象と概念は互いに似た仕方での扱いを免れない」
22日(木)「神にも名前のある神とない神がいるのだろうか。自由で完全なのはどちらの神か」
21日(水)「素晴しい畑・食材・料理は、それぞれ無関係ではないけれど、別々に評価される」
20日(火)「善悪を問わず、なにかしらの信念で人生を練磨している人は独特の美しさを纏う」
19日(月)「人の思考は判断可能な内容に尽きている。しかし、判断はさらに豊かではないか」
18日(日)「努力は「これから」と、そして、「これまで」のためになされているものである」
17日(土)「安定のための束縛の値踏みを反転させるとき人の宣言するものは常に自由である」
16日(金)「人の言葉が台詞だとしたら、人はどの舞台で、なにを演じ、誰に見せているのか」
15日(木)「齢二〇も幾歳越えると、夢見る言葉が身にしみる。さりとて夢の醒めることなし」
14日(水)「その教訓がどうして教訓になり得ているのかを検討することは大切なことである」
13日(火)「呪いは血に流れる。血によって媒介される、連綿と引き渡される現実に感染する」
12日(月)「頭でっかちというのはむしろ勤勉というより不勉強な人間を形容する言葉である」
11日(日)「人は熱狂する。面白さの前では言葉を忘れて、美しさの前では言葉を失うように」
10日(土)「悔いることができるのは常に事後である。後悔の働きはむしろ、その予期にある」
09日(金)「伝統的に、人には最低でも二人の自分がいる。名前のある自分とない自分である」
08日(木)「右手で左手と握手はできない。そのような真似をするときには理由が必要になる」
07日(水)「自分を自分のためにまさに自分として行使するとき私の焦点は合う。透明になる」
06日(火)「気の利いた台詞と違い、気の利いた一文ほど白々しいものはない。一文の宿命か」
05日(月)「私が私を指示するとき、私は指示しているのかされているのか。どちらもである」
04日(日)「枠組みの多重性を無視するときに、日常的な道理を逸脱するということは起きる」
03日(土)「独創的な分節化は良きにせよ悪しきにせよ人を魅了する。人間は現実に感染する」
02日(金)「生の事実と、記述された事実と、それを説明する行為は各々、異なる事柄なのか」
01日(木)「私には、なにをどこまでもつことができて、なにをもつことが許されているのか」

2005年08月

31日(水)「消さないことと残すことの差異は、事柄の裏表にしてはエネルギ消費に差がある」
30日(火)「流れに身を任せるにせよ、身を任せる流れを選択するのは、自分にほかならない」
29日(月)「人を探求させるのは興味である。それでは、人を興味に駆らせるのはなんなのか」
28日(日)「交易で栄えた街がなにも生産しないからといって非難される謂われはないだろう」
27日(土)「空を知っている鳥は、空を知らない鳥とは異なった空を飛んでいるわけではない」
26日(金)「誰もが名言を持つことはできる。しかし、誰もがそれを口にできるわけではない」
25日(木)「時間がないのでも忙しいのでもない。余裕がないというのが穏当なところである」
24日(水)「誠実に適正に他者を認める。自覚があってもそれは言うほど易しいことではない」
23日(火)「新しい発想に触れると人は支配されるか、反抗するか、逃亡するか、無視をする」
22日(月)「自分の情報を持っている自分と、持たれている自分はどのようにして同一なのか」
21日(日)「存在の水準が持ち上がることによって、私たちの言語は物自体に刺さらなくなる」
20日(土)「疑うことも疑わしいと疑うことはどうやったらできるのか。いや、できないのだ」
19日(金)「絆によって結び付られた関係を断ち切るには、自分の身を切る覚悟も必要になる」
18日(木)「有形無形を問わず、なにも作らず、壊さずに生きていられる人間はいないだろう」
17日(水)「自信は人の魅力を何倍にもする。自信こそ、まさに生命力を輝かせるからだろう」
16日(火)「歴史に名を残すことほど恥ずかしいこともない。ただ、だからこそ尊敬もできる」
15日(月)「自己も、他者と観点は違うけれど、しかし、同じようにして自己の情報を有する」
14日(日)「立場が定まることにより、人は己の役割を理解し、使命を把握できるようになる」
13日(土)「感情は常に虚しさに底打ちされている。人はその通底する虚しさに共鳴するのだ」
12日(金)「価値は状況に即して反転もする。価値も、その文脈に応じて評価されているのだ」
11日(木)「誰だって、意図されないなにかに騙されていて、だからこそ生きていられるのだ」
10日(水)「日常を生きているという、ただ、それだけの価値を僕は確認しすぎかもしれない」
09日(火)「見慣れた光景から現れる恐怖に似た感情、それは不気味さでもあり畏怖でもある」
08日(月)「人生に意味はないかもしれないとしよう。だとしても、人生に意味は必要になる」
07日(日)「知的な魂の成長とは、より大きな文脈に自己を定位できるようになることである」
06日(土)「わたしたちは誤まりうる。それと同様に、正しいことを言ってしまうこともある」
05日(金)「ある事柄に真実が複数ありうるのだとするとそれは唯一の事実があるからだろう」
04日(木)「専念しなければならないのは、当然の事柄を描き出すこと、ただそれだけである」
03日(水)「多数の小さな間違いと単一の大きな間違いとでは、どちらがより穏当な間違いか」
02日(火)「手続きの合理性、正当化の妥当性は、もっとも必要とされる不必要な探求である」
01日(月)「なにを、という表現は危うい。言葉に物を捜し求めることは傾向性に他ならない」

2005年07月

31日(日)「表現は言語になりうる。しかし、わたしたちはなにを表現しようとしているのか」
30日(土)「なにかを示そうとするとき、示される事物は、まったくの無前提でいられるのか」
29日(金)「目的を果たそうと思うなら、目的外の事柄を排除することも、ときに必要である」
28日(木)「死後に生きる、生前に死ぬ、不可能という理由に、願望が挫かれるとは限らない」
27日(水)「人は括弧を発明した。しかし、だからこそ、括弧に囚われることにもなったのだ」
26日(火)「言ってはならないことほど知ってはいなければならない、ということはよくある」
25日(月)「私自身を鏡で見るとき、鏡を見ることなしに、鏡に映る私を見ることはできない」
24日(日)「腐っても美味しいということがあるから、物事をズバッと言い切ることは難しい」
23日(土)「音楽が譜の上にはないと言われるのと同じように学問も紙の上にはないのだろう」
22日(金)「作者は意図していないのに作品により示されていることを批評家は掬い取るのだ」
21日(木)「作品と同じように批評もまた評価される。批評は評価に応じる強度を期待される」
20日(水)「その評価は、前提との関係における評価なのか、評価の文脈における評価なのか」
19日(火)「発見は暗闇のなかにあるとは限らない。明光のなかにあるからこその発見もある」
18日(月)「僕に関わる全部を変えるような変化は、僕の関わり方の変化に他ならないだろう」
17日(日)「なにも持たずに生きられるのなら、そのように生きるのも気楽で良いに違いない」
16日(土)「人のこころがわかっても、そのこころの扱い方を知らないのなら、役に立たない」
15日(金)「死ぬのに理由はいらない、理由というのは生きるためにこそ必要とされるものだ」
14日(木)「わたしたちは把握することによって理解するが、把握している部分は隠れている」
13日(水)「いかなる関わりのなかにあるにせよ、人の死を止めた人間に自殺する資格はない」
12日(火)「肯定的な未来より否定的な過去をより積極的に自己に引き受ける人もいるだろう」
11日(月)「葛藤する、後悔する、そうした躊躇いこそ、人間を人間たらしめるのではないか」
10日(日)「明瞭にしてしまうことにより骨抜きになってしまう価値もあると考えるかいなか」
09日(土)「道徳を学習ことによって道徳的になれるかというと決してそういうわけではない」
08日(金)「人間は「なにかである」ことと「なにかになる」ことの狭間で生きているようだ」
07日(木)「常識の水準を高める努力は常に必要だが、無闇に高踏的になるのは避けるべきだ」
06日(水)「自らの人生の全体に関しては後悔することすらできない。幸福なのか不幸なのか」
05日(火)「どの領域においても、最先端を進む人の思考は、いわゆる通常とは異なっている」
04日(月)「幸福は獲得するのか、発見するのか。それを語れる立場になることもまた難しい」
03日(日)「人間の知的な成長とはより影響力のある人に影響を与えられるようになることだ」
02日(土)「成功を語る人は、まず、なにを失敗とみなしているのかを示さなければいけない」
01日(金)「良い環境も悪い環境も人を成長させる、どちらでもない環境は成長には響かない」

