深夜、僕がいそいそと部屋に戻り、静かにドアを閉め、ほっと一息ついたとき、僕は部屋の奥で本を読んでいる女性がいることに気付いた。机の上に山積みにされた専門書の陰に隠れて、ちょんと椅子に座っている。青白いワンピースのパジャマの上にダークブラウンのカーディガンを着て、サイズの大きいスリッパを足先にぶら下げていた。

「赤音さん、それは僕のスリッパです」
「…………」

 彼女は僕の言葉を無視して読んでいた本を膝の上に乗せると、自分のタイミングで顔を上げた。長い黒髪が幾らか顔の正面に垂れたので、彼女は頭をしなやかに横に振ってそれをどかした。「女性」というのは幼い頃から女性らしい仕草をするものだ。どういう仕草を「女性らしい」と呼ぶのかを考えれば、それは自ずと知れることである。

「今夜は、あれだね、鬼気迫る可愛いらしさだね」

 僕がそう言うと、彼女は足に引っ掛けていたスリッパを手に持って僕に投げつけてきた。一足目を横向きに投げ、それが投げ難いということに気付いたのだろう、二足目は縦向きに投げてきた。それは予想外の鋭い回転で僕の太ももに命中した。彼女は今夜、重要なことを学んだ。スリッパの効率の良い投げ方である。

 僕はちょっとした感動を覚えながら、スリッパが二足揃ったのでそれを履いた。もう、いつ画鋲を踏んでも大丈夫だ。そういう心配をしないで済むということは幸せなことである。それにしても、板張りの床は冷たい。僕が思うに本来、スリッパがあるのなら、裸足では廊下を歩き回らないほうがいい。つまり、スリッパを履いたほうが良い。

 しかし、人間が単に生存する以上のものを生活に求めようと思うなら、ときには裸足で廊下を歩き回るということも必要である。なぜなら、そうすると「比較的音を立てない」で廊下を歩けるからである。廊下を音を立てずに歩き回る技術、それは効果的に相手にスリッパを投げつける技術と同様に、一度きりの人生の大事な局面で重要な役割を果たすことがあるだろう。しかし、もちろん、その程度の技術を過信してはいけない。

「どこにいってたの?」

 赤音はぶすっとして言った。

「彼女のところにちょっと遊びに行ってました」
「ふーん」

 と呟き、やれやれといった調子で赤音は小刻みに何度か頷いた。そして、窓の外を眺めるのだった。黒というよりは濃い紫色の夜空に月が見えた。今日は上弦の月だが、彼女はまだ、その「概念」を知らないはずだ。そういえば、赤音は「三日月」を、「半月」を、あるいは「月」を知っていただろうか。とりあえず、僕は教えていない。

「ねえ」
「どうしたの?」

 彼女の呟きに僕は反応した。誰に似たのか、喋りかたが妙に色っぽい。

「月の光はさ、太陽の光なのに、月と太陽は違うものなんだね」

 僕は確信した。彼女は月を知っている。
 たぶん、光のおかげだろう。
 いや、音か、言葉か。

「うーんと、なんだろう、それは同一性を問題にしてるの?」
「どっちかっていうと、非同一性を問題にしてるの」

 こういうとき、つまり、ちょっと眠いとき、赤音は哲学的に切れる。

「月のほうが地球のそばにあるのに、地球はいつも太陽に惹かれてる」
「それは、なかなか面白いね」

 どうやら、詩的な才能もあるみたいだ。僕は感心した。

「わたしの言ってることわかる?」
「たぶん、わかると思うけど」
「じゃあ、あなたはどっちが好き?」

 赤音が下から覗き込むようにして言った。

「月と太陽?」
「そう」

 難しい質問だ。決めていない。

「どっちも嫌いじゃないよ、ともに良いところはある」
「ふーん」
「満足されました?」
「ねえ、布団に入ろう」

 たぶん、赤音は眠いのだ。

「よろしい」

 僕は顔にはださなかったが、微笑ましい気持ちになった。

「うん」

 そう言うと、彼女は膝に乗せていた本を机の上にどさっと投げた。

「赤音さん、なに読んでたの?」

 僕は窓にブラインドを降ろしながら訊いた。

「学識ある無知について」
「ニコラス・クザーヌスだ」
「そう」
「面白かった?」
「面白かったよ」

 そして、彼女は僕の布団に潜りこんだ。僕が彼女に「「月の光」と「月光」と、子守歌にはどっちがいいか」と尋ねると、彼女は「月の夜」と応えた。シューマンである。なかなか、気の利いたことをさらっと言う。アイヒェンドルフの詩に抱かれて、この子は眠りに落ちるのだ。それは「子守歌」という僕の不注意な発言を考慮に入れた、もっともな意見だった。

 僕は彼女の要望を受け入れると、彼女の待つ布団に潜りこんだ。


    *    *    *    *


 奇妙な夢を見ました。ふわふわとした気持ちで、僕は浮いていました。いや、それは僕が浮いていたというよりは、むしろ、ふわふわが浮いていたのです。僕が、僕の気持ちでしかないこの場所で、ふわふわが僕の気持ちであるならば、ふわふわが浮いている限り、やはり、僕の気持ちも浮いていたのです。それはふわふわでした。僕でした。

 さらに言ってしまえば、そのふわふわは、ふわふわのように振舞う、本来、ふわふわじゃないものでした。僕はそこまで気が付きました。これは本当はふわふわではないのだと。そういったことに気付いた瞬間に、僕は落ちました。ふわふわを疑ってしまったからです。

 しかし、もし、ふわふわが少しでも、本当にふわふわであったのならば、これほどまでに落ちはしなかったことでしょう。つまり、それはふわふわではなかったのです。だから、僕は落ちました。しかし、そのふわふわであったものは、依然として、僕の気持ちではありました。そして、それは僕でもあったのです。

 ふわふわだった僕の気持ちと、落ち続ける僕の気持ちは、やはり同じものではあるのですが、どうしても異なるものなのです。それは不思議なことです。ふわふわは落ちないからです。こういった不思議に僕はしばしば出会います。しかし、それは決して不思議なことではありません。不思議を知る人に不思議はないのです。

 そうこうしている間にも、僕はしっかり落ちています。あらゆるものは落ちるのです。林檎も落ちたし、雨も落ちます。雷も落ちたし、月も落ちるのです。あらゆるものは落ち終わるまで落ちるのです。地球も落ちるし、太陽も落ちるのです。落ちなければ、飛ばされてしまうのです。そして、落ちるということは、惹かれあうということなのです。

 恋に引かれて、惹かれあう。愛に弾かれて、惹かれあう。それは惹かれあうことなのでした。そして、惹かれあうものはいつか、そのうち落ちあいます。相手に向かって落ちあいます。惹かれ惹かれてぶつかります。そうならないために、惹かれあうものたちは互いに他のものに惹かれなければなりません。

 そして、もし、そのお互いが、ともに惹かれるものを持つならば、彼らはともに進むでしょう。地球と月が、惑星同士が、ともに太陽に惹かれるように。そのようにして、ただただ、僕は惹かれてる。相手のないまま惹かれてる。矛盾を抱えて、惹かれてる。虚構を抱いて、惹かれてる。なぜなら、ここはふわふわだから。

 ぼちゃん!

 ぷわ。過去に落ち、いま、落ち続けて、落ち終わる。かつてふわふわだったものは、いつの間にか落ち始め、未来においては、やはり、どこかに落ちるのです。そうしてそれは、たまたま海だったりするのです。そういうわけでここは海。ぷかぷかぷわりと浮いています。

「あ、かもめだ」

 あはは、可愛いなあ。いてて。


    *    *    *    *


 珈琲のいい香りが部屋の中を漂っていました。窓にかかるブラインドが陽光を僕から隠し切れずにいささか申し訳なさそうにしているなか、僕は上半身を強引に起こしました。横を見ると赤音が丸まって眠っています。まだ、熟睡しているようです。

「気にしないでもいいよ」

 僕はブラインドに話しかけました。

「朝の日差しが嫌いなら、はなから窓など作らない」

 僕は頷きました。自分の台詞に満足したのです。

「君はそういう風に設計されているんだからね」

 完璧に陽光を遮断してしまっては、窓に申し訳ありません。

「むしろ、僕は、君のそういうところに好感が持てるけど、どう?」
「ねえ、それ、わざと?」

 突然現れた何者かに、僕は声をかけられました。

「さっきから、声かけてたんだけど」
「いや、全然気づかなかった」
「ブラインドと話してたから?」
「たぶんね」

 僕はそんなことはないと思ったけれど、面倒臭いから頷きました。

「無機物に負けたか……」
「寝起きから科学者にあるまじき発言をありがとう」

 僕は声をかけてきた彼女をじっと見つめました。

「なに?」
「昨日も会ったね」
「ええ」
「やっぱり」

 僕は昨日、彼女の部屋に遊びに行ったのです。彼女は僕の同居人でしばしばご飯をともにしたり、少しだけ赤音の世話を一緒にしたり、稀にチェスや囲碁で遊んだりします。オセロや将棋もたまにします。ただ、そういったアルゴリズムを要するゲームは圧倒的に彼女の方が強いため、やってもあまり面白いものではありません。

 基本的にゲームというのは勝敗がわからないから面白いのであって、ゲームに関しては「まず勝って、後に戦う」ようでは、負ける側としてはいたたまれません。ただ、ビリヤードだけは僕の方が勝率がいいのです。どうやら、あれだけは僕と相対的に万能な彼女のプログラムにも誤作動が起きやすいようです。身体機能も重要だからでしょう。

「そう、僕のほうが玉突きはうまいぞ」
「なによ、朝からいやらしい」
「いや、だから、ハードも重要だという話さ」

 彼女はやれやれといった調子で小刻みに何度か頷きました。

「君ね、さすがに今日は寝惚けすぎだよ。はい」

 彼女は両手に持った珈琲カップの片方を僕に差し出しました。たぶん、目覚めの一杯というやつでしょう。「これを頭からかぶれ」とか、「これを豆に戻して」とか、そういう命令や挑戦の類ではないはずです。しっかりと中身も入っています。珈琲のようです。

