僕は冷えた珈琲をすすると、カップの側面を温めるように覆った。 「僕はたぶん、君を知ることはできる」 「なにができないの?」 不必要なことを訊かない彼女の鋭い優しさは、どこか、愁いとともにある。 「君を理解することはできない」 「なぜ?」 「それは僕の問題だから」 「あのね」 彼女はカウンタに肘を付いて両手の指を組むと、その上に顎を乗せた。 「望んでないよ」 「望まない人はいない」 溜め息。 「それは、君が望んでいるということだね?」 「なにを?」 「私を理解しないことと、君が理解されること」 「僕は諦めてる」 「あのさ、」 彼女は淡々と、口元だけを動作させる。 その間に、僕は彼女の見ている光景に視点をずらす。 壁、正面にドア、その前に机、左にソファ、右斜め上方には窓、流れる日差し。 「私の知る限り、そういうときの君が一番、駄目だね」 「自覚してる」 「誤った問いは誤った解しかもたらさないし、それは害だわ」 「了解してる」 「君の発言の意図が知りたいな」 「ないよ」 「違うね」 「否定の意図を汲んで」 「私に甘えてるの?」 「どうかな、そういうことになるかな」 「私に甘えてるの?」 彼女は繰り返した。 僕は少し黙り、何度か小刻みに首を縦に振る。 「甘えてる」 「珍しいね」 「そう?」 「たださ、甘えかたがさ、苦々しいよね」 「気付かなかった」 「嘘ばっかり」 そう言って彼女は笑った。 「深すぎて、溺れちゃうんだ」 彼女は身体を起こして足を組むと、指を組んだままの両手を後頭部にまわした。 「表面にいれば深さは問題にならないよ」 「私ってさ、ほら、チャレンジャだから」 彼女は嘘みたいに流れている柔らかい日差しに眼をやる。 「潜っちゃうわけ」 「素潜り?」 「裸一貫よ」 「硬派だね」 「動機は難破だけどね」 彼女は笑った。 「君には、高いところにいてほしい」 「僕?」 「そう」 「それは君の問題なのでは?」 「いや、違う」 僕は黙った。 「私はいつだって君の傍にいる、だから、君は高いところにいかなきゃ」 「…………」 「もっと遠いところのものを、その地平の先を、私に見せなきゃ」 僕は珈琲カップをそっと握り締めた。 「君のために?」 「そう、私のために」 「いままで、そうしてきた」 「なら、これからもそうして」 僕には、彼女が必要だ。ただ、必ずしも愛しているわけではない。 片手を挙げた猫が誰かを招いているのかどうか、僕にはわからない。 「まるで神との契約だ」 僕らの関係は無意味だ、簡単に失われる。 でも、たぶん、だから、大切にしている。 「同じことだよ」 いずれかの時点で、価値の逆転は起こる。 僕たちの反転した関係は、いつだって混じり合っていた。 彼女を見る、なにかが隠される、見えないそこにはいったい、なにがあった。 「透明だね」 実に不思議だ。 なにものも、僕には働かない。 澄み切ると、生きている心地がしない。 「君は自分を愛している?」 「僕は愛を定義していないし、興味もない」 「そう言うと思った」 彼女は僕を引き戻す。 「あえてするなら?」 「不定、厳密には不答かな。とりあえず、きわめて私的なものだね」 「矛盾するね」 「そう、だから、定義しない、という意思が誠実だ」 「味気ない」 「それが安全側さ」 彼女はつまらなそうに口を尖らせた。 「そういう人に限ってさ、ナルシストだったりするのだよね」 ちっちっと指を振って、目を細めながら彼女は言った。 いぢわるが彼女は好きなのだ。 「うぬぼれ屋ってこと?」 「そうそう、ナルキッソスみたいってこと」 「ギリシャ神話の?」 「そう、水面に映った自分を愛しちゃったやつ」 彼女はふるふると首を振り、おおげさに中空を仰いだ。 「それは、遠からずとも、あたらじってとこだね」 「あらら、どういうこと?」 「訊きたい?」 「うわあ、素敵な展開だなあ」 彼女は妙にうきうきとした調子で腕を組み、首を傾げた。 