2005年06月

30日(木)「現実的な理想は「なにの似合う人間になるか」というイメージにより与えられる」
29日(水)「自分の抱いた興味・関心とその考察は軽視せずに、慎重かつ迅速に吟味すること」
28日(火)「生きる、というとき、結局のところ、人はなにかのために、目的のために生きる」
27日(月)「自分の内側に自分はいない。しかし、自分の外側ではないところにいないと困る」
26日(日)「二度同じことを言っていると自覚するとき、すでに三度目を口にしているものだ」
25日(土)「人はときに外部からの視点を密輸入して内部的に語る。税関の点検がぬるいのだ」
24日(金)「人は自分自身が必然的に同一化したいと思うようなキャラクタを探し求めている」
23日(木)「人権が保障される過程において人権が無視されるということは、常に起こりうる」
22日(水)「環境との同期なしに精神は無力であり精神との同期なしに環境は働かないだろう」
21日(火)「多面的になったとしても他者と接するときに無闇に乱反射することのないように」
20日(月)「言葉を自分のうちから追い出したのなら、時期をみて、再び取り込む必要がある」
19日(日)「たった一秒でも、人は不意に出現した落とし穴を埋めるに足りる満足を得られる」
18日(土)「善には、語りかける善と語りかけない善がある。優しさとはときに冷徹なものだ」
17日(金)「自らの欲していないことを為すということは、どのようなときに表現可能だろう」
16日(木)「人の望みは漠然としている。漠然としているということに望みの潜む余地がある」
15日(水)「人の選好は想像しうる将来の長さに左右される。否。短さに左右されているのだ」
14日(火)「自己の存在を手段とすることで人は透明になる。なにかを介在させる必要を失う」
13日(月)「ある場面において、希みを叶えることと騙すことは同じことの表裏に他ならない」
12日(日)「事実すら、わたしたちの可能性だとしても、日常のなかにそれを語る場面はない」
11日(土)「自己がなにに満足するのかわかっている人は幸福である。しかし、常にではない」
10日(金)「努力しようとしなかろうと、前進するときは前進する。前進とはそういうものだ」
09日(木)「原型への渇望が満たされない時代に、新たな価値の在り方はなにを生むのだろう」
08日(水)「闇もまた、あるものであり、見るものではない。そこにまた闇の魅力もあるのだ」
07日(火)「人は各人の経験に裏付けられた現実により論理空間を固有のものとして受容する」
06日(月)「定義の入力から始まる問題もあるなら、定義の出力で終わる問題もあるのである」
05日(日)「論理が現実を直接に扱うということはない。ただ、論理は現実を洗練するだろう」
04日(土)「人生の意味と価値は死後に示されるため、当人に知らされることはないのだろう」
03日(金)「学問には王道しかなく、探求には正論しかない。王道と正論を受容するしかない」
02日(木)「関係に背を向けるのもひとつの関係であるとみなすなら、忘却すら絡めとられる」
01日(水)「狭義の忘却に関して、人間は忘れていることはできても、忘れることはできない」

2005年05月

31日(火)「厳密であり慎重であることにどれだけの犠牲を払うかは個々人の心根次第である」
30日(月)「死から離れると思考は鈍る。死を不幸とともに語るなら、不幸は実に燃費が良い」
29日(日)「哲学は常に宇宙と人生の全体を相手にしている。いいや、別にそうとも限らない」
28日(土)「正常とはなにかという問いに一定の働きを認めうるということに辟易しないのか」
27日(金)「真面目に思考し、実行し、間違い、失敗しても、それは格好の悪いことではない」
26日(木)「最終的に哲学していることにはなるが最初から哲学しようとすると先に進まない」
25日(水)「憧れに殺されるな、習慣に殺されるな、安穏としつつも生きる決意と覚悟を抱け」
24日(火)「悩みを伝達するということにはどのような効果があるのか、なにを伝えたいのか」
23日(月)「抽出するという態度の語り方は適切ではないのかもしれない。適切な語りとは?」
22日(日)「どうして人はもはや生きられないほどに自殺と戦わなければならないのだろうか」
21日(土)「上に進むか、奥に進むか。先鋭的な地点に歩みを進めるには二通りの選択がある」
20日(金)「最初から語ろうとしている人間と話すことに息苦しさを覚えるのは若さのせいか」
19日(木)「語りの領域に留まりすぎると歩み方を忘れてしまう。言語も脂肪をまとい、太る」
18日(水)「実際、飽きたら死ぬしかないだろう。その決断を止める歯止めは二人しかしない」
17日(火)「自分の実力のなさに息苦しさを感じても、だからこそ、やれることだけはやろう」
16日(月)「後ろ向きに歩いたとしても目指す方向は変わらない。それなら、迷うことはない」
15日(日)「確かめ続けていることと、常に参照することを忘れないこととは別のことである」
14日(土)「わかっていることに関しては、ある段階、ある時点において見切りを付けること」
13日(金)「なにかわからないものをなにかわからないままに抱え込むことは、無益ではない」
12日(木)「真偽を問おうとするなら、発話を文脈から切り離して永久化しなければならない」
11日(水)「書き続けることは、ときに壊し続けることでもある。それには少しの覚悟もいる」
10日(火)「事情はともあれ、自殺した人間に同情は似合わない。自殺は完結した行為である」
09日(月)「考えることは誰にでもできる。ただ、それを妥当な論証にするには訓練を要する」
08日(日)「思うことは誰にでもできる。ただ、それを明確な形に仕立てるには訓練を要する」
07日(土)「結論は導出されなければならない。また、結論は人に選出されなければならない」
06日(金)「基礎はさまざまな事柄に応用できるからこそ基礎なのだから、基礎は移り変わる」
05日(木)「従いたい規律をいかに抽出し、いかに信じ、いかに描き出し、いかに従わせるか」
04日(水)「原因と結果の対応を念頭において語るとき物事は決まっていたかのように現れる」
03日(火)「わかることも、できることも、認められることも寂しいとき、なにもかも寂しい」
02日(月)「自分の冷酷さに落ちこむことに呆れるのは、虚しさよりも不甲斐なさを抱かせる」
01日(日)「頭の働かないときは手を動かせ、手も動かないなら脚を動かせ。思考を諦めるな」

