整えられた白髪が黒板の前で揺れた。それは教授であり、これから教授の楽しい哲学概論の講義が始まるのだった。ここだけの話、実をいうと教授は僕の友人に似ていた。しかし、どうしたわけか教授は非常勤講師だった。残念なことに僕の友人に非常勤講師はいなかったし、残念なことに非常勤講師をしていながら、また、僕の友人とも呼ばれるような人物がいるとも思えなかった。

 本当に残念なことではあるけれど、教授は本当に僕の友人に似ているだけだった。

 そのことに気がついたのは教授が物言わず、その白髪を黒板の前で哲学的に揺らした瞬間であり、ことのほか早目にそのことに気がついたのは僕にとって、あるいは教授にとっても幸運なことと言えた。なぜなら、教授は紛れもなく僕の友人ではなかったし、教授にとってもやはり僕は友人ではありえなかったからだ。友人ではない人間が真に友人のようにしているという事態は、それはいかなる場合にしてもそれ自体で厄介なことと言えた。僕と教授とにはまだ、友人となる可能性が残されていた。

 教授はまず、上下にスライドする黒板の調子を確かめた。

 がらがらと上下に黒板を動かすと「この黒板は上下にスライドするね」と言った。そして、とんとんと黒板を右手の人差し指で軽やかに叩くと「大丈夫かい?」とその黒板を気づかった。二秒ほどの間をおいてにっこりと微笑むと、教授は「この黒板は苦手だ」と苦々しそうに口にした。

 すべてが哲学的だった。
 いや、むしろ、この時の教授こそがまさしく哲学であるかのようであった。

「心配するくらいなら、叩かなけりゃ良いのに……」

 愚かな学生が教授にケチをつけた。教授は、ふっ、と笑って、鞄の中から白い装丁の『小六法』を取り出すと脇の棚に置いた。そして、何事かを思い立ったようにふるふると左右に首を振ると廊下側の最後尾の席に座る学生にこう言った。

「君。どうやら、私はチョークを忘れてきたようだ。どうしたら良いだろう?」

 その唐突な質問に、正直、学生は困っていた。
 どうしたら良いだろう?
 教授はどうやらチョークを忘れてきた、どうしたら良いだろう……。

 その学生は教授のチョークがないことに落胆したのかもしれなかったし、教授の質問に困惑したのかもしれなかったが、どちらかというと教授の存在自体にただならぬ現実を感じたのではないかと思えた。そして、そのことは学生の次の発言が証明していたように思う。

 学生はこう、提案した。

「では先生、どうでしょう。ここでひとつ、チョークについて考えてみるというのは?」

 教授は「それはチョークに対する冒涜だ」と簡単に学生に告げ、その前の席に座る学生に「すまないが教務課まで行ってチョークをもらってきてくれないだろうか? 私はそれが賢明であると思うし、無難であると思う」と言った。それは実に冷静な判断であったし、実際、ものの二分程度でその学生はチョークを手にして教室に戻ってきた。

 一方で、教授に下らない提案をした学生はそれから三日間、ぐったりと世を儚むようにして図書館の隅の席でうな垂れていた。それを僕が発見したのは二日目で、その頃にはもうなにもかもが終わっていた。四日目に彼は自殺した。僕はいろいろな考えを巡らしたが、ついに彼の思いを汲むことはできなかった。教授のチョークは学生を殺したのだった。

 この授業の後半で僕たちは教授のチョークに対する、深く、鋭く、かつ、澄み渡った圧倒的な洞察をまさに身をもって体感するのであるが、この時点では教授のチョークはまだ世界に二つとない教授のチョークではなく、ただこの世界に凡百とある教授のチョークではない存在であった。

 しかし、同時にすべてのチョークは教授のために用意されているようにも感じられた。それは結局のところ、すべてのチョークが教授のために用意されていたのであり、同時に教授がすべてのチョークをまさに教授のために使っていたためである。

「ありがとう、すまないね」

 そう言って、両手でお椀を作るように腕を構えると、その教授の両手に学生が教務課から持ってきたチョークを次々にそそいだ。青いチョークが4本、赤いチョークが4本、緑のチョークが4本。じゃらじゃらじゃらと学生が教授の両手にチョークを落とす。じゃらじゃらじゃら。
 その時、ふと、教授の白髪が哲学的に揺れた。