「楽しみ」 「素直だね」 「だって楽しいじゃない」 彼女はウォーミングアップするみたいに、首をグルンとまわした。 「本気だ」 僕の声は笑う。 「もちろん」 「君のそういうところ、好きだなあ」 「本当?」 「嘘」 「確かめようがないわ」 「訊かなきゃいいのに」 「その行為自体に意味があるの」 「のってきたね」 「どれを選択するか困るほどに」 彼女は肩を竦めた。 それがなにを意味しているのか、僕にはわからない。 これが僕と彼女の差だ。あまりにも圧倒的で、気持ちが良い。 「準備はいい?」 「ええ、どうぞ」 「僕はね、ナルキッソスの逸話を、自己愛の物語とは捉えていないのさ」 「ねえ、期待していい?」 「それはご自由に」 「じゃあさ、結論は最後にして」 「はい?」 「倒叙物って好きじゃないんだ」 僕はやれやれと呟いた。 「最後まで聴いて君に到達できなかったら、私の負けね」 「好きにして」 「贅沢な時間だな」 「まるっきりね」 彼女はしめしめと呟いた。 「じゃあ、ナルキッソスの話をしたいと思います」 「ぱちぱち」 「むかーしむかし、あるところに、」 「あ、そういう出だしなんだ」 「やっぱり、ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・ギリシアが良かったかな?」 「ねえ、知ってる?」 「なに?」 「あれって実話らしいよ」 「あれってチャイナ?」 「そう」 「嘘だあ」 「人間業じゃないよね」 「だけど人間が演じてるよ」 「リー・リンチェイは人間じゃないかもしれない」 「失礼だな」 「たださ、そういうところ、ギリシャ神話と相通ずるものを感じない?」 「イカルスとか?」 「そうそう、あれとか絶対ワイヤ・アクションだよね」 「だよねじゃないない、普通の人は感じないよ」 「魔術師シモンだってワイヤ・アクションで飛ぶわけじゃない」 「仮にそうだとしても、時代が違うよ」 「君って案外普通だね」 「意外でしょ」 「存外だね」 ありがとうと僕は言って、珈琲をすすった。 「でね、ナルキッソスは人間でさ、」 「哺乳類ね」 「非常な美青年だった」 「しかも、裸体」 僕はいったん言葉を区切って、彼女に言う。 「ねえ、」 「わかった」 「なにが?」 「裸体ではなかった」 「そこじゃないよ」 彼女は肩を竦めると下目遣いににやっと笑って、律儀にも「にやっ」と言った。 「もう……」 僕は溜め息を吐いて、お話を続ける。 「その美しさのあまりね、ナルキッソスを見た者はみな、彼を好きなってしまう」 「みなって?」 「森のニンフたちさ」 「身篭ってるの?」 「妊婦じゃないよ」 「ラジャーのアール」 「楽しそうだね」 「レジャーじゃないよ」 「いや、そういうことじゃないんだけど」 「ロジャー?」 「それは海賊王」 「うわあ、そうきたか」 「エヴァンスの遺書が良かった?」 「そうだね、それだね」 「飛躍してるよ」 「でも、追いついてるじゃない」 全然話が進まない。始めなければ問題ないのに、始めなければ進まない。 そして、始めるとなかなか終わらない。だから、僕はお話を続ける。 どうやら、それが説明の本領だし、人生の本領でもあるようだ。 そうしなければ終わらないし、進まない。 人間には顔があり、顔があるほうが前ということになっている。 顔に目があり、前後があるとするならば、やはり進まなければならないだろう。 そういった想像力と人間性を、かろうじて僕はもっているようだ。 「でさ、ナルキッソスは誰からも愛されるのだけど、当のナルキッソスは誰も愛さない」 「うん」 「中略」 「うん」 「で、とうとう、復讐の女神ネメシスの怒りをかってしまう」 「家に帰ったら、今日のノートを見返すこと!何度言ったらわかるんだ!」 「その復習じゃないよ」 「うん」 「『人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい!』