2005年04月

30日(土)「植物の可愛さは成長が視認でき、それに尽きることにあるのかと想像する疚しさ」
29日(金)「解答を美しいと思うとき、それと同等の美しさを問題は有しているものだろうか」
28日(木)「浅はかさと愚かさの履歴を晒すことの厚顔さに呆れるなら絶望するより笑うのだ」
27日(水)「勉学を進めるのに必要なのは体力と意欲であり、もっとも不要なのは才能である」
26日(火)「僕の言葉と僕の文字は、しばしば、それぞれ異なる生命を与えられているようだ」
25日(月)「仕事に価値のある研究者と、人物に価値のある研究者という区別はしうるだろう」
24日(日)「表現したいという欲動に過剰な使命感を伴うときには、人は樹の根に嘔吐もする」
23日(土)「思考は頭のなかにのみあるわけではない、言葉も文字も、すなわち、思考なのだ」
22日(金)「こころの底から悩み、その悩みを自覚する者に悩みを語ることはできないだろう」
21日(木)「いかなる種類の発想も、まずそれを知覚可能な形にしたということが評価される」
20日(水)「準備万端になるまでは始められないというのは、準備を軽視しすぎているだろう」
19日(火)「物的対象も内包的存在者も、結局、外延的に、知覚可能な仕方で現れるしかない」
18日(月)「思考の速度は上がっている。思考を表現したいという願望の速度も上がっている」
17日(日)「変わらぬ環境に、大勢の人に、囲まれて、笑って、生きる、それも幸せなことだ」
16日(土)「大人になるほどに可能性は狭まる。しかし、その一方で、選択肢は広がってゆく」
15日(金)「より見晴らしの良い場所に行きたい。そう思ってしまったら、もう逃げられない」
14日(木)「伝統に潜り、それとともに歩もうと思う限り、その新奇性は破壊的にはならない」
13日(水)「人間として生きることは人の間に生きるということ。生きていると忘れてしまう」
12日(火)「勉強は続けるうちに、いつしか探究に変貌する。それは人生と同じようなものだ」
11日(月)「思考を表出するとき不意に誰かを真似してしまう。思考に感染しているのである」
10日(日)「生きようと思うとき、弱らないだけでも良いのである。なにも怖がることはない」
09日(土)「価値を付与することに必死になるよりも、自分の仕事をきっちりとこなすことだ」
08日(金)「生き抜いた、やり抜いた人にしか言うことのできない言葉というのはあるだろう」
07日(木)「説明という言語行為は発語内行為だろうか、それとも発語媒介行為なのだろうか」
06日(水)「見上げられるようになったとしても見下してはならない。敬意は人のためならず」
05日(火)「人は間違うことができる。それは幸運なことであるし、幸運はときに冷酷なのだ」
04日(月)「ただ、どうすることがもっとも人に迷惑をかけないことかを考えることは重要だ」
03日(日)「助けることには労力を惜しまず、助けられることは避ける。これは傲慢ではない」
02日(土)「やるときはひたすらにやること。そのとき、なにをどうやるかを語る余地はない」
01日(金)「事前に評価されている失敗に関しては、失敗とはなにかわからないから失敗する」

2005年03月

31日(木)「なにをもって失敗とするかを定めずに、無闇に失敗を恐れるのは経済的ではない」
30日(水)「言語化すること、コード化することで、カタルシスが得られるのはなぜだろうか」
29日(火)「初めての出来事に言葉を求めても致し方ない。言葉は煮詰めた思考に載せられる」
28日(月)「議論は著述のための刺激であり、著述は議論のための種子・栄養のようなものだ」
27日(日)「人は二度生まれる。そして、人は名のために生まれる。これは第三の誕生である」
26日(土)「見渡したら異常なものばかり。なるほど、それこそが正常なのだと、ふとわかる」
25日(金)「「なぜ」という問いは、はたして、なにを、どのように求める問いなのだろうか」
24日(木)「興味を持ったことは興味を失うまでやってしまうこと。それが最短の選択なのだ」
23日(水)「誰しも「そのようにしかできない」ということを積み重ねて、形にしているのだ」
22日(火)「努力は報われる、そう信じるにせよ、その結果が自分の望むものかはわからない」
21日(月)「虚無に消えたいと願い、歴史に名を残そうとする、この願望の矛盾は人間らしい」
20日(日)「無駄だと思うなら、無駄だとわかるまでやることだ。無駄なら、やらないことだ」
19日(土)「もし三人に尋ねられたら、三通りの仕方で応答しよう。同一の質問はありえない」
18日(金)「結婚とは流動的なものを強引に押し留めて利用するダムのようなものではないか」
17日(木)「あからさまに好きなものを「好き」と言うときも、その発言は無駄ではないのだ」
16日(水)「運命も自由も才能も振り返ったときに得られる。傾向性としてみるとどうだろう」
15日(火)「政治的に大切になるのは皆の幸福よりも皆が不公平を感じないことのほうにある」
14日(月)「表立った不幸のあるほうが、幸福であると思われるよりも気楽ということはある」
13日(日)「情は相手を包み込み、理は自分を研ぎ澄ます。両者の同時性は人柄に左右される」
12日(土)「現実にならないからこその理想なのだとすると、その不能の考察は有意義だろう」
11日(金)「頭のなかに梯子はない、言葉のなかに階段はない。差異の形象に引き摺られるな」
10日(木)「中途半端な知識は役に立たないだけでなく、ときには有害なものとして機能する」
09日(水)「普通なこと、奇妙なこと、隠れていること、そういう大切さの多様性を忘れるな」
08日(火)「人の年齢が発言に与える影響は侮れない。年齢という基準は古いが無視できない」
07日(月)「知識は魅力的に統合されることにより、特定の基底に支持される描像を形成する」
06日(日)「生まれることと死ぬということ。生に神秘をみるのなら死もまた神秘に違いない」
05日(土)「発話の含みを言語化するということは、まさに冗談を説明するようなものだろう」
04日(金)「水底が充分に深いのなら、そこにある水が透明だとしても逃げ場所には困らない」
03日(木)「僕は諭す。そして約束する。そうやって善意を積み重ねながら罪意を深めるのだ」
02日(水)「学習を進めるたびに無能さに打ちのめされてなにも残そうと思うことができない」
01日(火)「満足しやすい閃きなほど忘れやすいのは、閃きで満足するなという啓示だろうか」

