珈琲のいい香りが部屋の中を漂っていました。窓にかかるブラインドが陽光を僕から隠し切れずにいささか申し訳なさそうにしているなか、僕は上半身を強引に起こしました。横を見ると赤音が丸まって眠っています。まだ、熟睡しているようです。

「気にしないでもいいよ」

 僕はブラインドに話しかけました。

「朝の日差しが嫌いなら、はなから窓など作らない」

 僕は頷きました。自分の台詞に満足したのです。

「君はそういう風に設計されているんだからね」

 完璧に陽光を遮断してしまっては、窓に申し訳ありません。

「むしろ、僕は、君のそういうところに好感が持てるけど、どう?」
「ねえ、それ、わざと?」

 突然現れた何者かに、僕は声をかけられました。

「さっきから、声かけてたんだけど」
「いや、全然気づかなかった」
「ブラインドと話してたから?」
「たぶんね」

 僕はそんなことはないと思ったけれど、面倒臭いから頷きました。

「無機物に負けたか……」
「寝起きから科学者にあるまじき発言をありがとう」

 僕は声をかけてきた彼女をじっと見つめました。

「なに?」
「昨日も会ったね」
「ええ」
「やっぱり」

 僕は昨日、彼女の部屋に遊びに行ったのです。彼女は僕の同居人でしばしばご飯をともにしたり、少しだけ赤音の世話を一緒にしたり、稀にチェスや囲碁で遊んだりします。オセロや将棋もたまにします。ただ、そういったアルゴリズムを要するゲームは圧倒的に彼女の方が強いため、やってもあまり面白いものではありません。

 基本的にゲームというのは勝敗がわからないから面白いのであって、ゲームに関しては「まず勝って、後に戦う」ようでは、負ける側としてはいたたまれません。ただ、ビリヤードだけは僕の方が勝率がいいのです。どうやら、あれだけは僕と相対的に万能な彼女のプログラムにも誤作動が起きやすいようです。身体機能も重要だからでしょう。

「そう、僕のほうが玉突きはうまいぞ」
「なによ、朝からいやらしい」
「いや、だから、ハードも重要だという話さ」

 彼女はやれやれといった調子で小刻みに何度か頷きました。

「君ね、さすがに今日は寝惚けすぎだよ。はい」

 彼女は両手に持った珈琲カップの片方を僕に差し出しました。たぶん、目覚めの一杯というやつでしょう。「これを頭からかぶれ」とか、「これを豆に戻して」とか、そういう命令や挑戦の類ではないはずです。しっかりと中身も入っています。珈琲のようです。

「これはなに?」
「なにに見える?」

 彼女はにやりとしました。まるっきり憎たらしい猫のようです。

「珈琲に見える」
「ええ、そうでしょう、私にもそれは珈琲に見える」

 われわれは満足して頷きました。

「それで、これは珈琲なの?」
「どっちかっていうと、愛だね」
「愛ですか」
「うん、珈琲は仮の姿でね、ピンチになると現れるわけ」
「愛が?」
「そう」

 しゅわっちと言って、彼女はずずっと珈琲をすすりました。

「ところで、いまってピンチかな?」
「比較的ね」
「そうなの?」
「そうだよ」

 彼女は僕の横に眠る赤音を覗き込み、胸のポケットから小さい携帯用の細長いライトを取り出し、電源を入れると、ささっと赤音のまぶたの上に光を往復させました。眼球の反応を見ているのです。寝たふりをしていれば、大体、これでばれます。どうやら、赤音は本当に寝ているようでした。しかし、それにしてもえげつないことをする人です。

「そういうことをする人が、僕にこの珈琲を持ってきたわけだ」
「その通り」

 彼女は部屋を見回しながら言いました。

「黒い愛だね」
「きれいでしょ」
「それに苦い」
「甘いところがないから」
「なるほど」

 こんなに感心する朝は初めてです。

「澄み切ってるね」
「そうだよ」

 僕が彼女を見つめて言うと、彼女は僕にキスをしました。なんて自然に、なんて当たり前にキスされたことか。僕はかすかな喜びを感じるとともに、非常に不安定な気持ちに陥りました。このままでは崩されてしまう。崩されてはいけないものまで崩されてしまう。僕は穏やかな陶酔の中で、冷静に最後の扉を保守していました。そういう種類の人間も、世の中にはいるということです。僕が彼女の髪を撫でると、彼女は静かに僕の口から舌を抜きました。

「大事なことを忘れてた」
「なに?」

 彼女は首を20度ほど傾げました。初めて見る仕草です。

「この珈琲は温かい」
「淹れたばかりだから」
「それだけ?」

 僕は彼女とは逆向きに20度、首を傾げて訊きました。
 彼女は口を尖らせて笑うと、表情を戻しながら下を向いてしまいました。

「あるいは……生きているから、じゃないかな?」
「珈琲が?」
「愛が」

 そう言って僕を見つめた彼女の微笑みは、少しだけ寂しそうに見えました。

「その珈琲、美味しいでしょ」

 僕は頷きました。嘘ではありませんでした。
 どうして、珈琲は美味しいのでしょうか。