ってさ」 「ニンフって人なの?」 「微妙だね、英語で読むといいかも」 「なるほど。だけどさ、それ、復讐ってわりには優しい命令だね」 「そう、そこはポイント」 僕の言葉を受けて、彼女は右手の人差し指を顎に当てる。 「で、続き、ここからが有名かな」 「そうだね」 「水を飲もうとしたナルキッソスは、水面に映った姿に強烈に惹きつけられる」 「自分の姿ね」 「そう、そして、女神の呪いのままに、自分自身を愛してしまった」 「うん」 「水面に映った姿に触れることはできない、かといって、そこを去ることもできない」 「うん」 「ナルキッソスは悩み、苦しみ、しだいに衰弱していってしまう」 「うん」 「ついには、そのまま水辺に倒れこみ、死んでしまう」 「そして、水仙の花になるわけか」 「そう」 これで、お話はおしまい。語られるフェイズに移るのだ。 そのまま彼女が神妙に黙ってしまったので、僕も少し黙った。 30秒ほど経っただろう。微動だにしなかった彼女が、顔を上げた。 「そうか」 「どうしたの?」 「いわれてみれば、これはけっこう複雑な話だね」 「そう、このお話は深いよ」 「真剣に考えるには設定が曖昧だけど、それで終わるには魅力があるね」 「でしょう」 「神話だからって理由だけでは、これは解消できないよね」 「神話にもよりけりあるからね」 「まいったな」 彼女はまるっきりまいってなさそうな口調でそう言った。 「自己認知の物語として捉えてる?」 「エゴとセルフの物語ということ?」 「うん、『自分』の客体化ということ」 「いや、惜しいけど違う」 そう言って、僕はクスクスと笑った。 「なに?」 「だって、君があまりわけのわからないこと言うから」 「失礼なやつだな」 「君が言うっていうのが可笑しいよね」 「あーもう、言わなければ良かった」 「うそうそ、僕に合わせてるんでしょう?」 「…………」 「優しいよね」 彼女は黙る。そういう可愛いところがあるのだ。 「続きを教えて、いまのは本命ではないでしょ」 「うん」 「憎いね」 「愛らしいでしょ」 信じがたい空中回転レシーブに、僕はいちおう「イエスだね」と応えた。 さながら、風船アタックのような切り返しの妙である。 彼女は一度頷き、切り替すように続けた。 「鏡像認知の物語だね」 「つまり?」 「自己認知とも絡むけど、見るという働き、顔、視点の移動と自身の他者性」 「そう理解したいなら、僕はこの物語にエコーも登場させたね」 「エコーって、いわゆる木霊のこと?」 「そう、他人の台詞の語尾を繰り返す、声だけの存在」 「ナルキッソスに関係あるの?」 「ある、中略の部分で登場するよ、主要人物のひとりだ」 「アンフェアだわ」 「いや、僕の理解には関係なかったってだけさ」 「エコーを登場させるとどうなるの?」 「多少深みがでるよ。それぞれが逆のルートを辿ったと考えられないこともない」 そして、また、彼女は黙り込んだ。 再び30秒後、彼女は両手をあげて、目を閉じた。 「私の負けだな、わからないや」 少しだけ微笑んで、そう言う。 目を開け、両手を下ろすと、彼女は静かに珈琲を飲んだ。 その珈琲は冷えているはずだ。なぜいまになって、その珈琲を飲むのか。 「どうして避けたの?」 僕は訊いた。 「なにを?」 「気付かなかったわけない。そういうフィルタを通した」 「なにを言っているのかわからないよ」 「怒らないで」 「怒ってないよ」 「じゃあ、どうして?」 「別に、言うことに意味があるとも思えなかっただけ」 「君らしからぬ発言だ」 「わからないもの」 「ナルキッソスの話、これは自己矛盾の物語だ」 もう一度、彼女が珈琲を口にする。 「誰からも愛されるけれど、誰をも愛さない、それがナルキッソス」 「その時点で矛盾してるよ」 「そう、自分を『自分』として捉えることができるなら」 「奥深い話なんだね」 彼女は自嘲気味にそう言った。 