2005年02月

28日(月)「眠る記憶はどこかにあるだろうか。抽象の階段は曖昧なものを明確にしてしまう」
27日(日)「嫉妬ほど、人を誤らせる心的状態もない。それだけに非常に人間的な心性を育む」
26日(土)「必要に差し迫られない限り関わらないという態度は、基本的に適切な態度である」
25日(金)「気付けないことと同じように、見逃せないことも、ときに罪深いものに違いない」
24日(木)「本当はこうしてあげたいのにと相手に思うほどに人は他者を許せないようになる」
23日(水)「家庭に憧れ、その憧れに惹かれるとき、やはり独りでいることは正しいと感じる」
22日(火)「個性は出すものではない。個性は観察者の目に映じる個々人の色のようなものだ」
21日(月)「格言はそれがそこにあるという不自然さに価値がある。格言に良いも悪いもない」
20日(日)「所有したいと思うほど憧れる異性の不在、支配される願望のなさ、これは不幸だ」
19日(土)「感情を他者と協同的なものとして抱くためには少し壊れることが求められている」
18日(金)「苦労はないにこしたことはない。ただ、苦労に一定の説得力があるのもたしかだ」
17日(木)「落とした刃物を避けなければならないのはどうしてだろう。この問い方の卑怯さ」
16日(水)「行為の純粋さに集中力をみるなのか、行為を純粋にするものこそが集中力なのか」
15日(火)「自分が絶望のうちにあるのにその絶望に関わることのできないという絶望もある」
14日(月)「希望のなかで絶望の理由を探そうとするから混乱する。希望は絶望に漂っている」
13日(日)「どこまで、なにかわけのわからぬことを望み続けていることができるものだろう」
12日(土)「伝統は豊かな想像力に庇護されることで、その伝統にふさわしい輝きを取り戻す」
11日(金)「あらゆる思想を自身の言語に翻訳できるのなら、その人の理解・構成力はすごい」
10日(木)「誰も見たことのないものを見られたら幸せだろうか。どちらも、わからないのだ」
09日(水)「立ち止まって振り返ることは優しさか。突き進む後ろ姿を見せることは優しさか」
08日(火)「心配するなら、行動することだ。心配じゃないなら、もうちょっと心配しなさい」
07日(月)「学際的とは、複数の分野を横断することではない。新しい分野を形成することだ」
06日(日)「旅によって感覚が敏感になるのではない。旅によって日常の鈍感さに気付くのだ」
05日(土)「影響を受けるというのは、早い話、自分自身、その人になろうとすることである」
04日(金)「考えることを考える。まさにそうするときの思考を起点に多様性の種は蒔かれる」
03日(木)「原因は限定できない。意図していたことだけが、結果として現れるわけではない」
02日(水)「常識の変化は許すにしても常識を制御できないなら常識から逸脱してはならない」
01日(火)「愛が界面活性剤だとすると、それは自己と他者を混ぜ合わせる機能を持っている」

2005年01月

31日(月)「さながら物語を読み進めるようにして、しばしば、人間はその人生を先に進める」
30日(日)「優秀であるという評価には、なにかしらの社会性を有していることが前提にある」
29日(土)「自分しかいない世界において主観と客観は同一にならないか。なる。なるだろう」
28日(金)「客観が主観を前提するのか、主観が客観を前提するのか。共同的に成立するのか」
27日(木)「現実に譲歩すると理論は成らない。現実を見ているだけでは現実は変えられない」
26日(水)「転回前と転回後の両方を知って初めて、その転回を理解したということができる」
25日(火)「知識が自律的に役に立つわけではない。知識とは人が生活に役立てるものである」
24日(月)「ある問題が理解しうる問題なのかどうかは、実際に解こうとしないとわからない」
23日(日)「「わかりうるはずなのだから、わかるはずだ」という信念こそ、人を迷路に誘う」
22日(土)「いろいろあって良いということは、必ずしもそうであって良いことを意味しない」
21日(金)「新しいものを知らない人には古いものはない。中りを知らない人には外れもない」
20日(木)「論理により理解し、感情により説得される。理屈や道理とは、その合成物である」
19日(水)「人に言うほどではない、人から訊かれるわけでもない、それでも価値は見出せる」
18日(火)「多視点から物事を眺められても、一方からしか光を当てないなら見落としも残る」
17日(月)「実践に使おう、なにかに役立てよう、その有用性に凝り固まると視野が狭くなる」
16日(日)「寝ている記憶はない。寝る合間に起きているのか起きている合間に寝ているのか」
15日(土)「意識するな。静かにやれることに集中しろ。その先の問題は、その先で処理しろ」
14日(金)「その選択を内側に受容するか外側に廃棄するか。この象徴的な区別に差異がある」
13日(木)「選ぶということと選ばないということは俯瞰的に見られるのなら表裏一体である」
12日(水)「人間の大勢いる空間は歪んでいる。比喩的にもそうだし、実質的にもそうだろう」
11日(火)「何時に起きても一日は短い。長い長い一日を過ごそうと思うなら寝ないしかない」
10日(月)「人生には、解決する方法よりも、解消する手法のほうが重要に感じる局面がある」
09日(日)「わかるという自信を掲げるのは危険な兆候だ。理解に自信は必要ないからである」
08日(土)「悔いは選択できないが、経験を積むことで後悔の方向を予測することならできる」
07日(金)「いまここにあるものをたしかに読もう。たいてい、それはもう二度と読まれない」
06日(木)「無理に憶えようとする必要はない。最低限、場所を忘れなければそれだけでいい」
05日(水)「身をもって示すとは、ときに予測を体現することだ。予測の的中は語るに落ちる」
04日(火)「雑草という草がないように、雑学という学もないし雑誌という誌もないわけです」
03日(月)「言語はトレードオフされない。言語は翻訳するのではなく新たに付け加えられる」
02日(日)「最初から完全に理解する必要はない。理解してしまうことから理解に到達できる」
01日(土)「知識は鞘に収めてこそ適切な効果をもつ。剥き出しの知識はむしろ人を傷付ける」

2004年12月

31日(金)「なにもいらないからといって、なにもかもを捨て去るわけにはもちろんいかない」
30日(木)「信念や使命を感じることができないのなら真面目にできないとはどういうことか」
29日(水)「信じ続けていること、やり続けていることの潜伏的な意思は、日常を底上げする」
28日(火)「マイノリティとしてふるまわないマイノリティは、もはやマイノリティではない」
27日(月)「少人数であるという理由だけにより、その集団がマイノリティになるのではない」
26日(日)「なにも望まない強さは息苦しい。その息苦しさをも踏み固められる強さが必要だ」
25日(土)「完全に下らないものなどない。それは単に面白がり方を知らないだけなのである」
24日(金)「模倣はしばしば、原形の表現しようとしていた意図や特徴を先鋭化して表現する」
23日(木)「夢を見ることのできる人は幸せだ。そこ目指して歩みを進めることに執心できる」
22日(水)「さまざまなものを失って得たものが強さだとしたら、なんと皮肉なことだろうか」
21日(火)「そのまま描いたときの「そのまま」の真実性は、ときに写実性から乖離している」
20日(月)「実際に存在するものをまま描いても、そのときの臨場感は伝わらないこともある」
19日(日)「わたしたちは虚構のなかに実在に感じる以上の現実感を認めることもあるだろう」
18日(土)「誤解のないとき理解も得られない。理解はさまざまな誤解の変種のひとつである」
17日(金)「現実において虚構は実在と同じように扱われ、虚像を通して人の精神に影響する」
16日(木)「虚構は虚構として価値付けられている、虚構は実在の精気を欠いた残滓ではない」
15日(水)「格好良い、可愛い、ということを過小評価すると、評価基準のバランスが崩れる」
14日(火)「なにになるかよりもいかになるかのほうに注力するほうが経験は積み重ねやすい」
13日(月)「迷うな、迷ったら動け、迷ったら歩け。行動、動作、これは引き戻す働きをする」
12日(日)「なにもないところになにかがあるようにみせることのほかになにがあるだろうか」
11日(土)「批判は人を信頼するための行為だ。彼の論を批判できるなら、彼を信頼もできる」
10日(金)「泣ける人は泣いてしまうといい。掛け値なしに泣けるということは幸福なことだ」
09日(木)「笑うこと、愛すること、そうできると信じるだけで、世界は変わるものだろうか」
08日(水)「得ることが失うことであり失うことを望むとき、人はなにを得ようとしているか」
07日(火)「全員が知らないのは困る。ただ、全員が知っていることによって困ることもある」
06日(月)「それはしっかりと無駄か。ちゃんと頭を使わないと無駄なことすらできやしない」
05日(日)「見たものには見方も反映されている。雪は降り積もる、僕は窓越しに眺めている」
04日(土)「知識はあっても虚しいだけ。ないのなら、虚しさもない。虚しさの自覚を侮るな」
03日(金)「逃げることが悪いのなら、その悪さは逃げることに全力を尽さないところにある」
02日(木)「自信が欲しいとは思う。ただ、僕はもう、どこにそれがあるかは知っているのだ」
01日(水)「天才を考察することと神的存在を考察することは聖性のあり方において類似する」

