彼女はその日の朝、初めて、目覚めの珈琲を淹れようと考えた。ただ、彼女は珈琲よりも紅茶を愛していた。また、彼女は自分の理性を信じていたし、それだけに自分の欲求にも従順な人間だった。毎朝、寝起きには紅茶を飲むのが彼女の日課だった。

 だから、朝起きて、彼女がまずやらなければならないことに「珈琲を淹れる」ということを選択したのには、必然的な理由があった。つまり、その日の朝はたまたま珈琲が飲みたかった、といったような偶然的な理由ではないということだ。

 その理由、その判断は、珍しいことに彼女にとって漠然とした思考であり、彼女自身にとってもやや割りきれなさの残るものであった。たとえば、無理数のように。無理数に至る道の途中には無限個の有理数が無造作に転がっている。

 彼女はやろうと思いさえすれば、そのひとつひとつを明確に認識できるのだったが、やはりそれでも、無理数の全体に到達することはできないのだった。n角形のnに無限をとっても、決して円にはならぬように。つまり、そういった種類の微細な割りきれなさが彼女の心に無数に残ったということだ。それは彼女の気持ちにぼんやりとした霧をかけた。

「安っぽい紅茶が飲みたい……」

 ただ、彼女は決めていた。それはもう六時間も前に決定されたことなのだ。私は今日、起きると同時に珈琲を淹れ、それを持って彼の部屋に行き、そして、それを飲ませる。これが彼女のプログラムである。自分でも涙が出てきそうなほど可愛い内容である。よほど可愛い人間でもなければ、よもや、こんなことはできまい。彼女の口元に怪しい笑みが浮かんだ。

「ふふふ、よし」

 彼女はハンモックから降りると、椅子の背もたれにかかる白衣をばさっと着た。起床から五秒でスイッチ・オン。彼女は両手を握って全身に力を込めた。サイヤ人じゃないけど、いつだってスーパーサイヤ人になれる。そんな気がする。周囲の床がところどころ砕け散り、浮かび上がっていないか気になるほどである。

「はっはっは、んなこたない」

 ふと、彼女は横を向いた。部屋の奥に置かれたどでかい真鍮管の表面になにかとても悪いことを企んでいるとしか思えない人間が映った。彼女は最初、それが自分であることを疑ったが、いろいろな可能性を吟味した上で、彼女はそれが自分であることを認めた。じっと向こう側から覗き込まれているようだった。どうやら、鏡ニューロンが反応しているらしい。

「あー、なんだろう、駄目だな」

 彼女はしぶしぶ白衣を脱ぎ、はあ、と溜め息を吐いた。工具箱の中から鏡を取り出し、自分の顔を確かめる。なんにも可哀相なことなどないのに、なんだか、そこに映っている人間は可哀相な顔をしていた。ちょっと泣きそうかも。こういう思考って得意じゃない。人間的、あまりにも人間的で。彼にあってから、どんどんその傾向が増している気がする。

 彼女はどでかい真鍮管の前にたたずむスターリング・エンジンを眺めた。一週間ほど前に赤音と一緒に作り始めたものだ。スターリング・エンジンは蒸気機関や内燃機関とは違う外燃機関だ。動作が静かで排ガスを出さないクリーンな装置だが、人間の歴史がなにかにつけてそうであったように、出力が弱いために軽視されてきた。

 ただ、安全性の高さから、小中学校の教材としては比較的、頻繁に使われてきたみたいだ。最近ではクリーンなエンジンとしてちょっと注目を集めている。まあ、そんなわけで赤音の科学の学習ということで一緒に作り始めたのだ。それは、それなりに楽しい作業だった。

 どうせ作るのだからでかいのを作ろうということで意見の一致した私たちは、様々な工具を持ち込み、この地下室と一階の台所を上下する小さめの昇降機を動かせるだけのエンジンを作ることにしたのだった。幾ら安全とは言え、ここまで大きいと流石に危険だ。単にスケールを拡大しただけだから、なおさら危ない。稼動時には結構な熱を持つことになる。

「スターリングエンジンってなに?」

 エンジン製作、前日のことだ。私がまとめたリストの中から、赤音が製作するものを選んでいるとき、紙の上に指を落として赤音がそう、妙に根本的な質問を素直に私にしたのだ。他のエンジンには質問しなかったので、たぶん、原理を知っているんだろう。そんな博識な赤音が私に素直に訊いたのだ。だから、私は答えたね。

「蒸気機関は人が煙草吸って煙を吐いてる状態でしょ、内燃機関は人が食物喰っておならをしている状態でしょ、でね、外燃機関というのは人が空気を吸って吐いて、その吐いた空気をもっかい吸ってる状態ね」

 我ながら素晴らしい説明だと感心したのだったけれど、

「嘘っていうか、わかり辛い比喩だね」

 あはは、あまりのショックに思わず後ろ振り向いちゃった。誰もいなかったよ。

「えーと、まあ、だからさ、人間の呼吸に似てるってこと」
「どういう意味?」
「人間の呼吸ってさ、案外単純な機構なのよ」
「肺を膨らませてガス交換するということ?」
「うん、それはそうだけど、どうやって肺を膨らませていると思う?」

 赤音はピタッと固まり、両の瞳を左上に、そこからクルッと右上に回した。

「知らない」
「あれはね、ただ横隔膜を引き下げているだけなんだ」
「気圧を下げて空気を取り入れてるの?」
「そう、それだけ」
「ふーん」

 お、お、ちょっと感心してる。

「だからさ、たとえ小さい穴でも、肺に穴が開いちゃうと致命的なわけ」
「うん、そうなるね」
「当然、横隔膜は自律神経が動かしているわけだけど、それに似てる」
「スターリングエンジン?」
「そ」

 私は正直、自信がなかったけど、勢いで押し切った。見栄っ張りなのだ。

「どうする?」
「それにする」
「私としてはさ、こっちをお勧めしたいんだけど」
「MSN-バンケル形ロータリ・ピストン機関?」

 赤音は半分棒読みで、私が差し出した紙の文字を読んだ。
 私は赤音が興味を示したことに感動しながら、「うん」と頷いた。
 嬉しさのあまり、ちょっと笑っていたかもしれない。

「内燃機関だね」
「そう、これが可愛いんだ、画期的な機関なんだから」

 私はがさがさとデスクの上から設計図を取り出して、赤音に見せた。

「ここにある工具じゃ作れないよ」
「大丈夫、入れるから」

 私は即答して、動作原理を載せたプリントを取り出した。6個の図が並んでいる。

「わかる?」

 赤音が覗き込み、設計図と比較すると、うんと頷いた。

「吸気、圧縮、膨張、排気の4サイクルを、ロータの1回転でするんだよ」
「うん、速そうだね」
「この真空の作り方が憎いよね」
「真空度はどの程度?」

 予期せぬ質問に私は一瞬たじろいだ。

「えーと、たしか、10万分の1気圧程度じゃなかったかな」
「まあ、そんなもんだよね」
「あとね、この小ささ、それと静かさがいいの、比較的冷たいしね」
「それとこの、ロータと出力軸に頼りきった構造が好きなんでしょう?」

 私は驚いた。

「そう、まさにそう、赤音すごいね、感心」
「だって、まるっきり、あなたみたいなんだもん」

 赤音は肩を竦めて、そう言った。

「…………」

 あはは。

「今回は外燃機関にしよう? だめ?」
「い、いいよ……もう、ばっちり」

 あのときは驚いたなあ…………あ、そうだ、珈琲淹れなきゃ!