「これはなに?」
「なにに見える?」

 彼女はにやりとしました。まるっきり憎たらしい猫のようです。

「珈琲に見える」
「ええ、そうでしょう、私にもそれは珈琲に見える」

 われわれは満足して頷きました。

「それで、これは珈琲なの?」
「どっちかっていうと、愛だね」
「愛ですか」
「うん、珈琲は仮の姿でね、ピンチになると現れるわけ」
「愛が?」
「そう」

 しゅわっちと言って、彼女はずずっと珈琲をすすりました。

「ところで、いまってピンチかな?」
「比較的ね」
「そうなの?」
「そうだよ」

 彼女は僕の横に眠る赤音を覗き込み、胸のポケットから小さい携帯用の細長いライトを取り出し、電源を入れると、ささっと赤音のまぶたの上に光を往復させました。眼球の反応を見ているのです。寝たふりをしていれば、大体、これでばれます。どうやら、赤音は本当に寝ているようでした。しかし、それにしてもえげつないことをする人です。

「そういうことをする人が、僕にこの珈琲を持ってきたわけだ」
「その通り」

 彼女は部屋を見回しながら言いました。

「黒い愛だね」
「きれいでしょ」
「それに苦い」
「甘いところがないから」
「なるほど」

 こんなに感心する朝は初めてです。

「澄み切ってるね」
「そうだよ」

 僕が彼女を見つめて言うと、彼女は僕にキスをしました。なんて自然に、なんて当たり前にキスされたことか。僕はかすかな喜びを感じるとともに、非常に不安定な気持ちに陥りました。このままでは崩されてしまう。崩されてはいけないものまで崩されてしまう。僕は穏やかな陶酔の中で、冷静に最後の扉を保守していました。そういう種類の人間も、世の中にはいるということです。僕が彼女の髪を撫でると、彼女は静かに僕の口から舌を抜きました。

「大事なことを忘れてた」
「なに?」

 彼女は首を20度ほど傾げました。初めて見る仕草です。

「この珈琲は温かい」
「淹れたばかりだから」
「それだけ?」

 僕は彼女とは逆向きに20度、首を傾げて訊きました。
 彼女は口を尖らせて笑うと、表情を戻しながら下を向いてしまいました。

「あるいは……生きているから、じゃないかな?」
「珈琲が?」
「愛が」

 そう言って僕を見つめた彼女の微笑みは、少しだけ寂しそうに見えました。

「その珈琲、美味しいでしょ」

 僕は頷きました。嘘ではありませんでした。
 どうして、珈琲は美味しいのでしょうか。


    *    *    *    *


 彼女はその日の朝、初めて、目覚めの珈琲を淹れようと考えた。ただ、彼女は珈琲よりも紅茶を愛していた。また、彼女は自分の理性を信じていたし、それだけに自分の欲求にも従順な人間だった。毎朝、寝起きには紅茶を飲むのが彼女の日課だった。

 だから、朝起きて、彼女がまずやらなければならないことに「珈琲を淹れる」ということを選択したのには、必然的な理由があった。つまり、その日の朝はたまたま珈琲が飲みたかった、といったような偶然的な理由ではないということだ。

 その理由、その判断は、珍しいことに彼女にとって漠然とした思考であり、彼女自身にとってもやや割りきれなさの残るものであった。たとえば、無理数のように。無理数に至る道の途中には無限個の有理数が無造作に転がっている。

 彼女はやろうと思いさえすれば、そのひとつひとつを明確に認識できるのだったが、やはりそれでも、無理数の全体に到達することはできないのだった。n角形のnに無限をとっても、決して円にはならぬように。つまり、そういった種類の微細な割りきれなさが彼女の心に無数に残ったということだ。それは彼女の気持ちにぼんやりとした霧をかけた。

「安っぽい紅茶が飲みたい……」

 ただ、彼女は決めていた。それはもう六時間も前に決定されたことなのだ。私は今日、起きると同時に珈琲を淹れ、それを持って彼の部屋に行き、そして、それを飲ませる。これが彼女のプログラムである。自分でも涙が出てきそうなほど可愛い内容である。よほど可愛い人間でもなければ、よもや、こんなことはできまい。彼女の口元に怪しい笑みが浮かんだ。

「ふふふ、よし」

 彼女はハンモックから降りると、椅子の背もたれにかかる白衣をばさっと着た。起床から五秒でスイッチ・オン。彼女は両手を握って全身に力を込めた。サイヤ人じゃないけど、いつだってスーパーサイヤ人になれる。そんな気がする。周囲の床がところどころ砕け散り、浮かび上がっていないか気になるほどである。

「はっはっは、んなこたない」

 ふと、彼女は横を向いた。部屋の奥に置かれたどでかい真鍮管の表面になにかとても悪いことを企んでいるとしか思えない人間が映った。彼女は最初、それが自分であることを疑ったが、いろいろな可能性を吟味した上で、彼女はそれが自分であることを認めた。じっと向こう側から覗き込まれているようだった。どうやら、鏡ニューロンが反応しているらしい。

「あー、なんだろう、駄目だな」

 彼女はしぶしぶ白衣を脱ぎ、はあ、と溜め息を吐いた。工具箱の中から鏡を取り出し、自分の顔を確かめる。なんにも可哀相なことなどないのに、なんだか、そこに映っている人間は可哀相な顔をしていた。ちょっと泣きそうかも。こういう思考って得意じゃない。人間的、あまりにも人間的で。彼にあってから、どんどんその傾向が増している気がする。

 彼女はどでかい真鍮管の前にたたずむスターリング・エンジンを眺めた。一週間ほど前に赤音と一緒に作り始めたものだ。スターリング・エンジンは蒸気機関や内燃機関とは違う外燃機関だ。動作が静かで排ガスを出さないクリーンな装置だが、人間の歴史がなにかにつけてそうであったように、出力が弱いために軽視されてきた。

 ただ、安全性の高さから、小中学校の教材としては比較的、頻繁に使われてきたみたいだ。最近ではクリーンなエンジンとしてちょっと注目を集めている。まあ、そんなわけで赤音の科学の学習ということで一緒に作り始めたのだ。それは、それなりに楽しい作業だった。

 どうせ作るのだからでかいのを作ろうということで意見の一致した私たちは、様々な工具を持ち込み、この地下室と一階の台所を上下する小さめの昇降機を動かせるだけのエンジンを作ることにしたのだった。幾ら安全とは言え、ここまで大きいと流石に危険だ。単にスケールを拡大しただけだから、なおさら危ない。稼動時には結構な熱を持つことになる。

「スターリングエンジンってなに?」

 エンジン製作、前日のことだ。私がまとめたリストの中から、赤音が製作するものを選んでいるとき、紙の上に指を落として赤音がそう、妙に根本的な質問を素直に私にしたのだ。他のエンジンには質問しなかったので、たぶん、原理を知っているんだろう。そんな博識な赤音が私に素直に訊いたのだ。だから、私は答えたね。

「蒸気機関は人が煙草吸って煙を吐いてる状態でしょ、内燃機関は人が食物喰っておならをしている状態でしょ、でね、外燃機関というのは人が空気を吸って吐いて、その吐いた空気をもっかい吸ってる状態ね」

 我ながら素晴らしい説明だと感心したのだったけれど、

「嘘っていうか、わかり辛い比喩だね」

 あはは、あまりのショックに思わず後ろ振り向いちゃった。誰もいなかったよ。

「えーと、まあ、だからさ、人間の呼吸に似てるってこと」
「どういう意味?」
「人間の呼吸ってさ、案外単純な機構なのよ」
「肺を膨らませてガス交換するということ?」
「うん、それはそうだけど、どうやって肺を膨らませていると思う?」

 赤音はピタッと固まり、両の瞳を左上に、そこからクルッと右上に回した。

「知らない」
「あれはね、ただ横隔膜を引き下げているだけなんだ」
「気圧を下げて空気を取り入れてるの?」
「そう、それだけ」
「ふーん」

 お、お、ちょっと感心してる。

「だからさ、たとえ小さい穴でも、肺に穴が開いちゃうと致命的なわけ」
「うん、そうなるね」
「当然、横隔膜は自律神経が動かしているわけだけど、それに似てる」
「スターリングエンジン?」
「そ」

 私は正直、自信がなかったけど、勢いで押し切った。見栄っ張りなのだ。

「どうする?」
「それにする」
「私としてはさ、こっちをお勧めしたいんだけど」
「MSN-バンケル形ロータリ・ピストン機関?」

 赤音は半分棒読みで、私が差し出した紙の文字を読んだ。
 私は赤音が興味を示したことに感動しながら、「うん」と頷いた。
 嬉しさのあまり、ちょっと笑っていたかもしれない。

「内燃機関だね」
「そう、これが可愛いんだ、画期的な機関なんだから」

 私はがさがさとデスクの上から設計図を取り出して、赤音に見せた。

「ここにある工具じゃ作れないよ」
「大丈夫、入れるから」

 私は即答して、動作原理を載せたプリントを取り出した。6個の図が並んでいる。

「わかる?」

 赤音が覗き込み、設計図と比較すると、うんと頷いた。

「吸気、圧縮、膨張、排気の4サイクルを、ロータの1回転でするんだよ」
「うん、速そうだね」
「この真空の作り方が憎いよね」
「真空度はどの程度?」

 予期せぬ質問に私は一瞬たじろいだ。

「えーと、たしか、10万分の1気圧程度じゃなかったかな」
「まあ、そんなもんだよね」
「あとね、この小ささ、それと静かさがいいの、比較的冷たいしね」
「それとこの、ロータと出力軸に頼りきった構造が好きなんでしょう?」

 私は驚いた。

「そう、まさにそう、赤音すごいね、感心」
「だって、まるっきり、あなたみたいなんだもん」

 赤音は肩を竦めて、そう言った。

「…………」

 あはは。

「今回は外燃機関にしよう? だめ?」
「い、いいよ……もう、ばっちり」

 あのときは驚いたなあ…………あ、そうだ、珈琲淹れなきゃ!