「あれ?」

 学生が奇妙な声を上げるのと教室中がどよどよとざわめきだすのは、ほぼ同時だった。
 教授の両手に収まったはずの色とりどりのチョークたちが、あっという間に消えていた。

 教授に手渡している学生が驚いたのであるから、教室中の席に座る学生たちは言うに及ばなかった。ざわめきはなかなか収まらなかったがしかし、教授にわけを訊く者もいなかった。それはひとえに教授が哲学的であったからであるし、また、哲学的であるということはそれだけの謎を抱えている存在であった。つまり、皆がなんとなしに納得したのである。

「教授の手に注がれたチョークは消える」

 ただそれだけのことだった。

「哲学とは、ひとつの物語です」

 教授は学生が座り、皆が落ち着くのを待つと正面を向いて話し出した。
 僕はぼんやりと教授を眺めながら、教授の話す物語に耳を傾けていた。

 どうやら教授は哲学の話を始めたようだったが、どうしたってそれは「ひとつの物語」になっているとは考えられなかった。つまり、そのとき教授が話し出した話というのは「哲学」ではなく、「哲学についての話」であった。それは少し残念なことではあったが、同時に仕方のないことでもあった。

 隣に座る友人はあっという間に眠りに落ち、教授が何事かを書こうと黒板に向かったときには既に寝息を立てていた。彼はこの後に起こったすさまじいばかりの「教授の哲学」に触れることは出来なかったし、ついには教授という存在を感知することすら出来なかったと言える。

 それは僕にしてみれば勿体無いとは思うが、同時に幸せであった可能性は大きい。

 起きている学生達は教授が黒板に向かった瞬間に、皆、一様に息を呑んだ。教授が黒板に向かった。黒板に向かう人間は何かを書く。黒板に何かを書くにはチョークがいる。教授は人間である。つまり、いま、教授にはチョークが必要だ。チョークが必要だ。チョークが必要だ……。

(さあ、教授の消えたチョークはいったいどこから出てくるんだ!?)

 誰もがそう思った。
 張り詰めた空気が漂い、ゆっくりと空間に張り詰めた。
 学生は教授の白髪に釘付けだった。そして、ふと、教授の白髪が哲学的に揺れた。

 教授は右腕を振り上げた。

 すっと持ち上げられた右手の先には既に三色のチョークが一本づつ指の間にあった。
 赤、青、緑……。
 教授のチョークはどこからともなく現れ、教授の手の内にあった。

「すげぇ……」

 学生の一人がそう、呟いた。
 愚かな発言だった。
 それは愚かな発言だったのだ。

 わかるか、わかるだろうか、この愚かさが、この愚劣さが。
 その発言は教授の耳にも伝わっていた。
 ぴくりと教授が震えた、次の瞬間……、

  しゅっ!

     かつーん!

        じゃらじゃらじゃら……。

 教授は振り向きざま、半身のままに右腕をしなやかにうならせ三本のチョークを放った。
 それは見事な軌跡を描き、愚かな学生の額を哲学的に打った。
 赤、青、緑、三本のチョークが一体となって学生の存在を打ち破った。

 じゃらじゃらじゃらじゃらじゃら……。

 そして、学生はチョークになったのだった。
 丸太のように重なり集まるチョークの山が崩れ落ちて、机や椅子の上に散乱した。
 全部が奇麗な白のチョークだった。

 少なくとも千本くらいはあるだろうと僕は思ったが、教授はそれを見て「751本だね」と言った。それはおそらく「彼は751本の白のチョークになった」ということを意味しているのだろうと僕は理解した。たくさんのチョークがじゃらじゃらと音を立てる以外、教室はしんと静まっていた。

 教授の放ったチョークをくらった学生が、チョークになった。

 どう考えたら、この出来事に折り合いをつけることができるだろう。しかし、同時にみんなが理解していた。これは、つまり「そういうこと」なのだと。ただ、そういうことに他ならないのだと。そして、そうとわかってしまえば混乱する必要はないのだと。教授は黒板に何事かを書きだした。