2004年11月

30日(火)「理解できたことは忘却されると言うとき、理解は身体化された知識と同一である」
29日(月)「未来が決定されていないことは時制の表現自体に帰されているようにも思われる」
28日(日)「言葉にして欲しいと願うことだからこそ、安易に口にしてはならないこともある」
27日(土)「根本的に開かれているかどうかはその人の発想の体系の全体に関わることである」
26日(金)「好きという感覚を抱かないほどにその領域に浸ることが、ものの上手を育成する」
25日(木)「成立していない事柄も了解しうる仕方により把握しようとするとき全体は現れる」
24日(水)「誰かに頼ってほしいときにその人に頼ってもらおうと仕向けることは傲慢だろう」
23日(火)「書きえないことを書こうとすることができるときにそれを書かないことはどうか」
22日(月)「希望が失望より常に多い。それは生き残る条件でもあり、絶望する条件でもある」
21日(日)「弱音を吐いている余裕も後悔している余裕もないのは、まさしく余裕のない証拠」
20日(土)「論理に従うということは実質的には態度である。そうでなければ従うまでもない」
19日(金)「われわれは現実から始めるしかない。わたしは現実から始める。私の現実からだ」
18日(木)「裸の対象は服を纏うことで公然と人前に現れる。この巧妙な比喩は実に疑わしい」
17日(水)「凡才の自覚があればあるほど、その凡才さを吐きださなければ生きていられない」
16日(火)「楽しみ方を模索するうち、ときに人は楽しむことを忘れているのに楽しいと言う」
15日(月)「その影響を秘匿されるような人でないと、他人の現実に染み込むことはできない」
14日(日)「十分に明晰な人同士の論証の帰結に食い違いがあるときは、隠された前提がある」
13日(土)「特別なことをしようと思うことはない、していることを特別なものにすることだ」
12日(金)「変化は変化するのかしないのか。変化はもう少し分類して把握することができる」
11日(木)「価値は人間の後ろにしかない、僕の前にある価値はいったい誰の価値だったのか」
10日(水)「哲学しているということを愛している人の哲学的な思索ほど痛々しいものはない」
09日(火)「結局のところ、日常の些細な選別こそ重大な決定になりうることは肝に銘じたい」
08日(月)「哲学が嫌いな人の哲学は気持ち悪い。ただ、気持ち悪さは、非常に強い力も持つ」
07日(日)「できるかできないかよりも、やるかやらないか。潜在的な能力は無視されている」
06日(土)「わがままになることによってのみ、人は他者の自死を妨害することができるのだ」
05日(金)「苦にならぬものをきわめようとするならその過程に困難があろうとも幸福だろう」
04日(木)「夢も現実も世界との距離は変わらない。ただ、夢は現在から未来に向かっている」
03日(水)「夢は現実の出来事である。なぜなら、夢を過去に見ることはできないからである」
02日(火)「説明、解釈、示唆。明確に異なるのだが、実のところ、それは精度の違いだろう」
01日(月)「全体を記述することはできない。全体とはそういうものだ。意図を把握すること」

2004年10月

31日(日)「発想の探求はどこまで自分を拡張することができるかという好奇心に基いている」
30日(土)「書き残すことで生命を存続させる一方、書かないことで何を守っているのだろう」
29日(金)「同時に歩む人にこそ重要な人間であるなら、残されたものは残りかすにすぎない」
28日(木)「自分自身が作品となるのは非常に効率の良い手法である。幾分、狂気だとしても」
27日(水)「道徳は見ている自分から始まる。見られる自分より見ている自分の正しさを望む」
26日(火)「思考を形態にする手法、発想の表現とその効率の良い伝達はきわめて多様にある」
25日(月)「正しさを表現することと、正しいことを表現することは、もちろん異なっている」
24日(日)「機械と人間、思考と物体、それらを互いに還元する試みは境界を内側から溶かす」
23日(土)「会いたいと思うとき、必然的に、会いたい人はいない。所有の願望は不在を伴う」
22日(金)「熱情冷めやまないうちは理解も身を潜める。あるいは、それは理解の幻想なのか」
21日(木)「性別になにか価値があるだろうか。すると、生命にはどのような価値があるのか」
20日(水)「生命を絶つ権利を奪った罪は重いと僕は考える。だから、僕はもう自殺できない」
19日(火)「問題に取り組むことと問題を有することは異なる。問題になるまでが重要なのだ」
18日(月)「日常的思考にまで常に最適化を施していると、酷い虚無感に襲われることもある」
17日(日)「私の望みは、いかなる痕跡も残さずに、それが溶けさったということを示すこと」
16日(土)「言説の有用性はその保持者の態度によるところも大きい。これはどうしてだろう」
15日(金)「たゆたうときには幽玄に、とどまるときには緩やかに、さすらうときは麗らかに」
14日(木)「読まれることを前提に記述するように教えることを前提に学習する覚悟をもとう」
13日(水)「人間は壊れることのうちに充実を感じ、壊れることにより関係のうちで安定する」
12日(火)「存在自体が武器になるような自己の高まりは欠損を補って余りある魅力を有する」
11日(月)「常に思考して行動しているなら、思考する時間をとることを避けることができる」
10日(日)「認められることを待っているよりは、認められうることを継続するようにしよう」
09日(土)「事実を経験することができるのなら、夢を見るということもできるかもしれない」
08日(金)「恋は盲目、愛は寡黙。恋は恋することのうちに愛は愛することのうちにのみある」
07日(木)「個別の存在者は存在させたいという意志によって継承される。存在は存在しない」
06日(水)「学習方法の定着から始まるような学習というのは基本的には躾の延長にすぎない」
05日(火)「明確な境界をもたないのに名前を付与される対象や概念はアンカとして機能する」
04日(月)「対立する象徴の落とし込まれた絵画は言及されるよりも活性化させたことを喜ぶ」
03日(日)「大勢の人の集まりが群衆をなすとき、そのふるまいの変化はなにに依拠するのか」
02日(土)「量が質に転化する、質が量に転化する、これらは単に着眼点を変えたにすぎない」
01日(金)「花が花畑になると観光に役立つように量質転化とは対象の認識単位の変化である」