    *    *    *    *


 赤音を寝かせたまま、僕と彼女は部屋を出ることにした。僕は寝台から降り、スリッパを探す。相変わらず板張りの床は冷たかったが、寝起きの僕の足の裏には心地良かった。床にしてみれば、僕の足の裏は温かいだろう。まあ、床がなにかを感じるならの話だけれど。

 人間は万物の尺度である、という言葉を思い出す。古代ギリシアの感心できるソフィスト、プロタゴラスの言葉だ。彼は人間の立場から、個人の感覚においてあらゆる物事の価値は相対的だと説いた。それは個人が「個人単独」として存在しうる限りで、あるいはそのように人々に考えられている限りにおいて、正しかっただろう。

 ただ、そう考える限り、それはやはり「個人の正しさ」でしかなかっただろう。それはそれで満足できるものだろうし、それで幸福でありさえすれば問題はない。どこまでいっても、基本的には「個人」なのだから。もちろん、ある場合には「傲慢」や「卑屈」になる可能性はあるだろう。けれど、度を越さない限り、それは謙虚であり、温和であるに違いない。

 僕はスリッパを履いた。

 足の裏の冷たさが軽減される。スリッパの方が床よりも熱容量が小さいからだろう。熱が逃げていきづらいのだ。しかし、では、冷たさとは熱が奪われることなのだろうか。どうだろう。「冷たい」と感じる僕の内的な感覚の質、それと、物理的な熱量の拡散には、やはり隔たりがあるような気がする。

 とりあえず、床が冷たいから冷たいと感じるのか、冷たいと感じるから床が冷たいのか、といった問題はここでは成立しないだろう。いや、たとえ成立したとしても、僕の問題にはならないに違いない。古めかしい問題で微笑ましいとすら思える。そういえば、哀しいから泣いているのか、泣いているから哀しいのか、ということを問題にした人がいた。

 『心理学原理』の著者、ウィリアム・ジェイムズだ。彼は小説のような哲学書を書いたと言われる。そして、『ある貴婦人の肖像』の著者、ヘンリー・ジェイムズは、哲学書のような小説を書いたと言われる。彼らは兄弟だ。

「ねえ、なに考えてるの?」

 彼女がドアの前で振り返って、僕に訊いた。

「いや、別に」

 僕は言った。本当に、別になにも考えていなかった。

「君こそどうしたの? 僕、そんなにぼーっとしてたかな」
「いや……スリッパ、見てたから」

 彼女は少しどもった。理由はわからない。

「名前でも考えてた?」
「名前? なにの?」
「スリッパの」

 こともなげに彼女はそう言った。

「君、スリッパに名前付けてるの?」
「付けてるよ、教えないけどね」
「ふーん」

 世の中には不思議な人がいるものだ。

「じゃあ、右足をヘンリー、左足をウィリアムにしようかな」

 僕はスリッパに名前を付けることにした。
 昨日の夜、僕の太ももにぶつかってきたのはウィリアムである。困ったやつだ。

「両方揃ったら?」
「はい?」
「いや、スリッパってふたつでワンセットじゃない」
「それにも名前が必要かな?」
「当然」

 彼女の頷きは力強かった。

「じゃあ、やっぱり、ジェームズになるんだろうな」
「それは継承されるの?」
「はい?」
「いやだから、ふたつでジェームズになるの? それとも、それぞれジェームズなの?」
「それって重要な問題かな?」
「当然」

 彼女に迷いはなかった。

「それは、やっぱり、継承されるんだろうね」
「素直な発想ね」
「それとも、フレールとかにしたほうが良かったかな?」

 僕は歩きだして、言った。

「どういう意味?」
「フランス語で兄弟」

 ふふっと彼女は笑った。

「スリッパのフレールか」
「そう、そして同時にスリッパがフレールなわけ」
「洒落てるね」
「ときおり、自分でも驚いちゃうよ」

 その時、ふと、僕はあることに気づいた。

「君、スリッパどうしたの?」
「ん?」

 彼女はドアに向き直りながら、横目で僕を見た。

「履いてこれば良かったのに、冷たいでしょ?」
「別に」

 そう言うと彼女はドアを開けて、さっさと部屋の外に足を踏み出した。
 僕はやれやれと呟き、一度、赤音を振り返ると、彼女の後を追った。

 こうして、部屋の中には赤音と珈琲の香りだけが残されたのだった。


    *    *    *    *


 廊下を歩いている彼女の後ろ姿を見ていた。そう、僕も一緒に歩いているのだけど、彼女が前を歩いているわけ。だから、僕は彼女の後ろ姿を見ている。いま、僕に見えるもので、それ以上に価値のあるものはないから。

「僕はいま、価値について思考してる」

 僕は彼女の背中に声をかけた。

「そう、なにか、新しい発見はあった?」

 彼女は振り向かずに応じる。まるで、背中が喋ったみたいだ。しかし、背中は、語ることはあっても、喋ることはないことになっている。これを高倉健の法則という。容易には無視しがたい法則である。また、桃井かおりの法則というのもあるのだが、それはまたの機会にとっておこう。良い冗談は何度も言ってはいけない。アインシュタイン博士の教えだ。

「なにも」
「私が死んだら哀しい?」
「哀しいよ」
「私が生きてたら嬉しい?」

「いや、それはわからない」
「君らしいね」
「うん」
「君さ、両親が死んだとき、泣いた?」

「泣けなかった。君は?」
「同じ」
「泣きたかった?」
「それほど積極的には考えてなかった、けど、泣けるかなって思った」

 その気持ちはわかるような気がした。
 たぶん、データを修正しながら、何度もシミュレートしたに違いない。
 彼女は、夢の中では泣けただろうか。そして、僕の死を泣いているだろうか。

「もう、歳かな」
「まだ若いよ」
「肉体年齢のことだね?」
「それ以外に年齢に意味ってあったっけ?」

 彼女には見えないだろうけど、僕は笑った。
 声は出さず、顔の筋肉だけを変形させる。

「ないか」

 僕は笑いながら、言う。
 その笑顔は僕にも見えない。
 なぜ笑ったのか疑問なほど意味がない。

「精神は、歳なんて取らないよ」
「そう考えるとさ、タイムトラヴェルだなって思わない?」
「どっち?」
「タイム・トラヴェル、だよ」

 僕は適度に語を区切り、発音に気をつけて言った。楽しいやり取りではある。

「なるほど。で、どういうこと?」
「冷蔵庫みたいなものでさ、中身がなかなか腐らないわけ」
「でも、外身は衰えると」
「そういうこと」

「不用意な発言だね」
「でも、わかりやすい」
「単純」
「素直なんだよ」

 僕は即座に応答する。

「君の冷蔵庫は非常に整理されている、と評価できる」
「欠点は?」
「冷凍庫、チルド室、野菜室、などの余分な機能が付いていないこと」
「素早い分析だね」

 まーね、と言って彼女はすたすた歩き続ける。

「短所が同時に長所でもあるというのは堅牢だと思う」
「ありがとう、そう言われるとほっとするよ」
「優しいのね」
「君の自己評価も聞きたいな」

「それは無理、説明できない」
「説明が嫌い?」
「嫌いじゃないよ、暇潰しにはなる」
「でも、理解を求めてはいない?」

「当然」
「賢明だね」
「本当にそう思う?」
「思うさ。じゃなかったら、たぶん、君は僕と一緒にはいられない」

 彼女は黙った。だから、僕も黙った。次は彼女の番だったからだ。こういうことには順番があるのだ。五秒ほど待ったが、彼女はなにも言わなかった。だから、僕もそれ以上は追及しなかった。僕は彼女の評価を頭の中で展開した。彼女は確実に僕よりも複雑な仕様の冷蔵庫だ。つまり、余分な機能は多い。けれど、たぶん、中身は僕のほうが余分なものが多いだろう。面白い結果である。

 理解しあう、ということに関しては、僕は幸か不幸か、いや、どちらでもないのだけれど、彼女以上には、彼女の思考が賢明であることを知っている。つまり、それだけ、賢明じゃないものに触れたということだ。そして、あらゆる賢明さと、あらゆる賢明じゃなさを捨てたのだ。つまり、自由。だから、不安定。迷惑な話だ。

「人間も、冷蔵庫みたいなものかな?」
「僕は、そうだと思ってる」
「そういえば、前世紀の冷蔵庫は環境にも負担をかけてたね」
「うん、だけど、どんどん改善されてる」

「容量、性能、機能、エネルギ効率」
「まあ、見た目はそれほど変わってないけど」
「いつか、中身のまるっきり腐らない冷蔵庫ができる?」
「できるだろうね。外身だって壊れないさ」

「時間を越えてるね」
「タイム・トラヴェルだ」
「人間も、それと同じだと?」
「うん、だから、長持ちする人間って、冷たいじゃない」

 僕は肩を竦めた。僕は、笑ってる。たぶん、彼女も、笑ってると思う。僕が彼女の後姿を眺めると、そうだね、とでも言うかのように彼女は首を何度か縦に動かした。後ろからでも彼女が頷いたことがわかる。なんらかの意思表示、つまり、言葉の代わりだろう。

 君、冷たいもんね、と言いたいんだと思う。

 僕達はいま、三階の東端に位置する僕の部屋をでて、板張りの廊下を20メートルほど直進し、右手のらせん状の階段を約1440度回転しながら降り、一階の西端に位置するキッチンに到着するところだった。彼女とこのコースを一緒に歩いたのは初めてだ。