「だけどそれには、自分の外側に立たなければならない」 「周りの人やものを見るのと同じように、自分の視点を飛びだすということ?」 「そう」 「ナルキッソスはそれができなかったから、うぬぼれ屋なの?」 「僕の解釈ではそうなる」 「通常の解釈とまるっきり逆だ」 「そして、女神は言う」 「『人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい』」 彼女が記憶を復唱する。 「そう、それも、相手が人なら、それ自体で矛盾する呪いだ」 「うん」 「だから、この呪いは「ナルキッソス」ではなしに、ナルキッソスにかけられた」 「『誰からも愛されるけれど、誰をも愛さない』という設定を修正した?」 「そう、『誰からも愛されるけど、自分以外は愛さない』にね」 僕たちが言葉を区切ると、必然的に沈黙が目を覚ました。 窓から流れこんだ陽光が、部屋の中心で渦巻きだしていた。 「矛盾に矛盾しないうぬぼれ屋のナルキッソスは、そこで死んだ」 「自分という存在も、共時的に可能な自分のひとりだった?」 「いや、それは十分じゃない」 「他人であることすら可能?」 「可能というよりも、まるっきりその通りじゃないかな」 彼女は肩を竦めて、首を振った。 「ナルキッソスは水辺で死んだ、内部に渦巻いた矛盾に耐えられなかったからだ」 「ナルキッソスは、水面に映った姿を愛していた?」 「そうだし、そうじゃないとも言える」 彼女の動作は静かに、声も静かになった。 訊いていることは、訊かないでもわかることばかり。 賢明だから、恐れているのだ。僕と、釣り合いがとれるように。 「まずは愛していた。けれど、そう思った途端に愛することはできなかった」 「かわいそう」 「ナルキッソスは水面に『ナルキッソス』を認めた」 「そして、『それ』を愛した」 「けれど、次の瞬間には、それが『自分』かどうか、大いに悩んだ」 「だから、愛することができないの?」 「そうだよ、その疑いを持つ以前の彼と、以後の彼は大いに異なる」 「その次の瞬間には?」 「水面に映った『ナルキッソス』を愛していた」 「そして次の瞬間にはまた疑っている」 「そう、復讐の女神の呪いは他愛もないけれど、彼にとってはもっとも残酷な方法だ」 沈黙。 「終わり?」 「終わりさ」 「私の負けだ」 そう言って、彼女はふっと短い溜め息を吐いた。 「どうして言わなかったの?」 「でも、結局喋ったよ」 「それは別の問題だ」 「勝つことに意味があった?」 「いや」 僕は曖昧に否定した。 「だけど、だとしたら、負けることに意味があった?」 「あったよ」 「まさか」 僕が驚いた口調で言うと、彼女は平然と応えた。 「一度さ、「私の負けだ」って言ってみたかったんだよね」 僕は、さすがに笑いを堪えきれずに、声をだして笑った。 泣きそうになりながら彼女を見ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。 そのとき、とん、とん、とん、とん、と正面にある、部屋のドアから音がした。 「運命が扉を叩いているわ」 「叩いているのは赤音だよ」 「どうしてわかるの?」 「ドアの外側には赤音しかいない」 「内側には?」 「誰もいない」 僕が微笑みながらそう言うと、彼女は僕を睨みつけた。 いつの間にか、部屋の中はずいぶんと明るい。 深い溜め息。 僕らは見つめあう。 彼女の視線は優しかった。 「最後にみっつだけ訊いてもいい?」 「どうぞ」 「結局、赤音ってなに?」 「僕らの子供さ」 「あなたは赤音を愛している?」 「それを否定できる僕はいない」 「赤音は運命ではなかった?」 「それはもう忘れてしまったし、たぶんもう、知ることもできない」 「ありがとう」 「どういたしまして」 そして、その扉は静かに開かれた。 |