2004年09月

30日(木)「なにを考えるかではない、いかに考えるかこそを最初に意識しなければならない」
29日(水)「終えるために始められ、忘れるために知られる。違う。極端の強調に酩酊するな」
28日(火)「自らに恥じるということは自らを蔑むということではない。自恥は自虐ではない」
27日(月)「意味は明確に、意義は明瞭に、証明により判断して、決意し、誠実に主張しよう」
26日(日)「注目に値しないものにより注目を浴びることを認める余裕は回帰した成長である」
25日(土)「冬の静かな薄暗い夜明けがどれだけ人に優しいか、夏はもう少し見習ってほしい」
24日(金)「人間は愛の方向に敏感だから、愛されたい人同士の交際はやはり破局するだろう」
23日(木)「年齢という表現の無粋さをあまり意識しない人は年齢相応のあり方も意識しない」
22日(水)「手の内を見せるなら奥の手を隠しておけ。右手で行為するとき左手は隠しておけ」
21日(火)「近いという距離感を確認するときに自分と相応の距離にある人のことを思い出す」
20日(月)「最初の大切さ、すなわち、計画の重要さは、遂行能力の高さに比例して低下する」
19日(日)「見えないものこそ、見ようと思われる。見えているものを見ようとは思われない」
18日(土)「あるものが見えないということは、同時にあるものを見ているということである」
17日(金)「互いの望みが互いの望みを充足する関係を互いに望むことは意外に容易ではない」
16日(木)「知るということは内奥に向かうことではあるけれどそれでも表層に留まっている」
15日(水)「人はときに歩き疲れる、知恵とは歩き続けられる者のためだけにあるのではない」
14日(火)「日本では、理屈は嫌われる傾向にある。知識は身体化されていることを望まれる」
13日(月)「知りうることは、知りうる仕方で提供される。知るということは、知られている」
12日(日)「わかっていることを知る。どうして知識の豊かさに差があるように思われるのか」
11日(土)「言わなければわからない相手には、やはり言ってもわからない場合はとても多い」
10日(金)「芝居が芝居みたいでは芝居にならない、本気の偽者はやはりたしかに本物なのだ」
09日(木)「浅はかだった、なにかを知るたびにそう思う。そうして、深みにはまるのだろう」
08日(水)「好かないものを嫌うとき好悪の尺度は反転する。それは人生の姿勢の変化である」
07日(火)「自分のこころを感動させたものを、あなたなら、どのように受けとめるだろうか」
06日(月)「小人を続けていても大人は始まるらしい。大は小を兼ねるというのはこのことか」
05日(日)「自分の行為のもたらす帰結を過大評価しないこと、潔さとはそういうものだろう」
04日(土)「人間は日常的にあまりに騙されているため、つい騙していることを忘れてしまう」
03日(金)「幸福な生活に不幸な人間が必要とされるというのは、理解として不適切ではない」
02日(木)「鍛錬とはできるようになることではない、できてしまっているようになることだ」
01日(水)「経験の右足は知識の左足である。利き足はあるにせよ人は両方を用いて歩むのだ」

2004年08月

31日(火)「自己欺瞞を指摘する場合、その問題点は欺き・過ち・空々しさにあるのではない」
30日(月)「現実ほど常識を逸脱したものはない。現実を共有できるなら、人は孤独ではない」
29日(日)「相対主義的な圧力により社会の自然化を推し進めると反動的な本質主義が現れる」
28日(土)「幻想の共同体を解体したとしても、言論行為の境界規定性は決して霧散しえない」
27日(金)「諸生物がその固有の世界をもつようにやはり、人間は人間の世界をもつのである」
26日(木)「人を疑うのは精神の経済を圧迫する。それゆえ、人から疑われないようにしよう」
25日(水)「ないことを認め、ないものを演じようと思うかどうかを決断させる状況はなにか」
24日(火)「限界において思考は鋭利にきらめく。中程にある思考は調整的なものにおちつく」
23日(月)「あえて言わないことや、その人の全部は相手にはしないことは、不誠実ではない」
22日(日)「複雑な環境が成長を早めるというのはそういう環境にしか成長はないからだろう」
21日(土)「否定的な意見や態度を他者にとれる人は、肯定的な意見や態度をとる人に近しい」
20日(金)「具体的な事例を挙げることの難しさは抽象的な思考に理解が依存しているからだ」
19日(木)「称賛はある種の攻撃ともみなされうる。適度に称えることには沈黙が伴っている」
18日(水)「表現される弱さの有する力は馬鹿にできない。弱さは強さと同様に影響力をもつ」
17日(火)「閃きは、その瞬間までに蓄えられたポテンシャルな発想に左右されるから面白い」
16日(月)「私が涙を流すときに涙を流すためには、いったい、どれだけのなにが必要なのか」
15日(日)「恥じてなお続けよう。ただ、自分が恥じることにより恥を積もらせてはいけない」
14日(土)「寂しさのために自由を犠牲にすることを否定はしない。人はときに不自由を好む」
13日(金)「表現されないときには事実すら現れない。ただ、事実の現前を求めるのは人間だ」
12日(木)「わかるからこそ実行しないことはある。わかるとわかったの違いはどこにあるか」
11日(水)「わからないから実行できることやわかるから実行できないことなどあるだろうか」
10日(火)「わからないと伝達することと、わかると伝達することには、やはり差異を感じる」
09日(月)「覚悟を決めろ。大体において、覚悟を決めること以外にやることはないのだから」
08日(日)「人間は、知識を求め、知識を消化するのと同様に、感情を求め、感情を消化する」
07日(土)「楽しんでいる人間に立ち向かうには楽しむしかない。疲れないうちはそれでいい」
06日(金)「正しさを主張しながら他人の誤りを否定しないということがありうるのはなぜか」
05日(木)「すでに把握していることしか知ることはできないとすると、残るのは自覚だけだ」
04日(水)「比喩は真理の表象を固定する傾向がある。問題はその用法の固定されなさにある」
03日(火)「思考するということを思考するには、まずもって、思考していなければならない」
02日(月)「正座・瞑想・呼吸、非対称の全体、揺れる、揺れる、頭が揺れる、集中できない」
01日(日)「死なないこと、それは生きること。生きること、それは眠りつつも夢を見ること」