 そうした稀有な体験をしつつも、僕と彼女の位置関係はいつもと変わらない。彼女が前を歩き、僕が後ろを歩き、進む。彼女に主導権がある代わりに、僕のほうが有利な立場にある。彼女は僕を信じ、僕は彼女に委ねる。つまり、そういうことだ。

 僕はもう一度、彼女の足元を見た。
 裸足で、歩き方が可愛い。まるでグラディーヴァ。
 足音がまるっきりしない。僕は、そこに、なにを読まなければならないか。

 わからない。
 いや、わかる、わかっている。
 けど、信じがたい、信じられない。

 それは、つまり、彼女は、もしかしたら、幽霊かもしれない、といったことである。


    *    *    *    *


 赤音は目を覚ますと、溜め息を吐いた。いや、もしかすると、目を覚ますよりも先に何度か溜め息を吐いていたかもしれない。もう、落胆だけで自分が構成されていたといっても過言ではない。部屋の中には珈琲の香りが漂っている。それはつまり、誰かが珈琲を持って、この部屋に来たということだ。この部屋にそういう装置はない。

 そして、彼はもう、この部屋にはいなかった。

 彼を連れて行ったのは、当然、彼女だろう。赤音は彼と彼女の行動を分析する。疑問は幾つもあった。なぜ、彼女は今朝に限って、この部屋に来たのか。なぜ、珈琲を持ってきたのか。なぜ、二人は私を置いて、この部屋を出て行ったのか。それに、彼女はスリッパを履いていたのか、どうか。

 たぶん、履いていない。彼女の思考は比較的読めた。彼女も、こちらの動きを把握していたに違いない。だから、珈琲なのだろう。ただ、そういった状況で、彼がなにを思ったのかということをトレースすることが、まるっきりできなかった。それこそが重要なのに。予測がはずれた。鳥が空を飛ぶように、合理的な説明はできそうにない。

 なにか、重要なファクタが欠けている。

 それは、まるで、なにかが誕生する瞬間のような、まるで、なにかが完成する瞬間のような、取り立てて決定的な原因や理由はないのに、それを認識した瞬間には既に立ち現れていて、何事もなかったかのように、何食わぬ顔で私たちを惑わす悪魔のようだ。いま、私はそれを把握できないし、把握したときには、もう、消えてしまっている。

 悪魔、そう、悪魔だ。

 だとしたら、私はそれに立ち向かう戦士のようなものだろう。どこまでも戦おう。そして、打ち勝とう。その後のことは、そのときになってから考えれば良い。それでいい。赤音は「その後」があることをきわめて慎重に認識してはいたけれど、まだ、それとは距離を測って対峙していた。そもそも、私は生まれているのか、まだ、生まれていないのか。

 とても些細な問題だが、決して無視できない問題だった。

 思考に霧がかかる。彼らは非合理的な行動をとる人間たちではない。赤音は知っていた。それなのに、ときどき、彼らはとても不思議なことを言う。それは興味深かったり、面白かったりすることだったのだけれど、赤音にとっては、まるで童話の中の出来事のような、小説で語られる事態のような、どこかで自分の存在とはかけ離れた、つまり、物語だった。

 合理的とは、どういうことだろうか。

 そんな、ぼんやりとした思考とは裏腹に、なぜか、赤音の気持ちは晴れていた。妙に気持ちが良い。ふと、さっきの溜め息は何だったのだろう、と思う。自分の状態を分析する。思考と行動がかみ合っていない。行動と感情、言語と思考。逆転。不合理だ。自分はなにを望んでいるだろう。不定だ。なにかを望むということが、どういうことかもわからない。

 ネットワークを瞬間的に走る。ランダム。パターン。思考。身体が動かない。遅すぎる。タイムラグが躊躇を生み、迷いを生じ、人間を生かせている。そのシステム。感情。いつ死んだって、同じなのに。消えてしまえば、死んでしまえば、その後のことなんて関係ないから。

 それなのに、どうして、そこに隙間があるのか。どうして、人間の記憶は失われるのか。どうして、人間は記憶を始めるのか。もう、生まれているのか、生まれていないのかさえ、わからない。赤音は窓を見る。ブラインドが光を遮り、明るさを殺いでいた。それでも、十分すぎるほど室内は明るかった。

 もし、生まれているのなら、好きな人に殺してもらいたい、と思う。

 それって、愛じゃないのかな。赤音は考える。そうか、これが、望んでいる、ということかもしれない。漠然とした思考だ。明確に考えることの可能な、ぎりぎりのライン。自分の意思だけでは足りない、かたち。それが叶えられたときにはもう見えない、繋がり。

 初期値に加わるもの。シミュレーション。可能性。つまり、遊び。思考ののりしろ。それを認めること、許すこと。切り取り線が点線のようなもの。どちらを切り取るのか。どんどん、小さいところに、細いところに、無駄なものに。だから、大切になる。それが、生きている、ということか。そうか、そういう変数が、必要なわけか。人間って、可愛い。

 赤音は寝台から降りる。足裏に床の冷たさが伝わる。

「おはよう」

 赤音は誰にともなしに言う。
 赤音は毎朝、生まれる。


    *    *    *    *


 僕と彼女は一階西端に位置するキッチンにいる。ただ、この部屋は半地下構造のため、箱自体は半分地中にあることになる。まあ、それでも一階であることには変わりない。南側の壁面上部の全面に据え付けられた50センチメートルほどの擦り硝子の窓からは、柔らかい光がレーザのように斜めに差し込み、部屋の全体はぼんやりと明るい。

 呼吸も視線も動作も心臓の音でさえ、僕に明確に意識される。

 もっとも洗練された形の教会のようなものだろう。僕は少し緊張する。自分に自信がない証拠だ。右手の親指で左手の手首を押さえる。案の定、脈拍が少し速い。息を吸う。胸が膨らむ。心臓が僕を叩いて、叩いて、静かに、叩いて、僕は、静かに、部屋を受け入れる、窓を眺める、陽光が空間を流れる、きれいだなと思う。目を瞑る。リセット。

 目を開ければ、僕はもう、なにも思い出せない。

 僕は部屋を渡る。部屋の奥、四分の一にシステム・キッチンがあり、その手前にあるカウンタが部屋を二対三に区切っている。そのさらに手前にはモスグリーンのソファが、暖色系の色の付いたガラスのテーブルとともに壁際に置かれている。他には何もない。壁にもなにも掛けられていない。時計も絵画も鏡も電話も灰皿もない。

 そう感じたことはないけれど、殺風景といえる。

 彼女はワインレッドのセータを少し持ち上げ、カウンタの椅子に座る。そして、僕を見て、微笑む。僕は首を傾げ、口の端を上げる。笑ったはずだ。壁際のソファに腰掛ける。彼女との距離は2メートルほど、僕らの重心を通る円を描けば中心角は15度ほどになるだろう。

 彼女はサイズの合わないワインレッドのセータを羽織り、白地に淡い紅色の小さな花柄の付いたパジャマを着ている。パジャマっぽいパジャマ。いつだったか、僕がプレゼントしたものだ。これを渡したとき、彼女は「似合わないと思うよ」と僕に言ってから、「まあ、私は着れればなんでも良いんだけどさ」と付け足し、僕にキスをした。

 僕は一度だけ頷き、彼女の部屋のドアを閉めると、キッチンに来て、珈琲を淹れた。思い出す。自分の足音、ドアが無愛想に閉まる、蛇口が溜め息とともに水を吐き出す、不器用だが親切な薬缶、明るい水、目を覚ました炎、融通は利かないけど頼りになるドリッパー、穏やかで誇らないペーパフィルタ、そして、静かに出番を待つ砕かれた珈琲豆たち。

 薬缶が、沸騰したぞと自らの仕事を主張する。

 眠りに落ちる炎、いきり立つ薬缶、待ち受ける珈琲豆たち、黙して語らないサーバ。静かになる。手のひらに熱が伝わる。温かい。この温かさはいったい、どこにあるのか。熱い水を少量注ぎ、珈琲豆を蒸らす。立ち上る湯気が無表情に消え去る。注ぎ足す。泡が表面を覆い、ふわっと膨らむ。サーバに珈琲が抽出されるのを眺めながら僕は考えていた。

 なぜ、彼女は僕に「似合わない」ことを宣言したのだろう。
 そして、なぜ、僕はそのことに疑問を感じるのだろう。

「わからないな」
「なにが?」

 ふと、僕は目の前の状況に引き戻される。

「いや、独り言だよ」
「だと思った」

 彼女は笑って肩を竦める。

「わからないから始まる会話ってあんまり経験ないし」
「じゃあさ、わからないだけの会話って知ってる?」
「どういうこと?」
「ふたりの人がいてさ、わからない、わからないって言ってるわけ」

 僕は珈琲を飲む。
 まだ温かい。大したものだ。
 彼女はじっと僕を注視している。

「それだけ?」
「これだけ」

 僕は簡潔に応え、彼女の目を見る。

「なるほど」
「理解した?」
「ジョークだね」
「うん」

 彼女はカウンタに寄りかかって頬杖をついた。

「その人たちはなにがわからないの?」
「それはわからないよ」

 僕が笑いながら言うと、

「わからない会話だからね」

 彼女が笑う。

「その通り」

 どうやら彼女は僕のこころが読めるらしい。

「まるで人間みたい」
「ジョークだね」

 彼女は三度頷き、微笑む。どうやら、僕は彼女のこころが読めるらしい。ただ、お互いに自分のこころが読めない。それを拒否、あるいは回避しているからだ。そういった点において、僕らはとても似ていたし、こころという曖昧な概念についても、あえて削除をせずに、やり方は違うだろうけれど、かなり一致した把握をしていると感じる。それは奇跡的なことだ。

 向こうをむいたまま、彼女は言う。

「いま、なに考えてる?」

 僕は応える。

「ひとつじゃないよ」
「わかってる」
「いろいろだね」
「私は、君のこと考えてた」

「僕?」
「そう」
「僕のなに?」
「そういう難しいことは訊きっこなしだ」

 そう言いながら、彼女は顎をぴっと挙げ、僕のほうを向いた。僕はそれを見た。彼女を見た。それは圧倒的な力だった。僕が黙っていると次の瞬間には、彼女は笑って首を傾げている。そのまま下から覗き見るみたいに、上目遣いで僕を見る。彼女の存在。彼女がそこにいるということ。彼女が彼女であるということ。彼女の生命。彼女の意味。

 僕は茫然とする。

 泣きそうになる。なぜだろう。わからない。いま、僕は彼女を見ている。僕の視界にあるもの。僕はあらゆるものを見ている。けど、僕は彼女を見ている。本当は同じこと。でも、違う。いま、僕は彼女のことを考えている。僕の頭の中にあるもの。僕はあらゆることを考えている。けど、僕は彼女を考えている。僕はいま、彼女を選択しているのだ。なぜ?