 信じられないことだが、全員の理解を僕は悟った。

 一人の学生がチョークを集め始めた。じゃらじゃらじゃら。全部集めたら、また元に戻るということもないだろうが、しかし、チョークを集めることには何らかの意味がありそうな気もした。僕はその様子を眺めていた。他の学生は教授が黒板に書いた何事かをノートにメモしていた。

 チョークを集める学生がひととおりチョークを集め終わるのと大体同じくして、教授も黒板からこちら側に向きなおった。学生の机の上には大量のチョークが箱に入っておかれていた。やっぱりというか当然のことながら、それはチョークであって学生ではなかった。教授はそれを見てこう言った。

「私はチョークが恐ろしいよ……」

 教授の方が恐ろしいです、気付いて下さい、教授。哲学的に教授の白髪が揺れ、教授の物語は続いていた。隣で眠る友人はすーすーと八月のペンギンのように安らかな寝息を立ててすやすやと眠っていた。僕はこのとき、この人間はすごい人間だと心底感心した。彼は教授のチョークとは無縁の人生を送っていたのである。

 教授が話を再開した。

 教授は黒板に「鬼太郎は好かれているのではない、利用されているだけだ」と書いていた。ところどころを飛ばして教授の話を聴いていた僕は、いつの間にそんな話題になったのかわからなかった。しかし、首を伸ばして前の学生のノートを覗き見ると、様々な「ゲゲゲの鬼太郎」の話題と思われる書き込みがあった。

「ぬりかべは夢幻を飲み込み、人間の妖怪にたいする無限の恐怖を表現している」
「ぬらりひょんこそ、キルケゴールの意志を受け継いでいる」
「砂かけばばぁは高級な砂を使っている」
「いったんもめんは臭い」

(………………)

 どうやら哲学とは関係のない話に思えたが、僕が思うだけではまだまだその根拠は薄いとも言えた。そして、教授の話は続いていった。とうとうと哲学的な話題が消え去り、僕たちを通り過ぎていった。そして、20分が過ぎた、ある瞬間、痺れを切らした学生が挙手した。

「先生」
「何ですか?」
「いったい、そのお話は……」

  しゅっ!

    かつーん!

       じゃらじゃらじゃらじゃら……。

「………………」

 教授は黒板に向かい、こう書いた。

「パンダの笹はおいしいか?」

 そして、誰かこれがわかる人はいますか、と学生に訊いた。答えることのできる学生は一人もいなかった。なぜなら、声を出すことで教授がなにをこちらにたいしてやるのかわからないという緊張が声帯までをも押さえつけていたということと、さらに決定的なのは、非常に簡単なことに率直に言って、誰もその質問の答えがわからなかったのである。

 教授は「ふふん」と言って、チョークを一本入り口付近めがけて放つ。しゅ。そのチョークは見事にドアの横にあるスイッチに命中し、次の瞬間にはウィーンという低い稼動音を引き連れて、黒板の前に白いスクリーンが下りてきた。学生たちは黙って座っていた。

  しゅ!

    しゅしゅっ!

        しゅしゅしゅしゅしゅしゅっ!!

 教授がチョークを軽やかに放つと、すべての窓にカーテンが下りた。
 教授のそれは洗練されきった芸術的なチョークさばきだった。
 教授は教卓からOHPを取り出すと、スクリーンの前に設置した。

 暗がりの中、学生たちは教授のイリュージョンの世界に潜り込んだ。

 スクリーンが下り切ると教授はOHPのスイッチを入れた。
 空中の埃が照らし出されるとともに、スクリーンには一匹のパンダが映った。
 パンダは笹を食っていた。

「あ、あのパンダ、笹、食ってやがる、ああ、美味そうだなぁ……」

  しゅ!

    かつーん!!

       じゃらじゃらじゃらじゃら……。

 馬鹿な学生がまた一人、大量のチョークになった。
 今度は青いチョークだった。
 僕はそれを横目に確認しながら、スクリーンを注視した。

「じゃあ、二枚目」

 教授はそう言って、かしゃん、とOHPを切り替えた。

「一枚目と同じだ……」
「とんとんが笹、食ってやがる……」

  しゅしゅ!!

     かっ、かつーーん!!


          じゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃら……。

 学習能力のない学生がまた二人、大量のチョークになった。
 僕はまたも横目で確認すると、彼らは緑のチョークへと変貌を遂げていた。
 いやはや、一番要らない色だ。使い道がない。

 緑のチョークが山ほどあるという状況はむしろ不幸に思えた。二十歳の誕生日に白いチョークを200本プレゼントされたらちょっと嬉しいけれど、緑のチョークを100本プレゼントされたらまず、怒る。殴ってしまうかもしれない。それほど、緑のチョークの存在価値は低かった。

 映し出された二枚目の映像はやはりパンダで、しかも一枚目のパンダを別の角度から捉えた構図であるだけだった。つまり、学生の言ったことは「とんとん」という名称部分の不可解さを除けば、まったく正しいと言えた。

「では三枚目」

 教授はそう言い、かしゃんとOHPを切り替えるとスクリーンには新しい映像が現れた。
 笑っているおばさんだった。
 場所はわからないけれど、土手でおばさんが笑っている。

 おばさんはスーパーの買い物袋を持っていて、とにかく笑っていた。
 背後には川と夕日が映っていて、数人の子どもたちが坂で追いかけっこをしていた。
 おばさんはそんな状況で笑っていた。夕焼けの中でおばさんは笑っていた。

 その映像にはよくわからないが「すごさ」があった。

 おばさんは笑う。
 なんのために笑う。
 おばさんの買い物袋には豆腐しか入っていなかった。

「このおばさんは地球のために笑っています」

 教授がそう言って、泣いた。
 涙を流して、おうおうと泣いた。
 数人の学生が教授の涙につられて、うっうっ、と泣き出した。

「泣くな! 泣くんじゃない! 泣いてはいけないのです!!」

  しゅしゅしゅ!

     かつーーん!! かっ、かつーーん!


         じゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃら……。

 そんな理不尽な話もなかった。
 教授は泣きながら右手を振るうとチョークをしなやかに三本放った。涙に潤む瞳のままに教授の涙に誘われて泣いてしまった学生たちはあっという間にチョークになった。じゃらじゃらじゃら。そのチョークは見事な純白で、時折、黒いチョークが数本見え隠れしていた。

 教授は涙を抑えると、毅然とした表情でこう叫んだ。

「ナーーーーウ!!!」

 ぼうん!

    どさり、

       ごろごろごろ。

 スクリーンの後ろから、何かが出てきて教卓の陰に落ちた。
 教授がゆっくりと教卓を横に動かす……。
 しだいに物陰からは一匹の生物がその姿を現した。

「うひー! パンダーだよー! かわいーー!!」

  しゅ!

    かつーん!!


       じゃらじゃらじゃらじゃらじゃら……。

 阿呆な学生がチョークへと変わり、黒板の前ではパンダが笹を食っていた。
 スクリーンの後ろから現れたのはパンダだった。
 美味しそうに笹を食んでいる。正直、羨ましかった。教授ってすごいや。

「このパンダは球に乗ります。なぜなら、美味しく笹を食べれるからです」

 教授の言い分はわからなかったけれど、たしかに半分は嘘ではなかった。
 教授がしゅっとチョークを放つとそれにつられてパンダが立ち上がった。
 笹を食みながら、パンダがよろよろと二本足で立つ。

「ああ〜ん! パンダ萌え〜〜〜!」

  しゅしゅしゅしゅしゅっ!

     かかかか、かつーーーん!!


            じゃらり………。

 教授は苦々しい顔で一人の学生にチョークを五本放つと、教室を出て行った。
 五本の教授のチョークを一身に受けた学生は四本の少し大きめの桜色のチョークになった。
 ほどなくして教授は一個の大きな球を持って教室に現れた。

 ぽいっ。

 パンダに球を投げ与えると、陽気にパンダは球に乗った。
 教授はほらね、という顔で学生たちに決めのポーズを取った。
 学生の間からは拍手が上がった。

「じゃあ、次の時間はあのおばさんがくるから。地球のために君達も覚悟しておいてね」

 どうやら、わけあり気な台詞を残して教授は教室を去っていった。
 後には球に乗るパンダと大量のチョークだけが哲学的に放置されていた。
 僕は隣の友人を見た。

 すやすやと眠っていた。