2004年07月

31日(土)「人はさながら逃げるようにして知ることを欲する。たまに勇敢で鈍感な人もいる」
30日(金)「人間の単位は人であるというのは聡明な認識だ。区別していてもおかしくはない」
29日(木)「重要な個体を慎重に引き寄せることで、周囲の流体もまた、静かに変動を始める」
28日(水)「壊そうとしてそれがなかなか壊れないことを知ると、もったいなかったとわかる」
27日(火)「個別に意見を交わしても大局的な問題の解決にはならない。主体の単位が異なる」
26日(月)「楽になりたいなら壊すといい。その代わり、壊したあとに何も残してはいけない」
25日(日)「人が集まること、人が話すこと、人が笑うこと、その異常さに、慣れるだろうか」
24日(土)「大事だから大事なのだとするともう、それはどうしようもないほどに大事なのだ」
23日(金)「哲学は思考の方法と異なる視点の提供である。体系的になると哲学から離脱する」
22日(木)「発想は浸透して、忘れ去られる。転回と転回を把握することは異なることである」
21日(水)「いま僕に必要なのは我慢と自覚である。我慢と自覚は意識しないと忘れてしまう」
20日(火)「人生はどこにある。人生とはなにか。人生のどのような問い方に意味はあるのか」
19日(月)「決める意志は常に覚悟している。覚悟を決めるというとき、人はなにをしたのか」
18日(日)「一切の執着を断ち切ったとき、進むべき方向に背を向けているということはない」
17日(土)「隠される人生を掬うことはできない。それでも、人生を惹き受けることはできる」
16日(金)「自由ではないかもしれないと思うことは、自由の現れなのか不自由の現れなのか」
15日(木)「自己を無価値化することで他者を貶めることは、両者の人生に対する冒涜である」
14日(水)「誤解して困る、誤解されて困るということはない。理解の度合に困るのではない」
13日(火)「使われ、利用されるということが嫌悪の対象なのではない。逆もまた同じである」
12日(月)「動きのなかに私は溶け去る。液体から固体に、固体から液体に、人は移り変わる」
11日(日)「不運の清算を新たな幸運に求めるよりは不運の点検を怠らないことに運は開ける」
10日(土)「理解の本質は誤解にあるにせよ、よりましな誤解をするために理解しようとする」
09日(金)「努力するとき能力は伸びるだろうが、能力のないときほど努力のしがいは小さい」
08日(木)「身体で思考し意思で行動する。どう把握しても決断の積み重ねには違いないのだ」
07日(水)「価値に殺されるな。価値との距離感を適切に保つなら、価値を恐れる必要はない」
06日(火)「私の極限は全体に逆流する。どうしてこうしたことはたびたび起こるのだろうか」
05日(月)「好きという感覚を抱かないほどに特定の領域に浸ることはモノの上手を育成する」
04日(日)「文化に様式をみるるように個人に様式をみるなら、様式は本質ではないとわかる」
03日(土)「違和感を明確な問題に仕立てることにより新しさと古さは相互に位置付けられる」
02日(金)「無垢な信仰の綺麗さには圧倒される。そこにはなにかしらの完全さがあるからだ」
01日(木)「結局、その距離を計れる程度にどれだけ遠いところに行けるかということだろう」

2004年06月

30日(水)「常に意識しろ。最初の一歩は最後の一歩に最後の一歩は最初の一歩に左右される」
29日(火)「自分を放り出すために周りを取りこむことから始めるのは、古いのかもしれない」
28日(月)「まとめることは非常に冗長で疲れるけれども、もっとも影響力があるように思う」
27日(日)「見ることは知ることの、知ることは生きることの、ひとつの側面にほかならない」
26日(土)「思考を表現する理由は、経済的な事情による。それは思考の、記憶の経済である」
25日(金)「なるからするのではない、するからなるのである。ただ、なることは予期される」
24日(木)「不思議さが霧散したとしても不思議を感じることはできる。神秘は煮詰まるのだ」
23日(水)「望まないということを望ませるのもやはり理不尽だが、理不尽さは欠点ではない」
22日(火)「価値を捨てさせるために財を捨てさせるのは理不尽だが、きわめて有効ではある」
21日(月)「知らないことを、忘れることはできない。これは忘れるということの前提である」
20日(日)「周知しようとしないで学ばれることを願い、気付かれない成果を儚むのは虚しい」
19日(土)「何事も忘れられてしかるべきである。「忘れる」とは本棚に本を戻す行為に近い」
18日(金)「多様性はどの次元にあるのか。多様性を認めることと特定の個人を認めないこと」
17日(木)「見る、知る、捨てる、そして動こう。また、動かそうとするときに人は思考する」
16日(水)「文字になにかしらの力能は認められるか。ひとまず、文字自身には認められない」
15日(火)「常識を柔軟に尊重し、誠実に思考の枠組みを豊かにするなら、知の泉は枯れない」
14日(月)「変えるように変わるのではなく変わるように変えるなら、さして無理は生じない」
13日(日)「自然は自然を必要としないに違いない。「自然」を求めるのは人間に他ならない」
12日(土)「特別なものを大事にすることはたやすい。特別ではないからこそ大事にするのだ」
11日(金)「自然は分散して維持され、保持される。実のところ、昔からそうだったのだろう」
10日(木)「どうでも良いことを持つことは高尚ではないか。雄孔雀の飾り羽とも違うけれど」
09日(水)「時間によって問題が解消されたとしても、失われたものが回復するわけではない」
08日(火)「ありがたいという表現は、存在ではなく状況に対して用いられていることが多い」
07日(月)「苛立つ人は幸いである、その人は知っている。ただ、それを知られるのはどうか」
06日(日)「人間としてふるまうことを忘れて人間ではいられない。いやしかし、どうだろう」
05日(土)「なにも教えられはしない。学ぶしかない。しかし、「学ぶ」とは不思議な現象だ」
04日(金)「冷たい愛は、捨てられるときに失われる。最初から冷たいとそういう利点はある」
03日(木)「適切に無視するということは重要なことである。それは不寛容でも傲慢でもない」
02日(水)「そのとき人は執着の断絶を維持しうる生活態度に落ち着かせ、思考を安定させる」
01日(火)「否定する意思は否定を表現することも拒否する。否定する意思は否定を拒絶する」

2004年05月

31日(月)「強いのはだめ、弱いのはもっとだめ、だめだめ言っているのはもう、かなりだめ」
30日(日)「必然性、絶対性、客観性、それらを超越的に想定するところから、誤解は生じる」
29日(土)「間違いたいなら、間違わないようにすることだ。大きな間違いに憧れはしないか」
28日(金)「還元するのがだるいのは危険な兆候か。性向は適切に統制されなければならない」
27日(木)「表現のうちの目的語を消すと表面から深層に向かう多様な演出効果を期待できる」
26日(水)「気付かれたら、おしまい。それはそう。そしてたぶん、また始めるしかないのだ」
25日(火)「悩むことと考えることは違うと考えるより、どうして同じと考えたのかが問題だ」
24日(月)「嬉しさを余剰と位置付けるとき、嬉しさは異常事態として把握される傾向にある」
23日(日)「わからないなら、わからないふりをしろ。わからないのかわからないではないか」
22日(土)「困る状況にあることにも当面気付かないのだから知らないことで困ることはない」
21日(金)「ようは本当にわかりたいのかどうかである。しかし、わかってどうする。本当に」
20日(木)「答えのない問いには、それを問うこと・それの問い方のうちに答えも求められる」
19日(水)「なにのために知るのかを知る人は幸せだ。ただ、幸せでないことが不幸ではない」
18日(火)「取り込まれるようなときは、そのうちに取り込まれたことは意識されないものだ」
17日(月)「あまりにも神に近い人は誰に許しを乞うのだろう。いや、許しなど乞わないのか」
16日(日)「貴重な時間という表現は、時間が貴重だとすると、不誠実であるか、冗長だろう」
15日(土)「意図的に境界を設定することは必要になる。またそれは常に流動的であって良い」
14日(金)「端的な間違いを提出し続けることの有益さは、その間違いの正しさに因っている」
13日(木)「地を歩むことを忘れないのなら、視点を浮遊させても身体を忘却することはない」
12日(水)「差異は似たものの集まりのなかにこそ現れる。他者と自己は反照的に認められる」
11日(火)「人のために生きるという状況に甘えることは欺瞞であるとしても不必要ではない」
10日(月)「摩擦は求められているわけではないのだろう。摩擦のない体系からの回帰である」
09日(日)「自分の愚かさによる時間の不足はどのように予測し、補うことができるだろうか」
08日(土)「閉じる側面を描いたとき、それには外側もある。「描く」という用語に難がある」
07日(金)「生きてるだけで、けっこう、満足しちゃってる。となると、もう、死ぬしかない」
06日(木)「解答がないと言うことは、問題をなにか誤解しているということを示唆している」
05日(水)「訳すときに読むという行為が通常よりも濃厚な行為になるのはどうしてだろうか」
04日(火)「どこまでも諦めないのが学問の精神か。違う。それは個人の性格に依存している」
03日(月)「いかに命題から対象を抜き取るかを思考するとき、命題は現実的な存在者になる」
02日(日)「人はどう考えればよいのかわからないときに悩む。ときに悩みは考えを生み出す」
01日(土)「もっと遊ばないと、と思うことは、もっと働かないと、と思うことと変わりない」