「罠にはまったのかな?」

 僕はわざとらしい笑顔で、首を右に10度傾げる。

「こういう朝もたまには良いでしょう?」

 彼女はにやっと笑ってさらっと言う。
 それなのに、その表情は少し寂しそうだった。

「あのさ……」

 僕の言葉が彼女にひっかかる。

「言わないでも、わかるよ」

 彼女はそれをそっと離して、置いた。
 僕は頷いて、珈琲を飲んだ。
 それはもう冷えている。


    *    *    *    *


 言葉にもせずに自分の思いが相手に伝わるだなんて幻想を、私は持っていない。ただ、言葉にさえすれば自分の思いが相手に伝わるだなんて妄想も、私は抱いていない。そういった期待や希望、伝えたい、伝わりたい、あるいは、関りたい、という欲求が小さいのだ。

 これは、素直に自己を分析すると、諦めているのだと思う。

 とても自然に、そういった関係を諦めている。だから、逆を返すと、私はそのような欲求が過剰なのかもしれない。誰か、理解したい人と、理解してほしい人と、理解しあう、理解しあいたい。その欲求を抑制しなければ、生きていることに耐えられないほどに。可能性としてはあり得る。推論するとしたら妥当なところだ。

 自分にその欲求、その機能があると想像するだけで頭痛がするけれど。

 いや、もしかすると、その志向性自体に価値を認める必要があるのだろうか。考える価値はありそうだ。しかし、私はこうも思う。人間の思考と行動パタンを徹底的にコーディングして頭の中に詰め込んだ時、意志だとか、判断だとかいったものが、本当に、なんらかの余地を持って人間に関っているのだろうか。

 それは単なる虚構なのでは?

 そして、虚構で十分なのに、あえて飾り立て、不自然に愛で、不気味に求め、気持ち悪いほど大切にしている。この考えは、たぶん、私が私自身、人との理解を諦めている、と認識することに影響を与えている。それは、なぜ、人が、人と理解しあうことをこれほどに重視するのか、という問題提起に繋がるだろう。

 理解しあえないことに対して、理解しあうことを追い求めて、人類は、歴史の中でどれだけ不必要な血を流してきただろう。いま、人類に必要なのは共通の理解ではなしに、互いを認めあい、そして、無視しあうことなのでは。

 ひとときの寂しさ、ひとときの気まずさのために、他人を、自分を、限りある時間と、限りある資源を浪費するのは、もう、それは罪だ。しかし、なぜか、大勢の人間はそれを避けない。それを拒否している。皮肉にも、人間はやはり、生まれながらにして罪深い生き物なのだ。いつか人間が神になるときまで、そのディレンマは人類を支配するのかもしれない。

 言葉が意味を持ち、人と人とが、なにごとかを理解できるのはなぜか?

 私がこうやって人との理解を、そして、その関係まで諦めている、と自覚するのも、彼がいるからだ。初めて、なにを考えているのか把握できない人間に出会った。彼に会うまでは、とても狭い範囲ではあるだろうけれど、私はあらゆる人の思考をトレースできた。なにを考え、なにを望み、どう行動し、どうなるか、ほぼ予測できた。だから、諦める必要がなかった。

 人との関係、というものを意識する必要がなかったからだ。

 私は強すぎず、弱すぎず、常に人よりもちょっと上で、邪魔にならない程度に、その人に影響を与える、そんな風に、相手に合わせて立ち振る舞うことができた。人間関係って、熱量の移動みたいなものだと思ってた。あのまま続けていれば、今頃私は仙人にでもなっていたかもしれない。牛だって、嫌いじゃない。舌なんて、もう、最高に美味しい。

 ところが、そこで、彼が現れた。

 いや、現れたってほどの登場シーンじゃなかったけど、その瞬間は覚えてる。告別式の夜。私の知人の葬式が、彼の知人の葬式でもあった。なかなか冷たい小雨のなか、喪服を着た彼が道路の脇で煙草を吸っていた。彼は、火が消えたままの煙草をずっと咥えてた。たぶん、放心してたんだと思う。私は近づいていって、ジッポの火を差し出した。

「消えてるよ」

 彼は横目で私を見た。
 寂しいというか、優しいというか、冷たいというか、そういう眼。

「もしかしたら、消えないかなって、思った」

 それが、彼から聞いた最初の台詞。
 普通の人が、初対面の女性に対して言うようなことじゃない。

「実験してたんだ。煙草の火が、この程度の小雨で消えるかどうか」

 彼は笑って言う。
 もう、全身が濡れて、水が滴っていた。
 この程度、というには、小雨の雨足は速かった。

「馬鹿じゃないの?」

 私は妙に調子が狂って、ちょっときつい口調で彼にそう言った。

「いや、馬鹿じゃないんだ、だから、困ってる」

 彼は吐き捨てるように言った。私など眼中になかった。

 たぶん、私は、彼が好きなのだ。そう思う。考えると正常な判断ができないから、思うだけにしている。私って、そういう慎ましい人間なんだ。もっと特別な雰囲気をだすと、愛しているってフレーズがいい響きかもしれない。つまり、干渉してほしい、影響してほしい、それが駄目なら、彼を私の中に取り込んでしまいたい。その欲求、そういう思い。

 でも、それは無理、相手が悪かった。

 そもそも、思いってなんだろう。ある人は、それは感情だっていうかもしれない。けど、それは違う。感情なんていうものは、存在しない。それは空気は存在しないとか、そういう間違いとは違う。いってみれば、感情なんていうのは夜空に張り付いた星座のようなもの。

 観測したときにのみ現れる幻想だ。

 じゃあ、思いとはなにか。いや、そんな風に自省するには問題の焦点がずれているかもしれない。まず、私は、こういう風に問わなければならないだろう。なぜ、私は私の考えを、私の計算を、私の演算を、私の思いだなんていう言葉で誤魔化しているのだろう。

 わからない。不思議だ。たぶん、彼のせいだろう。

 最近、こうやって、いろんなものが、いろんなことが、どんどん、彼のせいになっていっている。とても楽で、とても落ち着いている。彼に出会う前と比較して、私の自分自身の評価は、余裕の三段跳びで地面に落ちた。もう、身動きも取れない。そのうち風化して、さらさらと崩れ去るだろう。もう、自分の力じゃ、なにもできないって思う。それを望んだんだ。

 もう、目に見えるものは空虚で、私ってふわふわ浮いてるんだ。

 私はいったい、どこにいるのだろう。思考だけが内在し、物体も、刺激も、感情も、知識も、あらゆるものとことは外在している。でも、このとき、内と外の境界はどこにある。非常に曖昧だ。一定のネットワーク、そこにある、一定の入力に対して、一定の出力を返す、レイヤの重なり、それを表現する手法、それらをまとめて保有すると認識する単一性、そして、同一性、つまり、自分が自分であると認識する機構、そのあたりにこの問題の核心はある。当たり前の話だ。いつだってさ、当たり前の話が一番決定的なんだ。

 私は彼と一緒にいたい。もう、それ以上に確かなことはなにもない。


    *    *    *    *


 いま、僕と彼女はともにある。ただ、それを確かめる術を僕は持たない。自分の顔を、自分の目で直接見るようなことは、不可能だから。けど、鏡を通せば、僕は自分の顔を見ることができるかもしれない。右と左の逆転した、この僕とは違う、その僕の形を。

 彼女を通せば、見れるのかもしれない。

 でも同時に、僕は、彼女の向こう側にそれ以上のものを、目を覆わなければ叫びだしてしまいそうなほどの、可能性を見てしまうかもしれない。それが、怖い。その時、僕は泣いてしまうと思う。だから、僕は彼女を見つめることができない。だって、鏡に映る姿を見ることなしに、鏡だけを見ることなんてできないでしょう。

 僕は、ただ静かに、僕としてあればよい。

 僕は、僕の形を知らないままに僕であるし、彼女を見ずとも、僕は彼女といることができる。それは身勝手なことだろう。でも、僕はまず、そうありたい。ただひたすらに、僕は彼女とともにあり、それ以外にはなにもない。

 彼女は「言わないでも、わかる」と言った。

 でも、言わないでも、わかる言葉なんてない。だから、彼女のその発言がなにを意味しているのか、僕は考えなければならない。大体が、人間ってそういうもの。意味を求め、価値を求め、砂時計の砂が、その時間が止まらないように、静かに上下を逆転させる。情報を蓄積し、推論しては壊して、可能性に遊び、そのひとつで踊る。その繰り返し。

 そうやって、楽しんでいるんだ。飽きないように。

 窓の外はこんなに美しいというのに、喋らずにはいられないんだ。黙り込んでいると寝ちゃうからさ。人は、自分が存在したいがために、周りのものを存在させたんじゃないか。じゃないと、ふるふるととけてしまうから、さらさらときえてしまうから。でも、どきどきと流れているんだ。

 この理不尽さ、不自然さに、なにか意味があるのだろうか。

 いや、たぶん、意味なんてない。だからこそ、それは神聖でからっぽ。あまりに無意味で、あまりに無条件で、近付きすぎると吸い込まれてしまう。だから、意味で無意味を追い詰めて、少しづつ、僕は歩んでいる。でも、独りになると、僕は言葉を失ってしまい、もう、なにも思い出すことができない。僕はここにいて、君はそこにいるよと、ただ、それだけのことすら言うことができない。

