赤音を寝かせたまま、僕と彼女は部屋を出ることにした。僕は寝台から降り、スリッパを探す。相変わらず板張りの床は冷たかったが、寝起きの僕の足の裏には心地良かった。床にしてみれば、僕の足の裏は温かいだろう。まあ、床がなにかを感じるならの話だけれど。 人間は万物の尺度である、という言葉を思い出す。古代ギリシアの感心できるソフィスト、プロタゴラスの言葉だ。彼は人間の立場から、個人の感覚においてあらゆる物事の価値は相対的だと説いた。それは個人が「個人単独」として存在しうる限りで、あるいはそのように人々に考えられている限りにおいて、正しかっただろう。 ただ、そう考える限り、それはやはり「個人の正しさ」でしかなかっただろう。それはそれで満足できるものだろうし、それで幸福でありさえすれば問題はない。どこまでいっても、基本的には「個人」なのだから。もちろん、ある場合には「傲慢」や「卑屈」になる可能性はあるだろう。けれど、度を越さない限り、それは謙虚であり、温和であるに違いない。 僕はスリッパを履いた。 足の裏の冷たさが軽減される。スリッパの方が床よりも熱容量が小さいからだろう。熱が逃げていきづらいのだ。しかし、では、冷たさとは熱が奪われることなのだろうか。どうだろう。「冷たい」と感じる僕の内的な感覚の質、それと、物理的な熱量の拡散には、やはり隔たりがあるような気がする。 とりあえず、床が冷たいから冷たいと感じるのか、冷たいと感じるから床が冷たいのか、といった問題はここでは成立しないだろう。いや、たとえ成立したとしても、僕の問題にはならないに違いない。古めかしい問題で微笑ましいとすら思える。そういえば、哀しいから泣いているのか、泣いているから哀しいのか、ということを問題にした人がいた。 『心理学原理』の著者、ウィリアム・ジェイムズだ。彼は小説のような哲学書を書いたと言われる。そして、『ある貴婦人の肖像』の著者、ヘンリー・ジェイムズは、哲学書のような小説を書いたと言われる。彼らは兄弟だ。 「ねえ、なに考えてるの?」 彼女がドアの前で振り返って、僕に訊いた。 「いや、別に」 僕は言った。本当に、別になにも考えていなかった。 「君こそどうしたの? 僕、そんなにぼーっとしてたかな」 「いや……スリッパ、見てたから」 彼女は少しどもった。理由はわからない。 「名前でも考えてた?」 「名前? なにの?」 「スリッパの」 こともなげに彼女はそう言った。 「君、スリッパに名前付けてるの?」 「付けてるよ、教えないけどね」 「ふーん」 世の中には不思議な人がいるものだ。 「じゃあ、右足をヘンリー、左足をウィリアムにしようかな」 僕はスリッパに名前を付けることにした。 昨日の夜、僕の太ももにぶつかってきたのはウィリアムである。困ったやつだ。 「両方揃ったら?」 「はい?」 「いや、スリッパってふたつでワンセットじゃない」 「それにも名前が必要かな?」 「当然」 彼女の頷きは力強かった。 「じゃあ、やっぱり、ジェームズになるんだろうな」 「それは継承されるの?」 「はい?」 「いやだから、ふたつでジェームズになるの? それとも、それぞれジェームズなの?」 「それって重要な問題かな?」 「当然」 彼女に迷いはなかった。 「それは、やっぱり、継承されるんだろうね」 「素直な発想ね」 「それとも、フレールとかにしたほうが良かったかな?」 僕は歩きだして、言った。 「どういう意味?」 「フランス語で兄弟」 ふふっと彼女は笑った。 「スリッパのフレールか」 「そう、そして同時にスリッパがフレールなわけ」 「洒落てるね」 「ときおり、自分でも驚いちゃうよ」 その時、ふと、僕はあることに気づいた。 「君、スリッパどうしたの?」 「ん?」 彼女はドアに向き直りながら、横目で僕を見た。 「履いてこれば良かったのに、冷たいでしょ?」 「別に」 そう言うと彼女はドアを開けて、さっさと部屋の外に足を踏み出した。 僕はやれやれと呟き、一度、赤音を振り返ると、彼女の後を追った。 こうして、部屋の中には赤音と珈琲の香りだけが残されたのだった。 |