青白いワンピースがドアの隙間から見えた。
 裸足の右足がすっと伸びると、茶色のカーディガンがふらっと揺れて現れた。
 その途端、部屋に渦巻いていた陽光は、吸い込まれるようにドアの外側に流れでた。

「ごきげんよう」

 赤音は部屋に入り、ドアを閉めると、そう言った。
 僕と彼女は3秒ほど黙り、考えをまとめると声を合わせて赤音に言った。

「おはよう」

 赤音は少しだけ首を傾げ、少し経って、口元に笑みを浮かばせた。
 僕と彼女も、それを見て微笑んだ。

「どうしてここだってわかった?」

 彼女が尋ねる。

「私だったら、ここに連れて来るなって思っただけ」
「いきなりここに来たの?」
「うん」
「私の部屋によったりは?」
「してない」
「なぜ?」
「どこにあるのか知らないもの」
「それ、本当?」
「うん」
「うわあ、泣きそう」
「でも、知ってても行かなかったよ」
「なんで?」
「だって、彼の部屋に来たのだって、お返しってことでしょう?」

 それを聞いて、彼女はチェッと舌打ちした。
 なにかを喋ろうとして思いとどまり、そのままぶすっとして黙ってしまった。
 女性同士の確執というのかどうだか、どうやら、いろいろと思うところがあるようだ。

「それは、まるっきり健全で、正しい判断だったね」

 僕は笑いながら言う。

「僕も彼女も、自分のやりたいことしかやらないしね」
「知ってる」
「その点、赤音さんはお見通しってことだ」
「ああ、もう、こんなに屈辱的な朝は久しぶり」

 彼女が独り言のように呟いた。

「どうして?」

 赤音が尋ねる。
 彼女は頬を膨らませてそっぽを向き、そのままカウンタに突っ伏した。

「いや、たぶん、こっちの話だよ」

 赤音の質問に僕が応える。

「どっち?」
「そっちー」

 そう言いながら、彼女は両手でそれぞれ違う方向を指差した。
 そっちが同時にニ方向あるという状況は、かなり混沌としている。

「あっち?」

 赤音が颯爽と、彼女が右手で指差した方向を指して言う。
 それはきわめて難しい問題だったが、僕は安易に回答を引きだすことにした。

「いや、たぶんね、あっちもこっちもそっちなのさ」
「あっちはあっちで、こっちはこっちなのでは?」
「あっちはそっちで、こっちもそっちなのさ」
「で、そっちはどっちなの?」
「こっちかあっちがどっちか、あるいは、こっちもあっちもどっちだね」
「どっちかそっちなの?」
「うん、でも、どっちもそっちかも」
「混沌としてるね」
「僕もそう思う」

 僕と赤音が真面目に検討しているあいだ、彼女はうーうー唸っていた。

「なんていうのかな、彼女、今日負けっぱなしみたいだよ」
「珍しい」
「うん、なんかね、負けたかったみたい」
「贅沢だね」
「なかなかね」
「それで、負けられたの?」

 僕は苦笑して言った。

「いやあ、どうも、最後の最後で予期せぬ敗北を喫したみたい」
「ああ、言わないで」

 彼女が頭を上げて言う。

「赤音にはかなわないんだから」
「あ、その気持ちわかるなあ」

 僕は彼女に同意する。

「どうだか」

 彼女はそう言うと、不意に身体を起こしてゆらゆらと揺れた。
 その行動は僕の理解を超えていた。

「楽しそうだね」
「首が気持ち良い」
「酔わない?」
「バランス感覚が大事なんだ」

 僕たちがそういったことを話しているのを赤音は静かに眺めていた。

「どうしたの、赤音?」

 彼女が揺れるのをやめて言う。

「あのね、」

 といいかけて、赤音はそのまま、黙ってしまった。
 僕と彼女は赤音の沈黙を、沈黙のまま待った。
 そして、赤音は静かに言った。

「お父さんと、お母さんは、私がいいっていうまで、死なないでね」

 その毅然とした表情には、真摯さと誠実さが不安げに備わっていた。
 僕と彼女はお互いを見合わせた。
 僕は赤音に問う。

「それは……初めてのわがままが、究極のわがままだね」

 赤音は微動だにせず、視線だけがわずかに下を向いた。

「私はそういうの好きだけど」

 彼女がしれっとして言う。
 僕が彼女を見ると「なに?」とでも言いたげに小首を傾げた。
 僕は溜め息を吐き、絶対に負けていたい存在があることに笑った。

「わかった」

 僕は赤音に宣言した。

「私はもっとわかった」

 彼女がそれに被せて宣言した。そして続ける。

「その代わり、赤音、」
「なに?」
「私たちが死ぬときは、傍にいて、もういいよって、許してあげてね」

 赤音はじっと、僕と彼女を見つめ、そして、頷いた。
 その表情は、無垢と混沌と赤音が重なったような、無表情だった。
 みっつの光を重ねると白になり、みっつの色を重ねると黒になるように。

「わかった」

 赤音は言った。

「それにしても、驚いたな」
「そうだね」

 僕が息を吐いて言うと、彼女も二度頷いて同意した。

「どうして、言おうと思ったの?」

 彼女が尋ねると、赤音はたどたどしい調子で、台詞を口にした。

「たぶん、寝惚けてるんだと思う」
「あ、じゃあ、はい、これ!」

 その言葉を待っていたかのように、彼女は嬉々として背筋を伸ばす。

「なに?」

 おいでおいでと手招きされて、赤音は彼女にとんとんと近寄った。

「ほら、私が淹れた、珈琲だよ」

 彼女が赤音にカップを差しだしながら言った。

「またの名を、愛っていうらしいよ」

 僕が大事な説明をする。
 赤音はさらに近寄り、それを覗いて呟いた。

「黒いね」

 僕と彼女が声をだして笑うなか、赤音は僕らを不思議そうに眺めていた。