 事実を取りだすことすら、それは人間の仕事なのだ。

 僕は微笑む。それを見て、彼女が微笑む。そこにはなにも潜んでなどいない、僕と彼女があるだけだ。僕は僕であり、彼女は彼女であり、僕と彼女はともにある。基本的になにかが変化するわけではない。ただ、新たに蓄積されるものがあるだけだ。飽きずに生きれば、ときどきは笑うこともできるだろう。自分を拡大する必要などないのだ。

 僕は冷たい人間だ。思い出すには、覚えていすぎる。


    *    *    *    *


「愛ってなに?」

 丸い夕陽に世界が滲む、不安定な夕刻、赤音は私に訊いた。

「そういうのは、私の専門じゃないよ」
「知ってる」
「じゃあ、どうして私なの? 求めているのは専門的な回答ではない?」
「…………」

 赤音は私から目を逸らして、黙った。それはとても珍しいことだった。
 なんとなしに、赤音がなぜ私にそれを尋ねるのかわかった気がした。

「彼には訊けないと思ったの、嫌かなって」
「優しいね」

 私がそう言うと、赤音はじっと私の顔を見た。
 人形みたいに奇麗な顔、素敵な無表情、まるで生きていないみたい。
 私が少しだけ首を傾げて微笑むと、赤音はなにかを了解したかのように頷いた。

「干渉しないことは、優しさ?」
「そういう場合が多いね」
「彼にたいして?」
「そうそう」

 私たちはお互いに沈む夕陽を見ながら、言葉を発していた。

「望まないことを、してあげないことが、優しい?」
「望むことを、してあげることよりは、よっぽど優しいと思うよ」
「どうして?」
「なぜ、私がそう思うか、ということの理由を訊いているのね?」

 赤音は黙って頷いた。

「彼がそれを望んでいるからだよ」

 私は笑った。可笑しい。少し、胸がどきどきする。

「それは愛?」
「どれ?」

 私は赤音を見る。
 きょとんとしてはいるけれど、困惑している様子はない。
 なんだか、ちょっと残念だけど、それ以上に、頼もしいな、と思う。

「まあ、そうだね、これは愛だよ」
「わからないや」
「そういうものさ」
「境界にあるのね」
「そう、その発想はすごいね」
「死にたいする距離は影響する?」
「本質的には変わらないけど、実質的には」
「人間には可能性が残されていすぎだと思う」

 そうかもね、と言って私は笑った。

「無闇に自由だよね」
「自由じゃないと思えるほどに」
「なににだってなれる」
「まるで水みたい」
「詩的だね」

 赤音は肩を竦めて、夕陽を眺めた。

「どうして、人は干渉して欲しいと思うんだと思う?」
「寂しいから、愛されたいから」
「本当にそう思う?」

 赤音は首を振った。

「必要とされたいから、そうしなきゃ、自分に価値を見出せないから」

 私は驚いて、少し、黙ってしまった。

「あなたがそう思っているの?」
「一般論」
「あなたはどう思うの?」
「干渉されなければ、存在できないから」
「誰に似たのか、赤音は生きるのにむいてないな」
「もしかすると、まだ、生まれていないのかも」

 私は夕陽を眺めた。水面に映っているみたいに、ゆらゆらと揺れている。

「生きているために希望が必要で、だから価値が、そのために存在が必要?」
「死なないためにだと思う」
「ポジティブな発想だね」
「その発想のほうが、ポジティブだよ」

 赤音が笑わずに言う。しょうがないから、代わりに私が笑った。

「人間って、価値を吐きださなきゃ、生きられないんだと思う」
「不思議な欲求だよね」
「本当に不思議だよ、人間はなにを待っているんだろう?」
「変化だね」

 会話に一瞬、空白ができた。
 私の言葉を受け流して、赤音は続ける。

「それと、意味かな」
「なかなか、トリッキィだな」
「だから、関係が必要で、存在が必要」
「周囲を存在させて、自分を確定している?」
「そうだと思う」
「自分の存在が、自分の意味?」
「もっとも根源的には。ただ、自分を把握することは不可能だと思う」
「ひとりという単位に大した意味はない?」
「それは単に名前では?」
「なるほど」
「むしろ、ひとつじゃないかな。そういう意味では、とても重要だと思うんだ」

 私は溜め息をついた。それだけの価値はあった。

「愛に必要なものはなに?」

 唐突に、赤音が私に尋ねる。

「どういうこと?」
「関係に愛を見るには、なにが必要かということ」
「うん、それは、信頼と配慮だね」
「なぜ?」
「信頼は関係の基礎になるし、配慮は関係を育むわ」
「たとえば?」
「うーん、そうだな、私の差し出すものを無条件で受け容れるとか?」
「それは脅しているのでは?」

 私は夕陽に向かって、頬を膨らませた。

「違います。それは信頼の証です」
「他には?」
「私のために見返りを省みずに行為するとか」
「具体的には?」
「そうだな……秋、昼の陽は短い、あたりは暗闇に覆われ、」
「ねえ、その話、長そう?」
「ちょっとね」
「手短に」
「雪が舞い落ちる夜、自分の寒さを省みずに外套を私の肩にかけるわけ」
「それが配慮?」
「ええ、配慮の証です」
「さもしい恰好に同情されたのでは?」

 なんだか、自信が失われてきた。

「あんまり酷いこと言うと、スリッパ投げつけるよ」
「なぜ?」
「愛ゆえの怒りを表現するために」
「スリッパを?」
「うん」
「投げるの?」
「うん」
「愛ゆえに?」
「うん」
「素敵だね」
「可愛いでしょ」
「したことあるの?」
「ない」
「可哀相に」
「む」

 私は有無を言わせず、赤音を後ろから抱きしめた。

「抱きついちゃうんだからな」
「不思議な台詞」
「可愛いだろ」
「羨ましいな」
「やってみたら馬鹿馬鹿しさがわかるよ」
「でも、楽しそう」
「それなりにね」

 私は赤音を抱きしめ、身体を寄り添わす。

「拒んでも良いんだよ」
「拒んだほうが良かった?」
「そうされたら悲しかった」
「信じてるから」
「光栄だな」
「殺されてもいいと思った」
「ありがとう」
「どきどきする」
「怖い?」
「ちょっと」
「大丈夫だよ」
「どうすればいいのかわからない」

 私は赤音の鼓動を聞いた。

「人との関係のなかにしかないものって、あるんだよ」
「たとえば?」
「言葉にはできないな」
「それであると言えるの?」
「あるんだな」
「教えて」
「無理だよ」
「伝えて」
「感じて」
「知りたいの」
「いずれ知るし、知らないでもいいことばっかりだよ」
「じゃあ、なんでそんなこと言うの?」
「怒った?」
「怒ってる」
「ごめんね、たぶん、恋しいんだ」
「愛が?」
「そう」
「暇なのね」
「その通り」
「迷惑にならない?」
「なってるよ」
「でも、摩擦が必要?」
「必要だね」
「認めあっているのね」
「生きているから」
「面白い」
「好き?」
「嫌いじゃないよ」
「私は大嫌い」
「でも、恋しい」
「たまに」
「わがままね」

 赤音は私に身を任せて、小さな声で「愛してるよ」と言った。
 私は赤音の頭をこつんと叩いた。

「ごめんなさい」
「わかってるなら、しない」
「言ってみたかったの」
「そういうことを言うならね、赤音、覚えておきなさい」
「はい」
「私のほうがもっと、絶対、愛してるんだから」

 私は赤音を抱きしめる。

「ほら、あなたに私を抱きしめることができる?」
「それは、ずるいと思うな」
「愛っていうのは、ずるいのよ」

 赤音はどきどきと流れる。


    *    *    *    *


 僕は冷えた珈琲をすすると、カップの側面を温めるように覆った。

「僕はたぶん、君を知ることはできる」
「なにができないの?」

 不必要なことを訊かない彼女の鋭い優しさは、どこか、愁いとともにある。

「君を理解することはできない」
「なぜ?」
「それは僕の問題だから」
「あのね」

 彼女はカウンタに肘を付いて両手の指を組むと、その上に顎を乗せた。

「望んでないよ」
「望まない人はいない」

 溜め息。

「それは、君が望んでいるということだね?」
「なにを?」
「私を理解しないことと、君が理解されること」
「僕は諦めてる」
「あのさ、」

 彼女は淡々と、口元だけを動作させる。
 その間に、僕は彼女の見ている光景に視点をずらす。
 壁、正面にドア、その前に机、左にソファ、右斜め上方には窓、流れる日差し。

「私の知る限り、そういうときの君が一番、駄目だね」
「自覚してる」
「誤った問いは誤った解しかもたらさないし、それは害だわ」
「了解してる」
「君の発言の意図が知りたいな」
「ないよ」
「違うね」
「否定の意図を汲んで」
「私に甘えてるの?」
「どうかな、そういうことになるかな」
「私に甘えてるの?」