2004年04月

30日(金)「表現できない発想は空虚だろうか。「表現できない」とは、どういうことなのか」
29日(木)「あらゆるものに意思を見る。僕はむしろ、その逆のことに惹かれる気持ちが強い」
28日(水)「自殺せず生ききる、それこそ、幸せに生きたと最期に言うためには必要なことだ」
27日(火)「問題と対峙しないためには問題を持ってしまうこと。問題は捨てることもできる」
26日(月)「願いは無駄、祈りは贅沢。しかし、そも、人生とは無駄で贅沢なものではないか」
25日(日)「どうして人はなにかを信じたがるのか。死なないため。たしかに、それはそうだ」
24日(土)「形は示され、色は語られる。いや、違う。そう考えてしまうことこそが不思議だ」
23日(金)「人生は命がけだ。一個しか賭けられないのだから、大した見返りは期待できない」
22日(木)「森の中に樹を隠し、その全体を眺めるとする。私はいったい、なにを隠したのか」
21日(水)「なにかを手に入れるためには、そのなにかのところに足を出さなければならない」
20日(火)「視野が飽和するまでは、良いものを精査するよりも、悪いものを削除することだ」
19日(月)「伝統的な哲学的問題は静かに忘れさられる。それは勿体無いが悪いことではない」
18日(日)「価値があるということにそれほど固執することはない。価値とは指標なのだから」
17日(土)「主張できない人間は意見しないほうが良いとは思わないが、提案に自覚は必要だ」
16日(金)「正しさは正しさを求める。より基礎的な正しさを求めるのなら、問題は生じない」
15日(木)「詩はむしろ、わかりうるという可能性に込められた人間の期待にこそ感じられる」
14日(水)「人の空虚な充実感ほど、傍から見ていて苛立たしいと感じるものもなかなかない」
13日(火)「作ることと壊すことが楽しいのは、全般的にそれを行うことが容易だからだろう」
12日(月)「繕う、ということは、ひとつだ、と思わせることである。分裂すると矛盾しうる」
11日(日)「気にされることを求める欲求は、求められないことを想像したときに理解できる」
10日(土)「他者の間違いを気にする必要はない。ただ、間違いを指摘されないことを恐れる」
09日(金)「なにを取り込むかよりも、なにを取り込まないかということのほうが重要になる」
08日(木)「人間は新たに作り出された自然に還るのだろうか、どうして還ろうと思えるのか」
07日(水)「機械について考えずにどうして人間を考えられるか。人間もある種の機械である」
06日(火)「生きていることが本当に嫌になるときというのは死のうとすることすら嫌になる」
05日(月)「教育者とは後ろ向きに歩まなければならないものだとすると教育は加速しえない」
04日(日)「現在、流通している倫理の限界のひとつは人間の生死に拘束されるところにある」
03日(土)「事実そうであるということを認識するとき、その事実はいかにして認識できるか」
02日(金)「思考は退化しない、ただ、煩雑になるのとともに欠落が増加することはありうる」
01日(木)「なにを言ったって嘘になりうる。まさか。どうしてそのようなことが起こるのか」

2004年03月

31日(水)「思い出とは忘れることにあり。記憶の箱に片付けていないことにその価値がある」
30日(火)「自由に束縛されることほど不自由なことはない、自由さと幸福さは独立している」
29日(月)「認識が拡張されることで、自分が自分の変種だったということを知ることもある」
28日(日)「人間は生きているからこそ「生きたい」と思う、だからこそ「死にたい」と思う」
27日(土)「なににも期待していないから、なにもかもから遠く、その遠さすら忘れてしまう」
26日(金)「聞けることより聞き流せることのほうが重要な場面において、耳は実に不自由だ」
25日(木)「知識は信頼によって成立する。知ることの根底には信じるということが横たわる」
24日(水)「人間が記憶を制限する仕組みは不思議ではあるが、だからこそ生きてもいられる」
23日(火)「僕の言語はもっと自由になる、そう考えてしまう不自由さはなにに起因するのか」
22日(月)「情報は「どこにあるか」ということさえわかっているなら、困りはしないだろう」
21日(日)「存在する、ということにせよ、人は理解を視覚的な比喩によって行う傾向にある」
20日(土)「構造に着目するのは当然だとしても眼目はそこにあるだろうか。だが、それしか」
19日(金)「学校で教わるあらゆる課目は圧倒的に古い。しかし、何に向かって成長するのか」
18日(木)「適度な束縛は効率的な処理に影響する。人は目的をもっては生まれてこないのだ」
17日(水)「変わらないでと願うことの基礎にはなにがあるのか。やはり、支配欲求だろうか」
16日(火)「愛は偶然的なほど透明であると思う人にとって、愛は質素だからこそ裏切れない」
15日(月)「忘れがちだが、教えるということは、とりもなおさず主張するということである」
14日(日)「仮に単なる浪費だとしても、時間を捧げあう関係は微笑ましいし、有益でもある」
13日(土)「その場所に居続けるとき、その場所以外のところには、どうやっても居られない」
12日(金)「自分のことだけを考えるとは、結局、特定のことだけ考えるということではない」
11日(木)「僕の思考が紙の上にしかないということには驚いてしまう。僕は、本当に馬鹿だ」
10日(水)「信じるものこそ徹底的に疑う必要がある。だからこそ、信じていることができる」
09日(火)「ある事実からどのような事態を得るか。はたして、このような順番なのだろうか」
08日(月)「環境を洗練するわけではない便利さは人を効率的にしているのか堕落させるのか」
07日(日)「たいていのものは、失われて初めて、それが失われても良かったものだとわかる」
06日(土)「謙虚に過ぎれば、わがままになる。わがままとはなにかしらの過度さにあるのか」
05日(金)「生き易きに生きよう。なにかをしようとするよりも、すでにしてしまっていよう」
04日(木)「安易に問題を持たないことは悪いことではない。むしろ、それは良いことだろう」
03日(水)「時の流れという幻想には「変わっていない」ということを忘れさせる効果もある」
02日(火)「過去を物語として肉付けするのなら未来も独創的な物語として語られうるだろう」
01日(月)「寝て炬燵にいる窓の猫、すっと手が伸び、冬みかん、そっと撫でると雪の冷たさ」