 彼女は繰り返した。
 僕は少し黙り、何度か小刻みに首を縦に振る。

「甘えてる」
「珍しいね」
「そう?」
「たださ、甘えかたがさ、苦々しいよね」
「気付かなかった」
「嘘ばっかり」

 そう言って彼女は笑った。

「深すぎて、溺れちゃうんだ」

 彼女は身体を起こして足を組むと、指を組んだままの両手を後頭部にまわした。

「表面にいれば深さは問題にならないよ」
「私ってさ、ほら、チャレンジャだから」

 彼女は嘘みたいに流れている柔らかい日差しに眼をやる。

「潜っちゃうわけ」
「素潜り?」
「裸一貫よ」
「硬派だね」
「動機は難破だけどね」

 彼女は笑った。

「君には、高いところにいてほしい」
「僕?」
「そう」
「それは君の問題なのでは?」
「いや、違う」

 僕は黙った。

「私はいつだって君の傍にいる、だから、君は高いところにいかなきゃ」
「…………」
「もっと遠いところのものを、その地平の先を、私に見せなきゃ」

 僕は珈琲カップをそっと握り締めた。

「君のために?」
「そう、私のために」
「いままで、そうしてきた」
「なら、これからもそうして」

 僕には、彼女が必要だ。ただ、必ずしも愛しているわけではない。
 片手を挙げた猫が誰かを招いているのかどうか、僕にはわからない。

「まるで神との契約だ」

 僕らの関係は無意味だ、簡単に失われる。
 でも、たぶん、だから、大切にしている。

「同じことだよ」

 いずれかの時点で、価値の逆転は起こる。
 僕たちの反転した関係は、いつだって混じり合っていた。
 彼女を見る、なにかが隠される、見えないそこにはいったい、なにがあった。

「透明だね」

 実に不思議だ。
 なにものも、僕には働かない。
 澄み切ると、生きている心地がしない。

「君は自分を愛している?」
「僕は愛を定義していないし、興味もない」
「そう言うと思った」

 彼女は僕を引き戻す。

「あえてするなら?」
「不定、厳密には不答かな。とりあえず、きわめて私的なものだね」
「矛盾するね」
「そう、だから、定義しない、という意思が誠実だ」
「味気ない」
「それが安全側さ」

 彼女はつまらなそうに口を尖らせた。

「そういう人に限ってさ、ナルシストだったりするのだよね」

 ちっちっと指を振って、目を細めながら彼女は言った。
 いぢわるが彼女は好きなのだ。

「うぬぼれ屋ってこと?」
「そうそう、ナルキッソスみたいってこと」
「ギリシャ神話の?」
「そう、水面に映った自分を愛しちゃったやつ」

 彼女はふるふると首を振り、おおげさに中空を仰いだ。

「それは、遠からずとも、あたらじってとこだね」
「あらら、どういうこと?」
「訊きたい?」
「うわあ、素敵な展開だなあ」

 彼女は妙にうきうきとした調子で腕を組み、首を傾げた。

「楽しみ」
「素直だね」
「だって楽しいじゃない」

 彼女はウォーミングアップするみたいに、首をグルンとまわした。

「本気だ」

 僕の声は笑う。

「もちろん」
「君のそういうところ、好きだなあ」
「本当?」
「嘘」
「確かめようがないわ」
「訊かなきゃいいのに」
「その行為自体に意味があるの」
「のってきたね」
「どれを選択するか困るほどに」

 彼女は肩を竦めた。
 それがなにを意味しているのか、僕にはわからない。
 これが僕と彼女の差だ。あまりにも圧倒的で、気持ちが良い。

「準備はいい?」
「ええ、どうぞ」
「僕はね、ナルキッソスの逸話を、自己愛の物語とは捉えていないのさ」
「ねえ、期待していい?」
「それはご自由に」
「じゃあさ、結論は最後にして」
「はい?」
「倒叙物って好きじゃないんだ」

 僕はやれやれと呟いた。

「最後まで聴いて君に到達できなかったら、私の負けね」
「好きにして」
「贅沢な時間だな」
「まるっきりね」

 彼女はしめしめと呟いた。

「じゃあ、ナルキッソスの話をしたいと思います」
「ぱちぱち」
「むかーしむかし、あるところに、」
「あ、そういう出だしなんだ」
「やっぱり、ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・ギリシアが良かったかな?」
「ねえ、知ってる?」
「なに?」
「あれって実話らしいよ」
「あれってチャイナ?」
「そう」
「嘘だあ」
「人間業じゃないよね」
「だけど人間が演じてるよ」
「リー・リンチェイは人間じゃないかもしれない」
「失礼だな」
「たださ、そういうところ、ギリシャ神話と相通ずるものを感じない?」
「イカルスとか?」
「そうそう、あれとか絶対ワイヤ・アクションだよね」
「だよねじゃないない、普通の人は感じないよ」
「魔術師シモンだってワイヤ・アクションで飛ぶわけじゃない」
「仮にそうだとしても、時代が違うよ」
「君って案外普通だね」
「意外でしょ」
「存外だね」

 ありがとうと僕は言って、珈琲をすすった。

「でね、ナルキッソスは人間でさ、」
「哺乳類ね」
「非常な美青年だった」
「しかも、裸体」

 僕はいったん言葉を区切って、彼女に言う。

「ねえ、」
「わかった」
「なにが?」
「裸体ではなかった」
「そこじゃないよ」

 彼女は肩を竦めると下目遣いににやっと笑って、律儀にも「にやっ」と言った。

「もう……」

 僕は溜め息を吐いて、お話を続ける。

「その美しさのあまりね、ナルキッソスを見た者はみな、彼を好きなってしまう」
「みなって?」
「森のニンフたちさ」
「身篭ってるの?」
「妊婦じゃないよ」
「ラジャーのアール」
「楽しそうだね」
「レジャーじゃないよ」
「いや、そういうことじゃないんだけど」
「ロジャー?」
「それは海賊王」
「うわあ、そうきたか」
「エヴァンスの遺書が良かった?」
「そうだね、それだね」
「飛躍してるよ」
「でも、追いついてるじゃない」

 全然話が進まない。始めなければ問題ないのに、始めなければ進まない。
 そして、始めるとなかなか終わらない。だから、僕はお話を続ける。
 どうやら、それが説明の本領だし、人生の本領でもあるようだ。

 そうしなければ終わらないし、進まない。
 人間には顔があり、顔があるほうが前ということになっている。
 顔に目があり、前後があるとするならば、やはり進まなければならないだろう。

 そういった想像力と人間性を、かろうじて僕はもっているようだ。

「でさ、ナルキッソスは誰からも愛されるのだけど、当のナルキッソスは誰も愛さない」
「うん」
「中略」
「うん」
「で、とうとう、復讐の女神ネメシスの怒りをかってしまう」
「家に帰ったら、今日のノートを見返すこと!何度言ったらわかるんだ!」
「その復習じゃないよ」
「うん」
「『人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい!』ってさ」
「ニンフって人なの?」
「微妙だね、英語で読むといいかも」
「なるほど。だけどさ、それ、復讐ってわりには優しい命令だね」
「そう、そこはポイント」

 僕の言葉を受けて、彼女は右手の人差し指を顎に当てる。

「で、続き、ここからが有名かな」
「そうだね」
「水を飲もうとしたナルキッソスは、水面に映った姿に強烈に惹きつけられる」
「自分の姿ね」
「そう、そして、女神の呪いのままに、自分自身を愛してしまった」
「うん」
「水面に映った姿に触れることはできない、かといって、そこを去ることもできない」
「うん」
「ナルキッソスは悩み、苦しみ、しだいに衰弱していってしまう」
「うん」
「ついには、そのまま水辺に倒れこみ、死んでしまう」
「そして、水仙の花になるわけか」
「そう」

 これで、お話はおしまい。語られるフェイズに移るのだ。
 そのまま彼女が神妙に黙ってしまったので、僕も少し黙った。
 30秒ほど経っただろう。微動だにしなかった彼女が、顔を上げた。

「そうか」
「どうしたの?」
「いわれてみれば、これはけっこう複雑な話だね」
「そう、このお話は深いよ」
「真剣に考えるには設定が曖昧だけど、それで終わるには魅力があるね」
「でしょう」
「神話だからって理由だけでは、これは解消できないよね」
「神話にもよりけりあるからね」
「まいったな」

 彼女はまるっきりまいってなさそうな口調でそう言った。

「自己認知の物語として捉えてる?」
「エゴとセルフの物語ということ?」
「うん、『自分』の客体化ということ」
「いや、惜しいけど違う」

 そう言って、僕はクスクスと笑った。

「なに?」
「だって、君があまりわけのわからないこと言うから」
「失礼なやつだな」
「君が言うっていうのが可笑しいよね」
「あーもう、言わなければ良かった」
「うそうそ、僕に合わせてるんでしょう?」
「…………」
「優しいよね」

 彼女は黙る。そういう可愛いところがあるのだ。

「続きを教えて、いまのは本命ではないでしょ」
「うん」
「憎いね」
「愛らしいでしょ」

 信じがたい空中回転レシーブに、僕はいちおう「イエスだね」と応えた。
 さながら、風船アタックのような切り返しの妙である。
 彼女は一度頷き、切り替すように続けた。

「鏡像認知の物語だね」
「つまり?」
「自己認知とも絡むけど、見るという働き、顔、視点の移動と自身の他者性」
「そう理解したいなら、僕はこの物語にエコーも登場させたね」
「エコーって、いわゆる木霊のこと?」
「そう、他人の台詞の語尾を繰り返す、声だけの存在」
「ナルキッソスに関係あるの?」
「ある、中略の部分で登場するよ、主要人物のひとりだ」
「アンフェアだわ」
「いや、僕の理解には関係なかったってだけさ」
「エコーを登場させるとどうなるの?」
「多少深みがでるよ。それぞれが逆のルートを辿ったと考えられないこともない」

 そして、また、彼女は黙り込んだ。
 再び30秒後、彼女は両手をあげて、目を閉じた。

「私の負けだな、わからないや」

 少しだけ微笑んで、そう言う。
 目を開け、両手を下ろすと、彼女は静かに珈琲を飲んだ。
 その珈琲は冷えているはずだ。なぜいまになって、その珈琲を飲むのか。

「どうして避けたの?」

 僕は訊いた。

「なにを?」
「気付かなかったわけない。そういうフィルタを通した」
「なにを言っているのかわからないよ」
「怒らないで」
「怒ってないよ」
「じゃあ、どうして?」
「別に、言うことに意味があるとも思えなかっただけ」
「君らしからぬ発言だ」
「わからないもの」
「ナルキッソスの話、これは自己矛盾の物語だ」

 もう一度、彼女が珈琲を口にする。

「誰からも愛されるけれど、誰をも愛さない、それがナルキッソス」
「その時点で矛盾してるよ」
「そう、自分を『自分』として捉えることができるなら」
「奥深い話なんだね」

 彼女は自嘲気味にそう言った。

「だけどそれには、自分の外側に立たなければならない」
「周りの人やものを見るのと同じように、自分の視点を飛びだすということ?」
「そう」
「ナルキッソスはそれができなかったから、うぬぼれ屋なの?」
「僕の解釈ではそうなる」
「通常の解釈とまるっきり逆だ」
「そして、女神は言う」
「『人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい』」

 彼女が記憶を復唱する。

「そう、それも、相手が人なら、それ自体で矛盾する呪いだ」
「うん」
「だから、この呪いは「ナルキッソス」ではなしに、ナルキッソスにかけられた」
「『誰からも愛されるけれど、誰をも愛さない』という設定を修正した?」
「そう、『誰からも愛されるけど、自分以外は愛さない』にね」

 僕たちが言葉を区切ると、必然的に沈黙が目を覚ました。
 窓から流れこんだ陽光が、部屋の中心で渦巻きだしていた。

「矛盾に矛盾しないうぬぼれ屋のナルキッソスは、そこで死んだ」
「自分という存在も、共時的に可能な自分のひとりだった?」
「いや、それは十分じゃない」
「他人であることすら可能?」
「可能というよりも、まるっきりその通りじゃないかな」

 彼女は肩を竦めて、首を振った。

「ナルキッソスは水辺で死んだ、内部に渦巻いた矛盾に耐えられなかったからだ」
「ナルキッソスは、水面に映った姿を愛していた?」
「そうだし、そうじゃないとも言える」

 彼女の動作は静かに、声も静かになった。
 訊いていることは、訊かないでもわかることばかり。
 賢明だから、恐れているのだ。僕と、釣り合いがとれるように。

「まずは愛していた。けれど、そう思った途端に愛することはできなかった」
「かわいそう」
「ナルキッソスは水面に『ナルキッソス』を認めた」
「そして、『それ』を愛した」
「けれど、次の瞬間には、それが『自分』かどうか、大いに悩んだ」
「だから、愛することができないの?」
「そうだよ、その疑いを持つ以前の彼と、以後の彼は大いに異なる」
「その次の瞬間には?」
「水面に映った『ナルキッソス』を愛していた」
「そして次の瞬間にはまた疑っている」
「そう、復讐の女神の呪いは他愛もないけれど、彼にとってはもっとも残酷な方法だ」

 沈黙。

「終わり?」
「終わりさ」
「私の負けだ」

 そう言って、彼女はふっと短い溜め息を吐いた。

「どうして言わなかったの?」
「でも、結局喋ったよ」
「それは別の問題だ」
「勝つことに意味があった?」
「いや」

 僕は曖昧に否定した。

「だけど、だとしたら、負けることに意味があった?」
「あったよ」
「まさか」

 僕が驚いた口調で言うと、彼女は平然と応えた。

「一度さ、「私の負けだ」って言ってみたかったんだよね」

 僕は、さすがに笑いを堪えきれずに、声をだして笑った。
 泣きそうになりながら彼女を見ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。
 そのとき、とん、とん、とん、とん、と正面にある、部屋のドアから音がした。

「運命が扉を叩いているわ」
「叩いているのは赤音だよ」
「どうしてわかるの?」
「ドアの外側には赤音しかいない」
「内側には?」
「誰もいない」

 僕が微笑みながらそう言うと、彼女は僕を睨みつけた。
 いつの間にか、部屋の中はずいぶんと明るい。
 深い溜め息。
 僕らは見つめあう。
 彼女の視線は優しかった。

「最後にみっつだけ訊いてもいい?」
「どうぞ」
「結局、赤音ってなに?」
「僕らの子供さ」
「あなたは赤音を愛している?」
「それを否定できる僕はいない」
「赤音は運命ではなかった?」
「それはもう忘れてしまったし、たぶんもう、知ることもできない」
「ありがとう」
「どういたしまして」

 そして、その扉は静かに開かれた。


    *    *    *    *


 青白いワンピースがドアの隙間から見えた。
 裸足の右足がすっと伸びると、茶色のカーディガンがふらっと揺れて現れた。
 その途端、部屋に渦巻いていた陽光は、吸い込まれるようにドアの外側に流れでた。

「ごきげんよう」

 赤音は部屋に入り、ドアを閉めると、そう言った。
 僕と彼女は3秒ほど黙り、考えをまとめると声を合わせて赤音に言った。

「おはよう」

 赤音は少しだけ首を傾げ、少し経って、口元に笑みを浮かばせた。
 僕と彼女も、それを見て微笑んだ。

「どうしてここだってわかった?」

 彼女が尋ねる。

「私だったら、ここに連れて来るなって思っただけ」
「いきなりここに来たの?」
「うん」
「私の部屋によったりは?」
「してない」
「なぜ?」
「どこにあるのか知らないもの」
「それ、本当?」
「うん」
「うわあ、泣きそう」
「でも、知ってても行かなかったよ」
「なんで?」
「だって、彼の部屋に来たのだって、お返しってことでしょう?」

 それを聞いて、彼女はチェッと舌打ちした。
 なにかを喋ろうとして思いとどまり、そのままぶすっとして黙ってしまった。
 女性同士の確執というのかどうだか、どうやら、いろいろと思うところがあるようだ。

「それは、まるっきり健全で、正しい判断だったね」

 僕は笑いながら言う。

「僕も彼女も、自分のやりたいことしかやらないしね」
「知ってる」
「その点、赤音さんはお見通しってことだ」
「ああ、もう、こんなに屈辱的な朝は久しぶり」

 彼女が独り言のように呟いた。

「どうして?」

 赤音が尋ねる。
 彼女は頬を膨らませてそっぽを向き、そのままカウンタに突っ伏した。

「いや、たぶん、こっちの話だよ」

 赤音の質問に僕が応える。

「どっち?」
「そっちー」

 そう言いながら、彼女は両手でそれぞれ違う方向を指差した。
 そっちが同時にニ方向あるという状況は、かなり混沌としている。

「あっち?」

 赤音が颯爽と、彼女が右手で指差した方向を指して言う。
 それはきわめて難しい問題だったが、僕は安易に回答を引きだすことにした。

「いや、たぶんね、あっちもこっちもそっちなのさ」
「あっちはあっちで、こっちはこっちなのでは?」
「あっちはそっちで、こっちもそっちなのさ」
「で、そっちはどっちなの?」
「こっちかあっちがどっちか、あるいは、こっちもあっちもどっちだね」
「どっちかそっちなの?」
「うん、でも、どっちもそっちかも」
「混沌としてるね」
「僕もそう思う」

 僕と赤音が真面目に検討しているあいだ、彼女はうーうー唸っていた。

「なんていうのかな、彼女、今日負けっぱなしみたいだよ」
「珍しい」
「うん、なんかね、負けたかったみたい」
「贅沢だね」
「なかなかね」
「それで、負けられたの?」

 僕は苦笑して言った。

「いやあ、どうも、最後の最後で予期せぬ敗北を喫したみたい」
「ああ、言わないで」

 彼女が頭を上げて言う。

「赤音にはかなわないんだから」
「あ、その気持ちわかるなあ」

 僕は彼女に同意する。

「どうだか」

 彼女はそう言うと、不意に身体を起こしてゆらゆらと揺れた。
 その行動は僕の理解を超えていた。

「楽しそうだね」
「首が気持ち良い」
「酔わない?」
「バランス感覚が大事なんだ」

 僕たちがそういったことを話しているのを赤音は静かに眺めていた。

「どうしたの、赤音?」

 彼女が揺れるのをやめて言う。

「あのね、」

 といいかけて、赤音はそのまま、黙ってしまった。
 僕と彼女は赤音の沈黙を、沈黙のまま待った。
 そして、赤音は静かに言った。

「お父さんと、お母さんは、私がいいっていうまで、死なないでね」

 その毅然とした表情には、真摯さと誠実さが不安げに備わっていた。
 僕と彼女はお互いを見合わせた。
 僕は赤音に問う。

「それは……初めてのわがままが、究極のわがままだね」

 赤音は微動だにせず、視線だけがわずかに下を向いた。

「私はそういうの好きだけど」

 彼女がしれっとして言う。
 僕が彼女を見ると「なに?」とでも言いたげに小首を傾げた。
 僕は溜め息を吐き、絶対に負けていたい存在があることに笑った。

「わかった」

 僕は赤音に宣言した。

「私はもっとわかった」

 彼女がそれに被せて宣言した。そして続ける。

「その代わり、赤音、」
「なに?」
「私たちが死ぬときは、傍にいて、もういいよって、許してあげてね」

 赤音はじっと、僕と彼女を見つめ、そして、頷いた。
 その表情は、無垢と混沌と赤音が重なったような、無表情だった。
 みっつの光を重ねると白になり、みっつの色を重ねると黒になるように。

「わかった」

 赤音は言った。

「それにしても、驚いたな」
「そうだね」

 僕が息を吐いて言うと、彼女も二度頷いて同意した。

「どうして、言おうと思ったの?」

 彼女が尋ねると、赤音はたどたどしい調子で、台詞を口にした。

「たぶん、寝惚けてるんだと思う」
「あ、じゃあ、はい、これ!」

 その言葉を待っていたかのように、彼女は嬉々として背筋を伸ばす。

「なに?」

 おいでおいでと手招きされて、赤音は彼女にとんとんと近寄った。

「ほら、私が淹れた、珈琲だよ」

 彼女が赤音にカップを差しだしながら言った。

「またの名を、愛っていうらしいよ」

 僕が大事な説明をする。
 赤音はさらに近寄り、それを覗いて呟いた。

「黒いね」

 僕と彼女が声をだして笑うなか、赤音は僕らを不思議そうに眺めていた。