廊下を歩いている彼女の後ろ姿を見ていた。そう、僕も一緒に歩いているのだけど、彼女が前を歩いているわけ。だから、僕は彼女の後ろ姿を見ている。いま、僕に見えるもので、それ以上に価値のあるものはないから。 「僕はいま、価値について思考してる」 僕は彼女の背中に声をかけた。 「そう、なにか、新しい発見はあった?」 彼女は振り向かずに応じる。まるで、背中が喋ったみたいだ。しかし、背中は、語ることはあっても、喋ることはないことになっている。これを高倉健の法則という。容易には無視しがたい法則である。また、桃井かおりの法則というのもあるのだが、それはまたの機会にとっておこう。良い冗談は何度も言ってはいけない。アインシュタイン博士の教えだ。 「なにも」 「私が死んだら哀しい?」 「哀しいよ」 「私が生きてたら嬉しい?」 「いや、それはわからない」 「君らしいね」 「うん」 「君さ、両親が死んだとき、泣いた?」 「泣けなかった。君は?」 「同じ」 「泣きたかった?」 「それほど積極的には考えてなかった、けど、泣けるかなって思った」 その気持ちはわかるような気がした。 たぶん、データを修正しながら、何度もシミュレートしたに違いない。 彼女は、夢の中では泣けただろうか。そして、僕の死を泣いているだろうか。 「もう、歳かな」 「まだ若いよ」 「肉体年齢のことだね?」 「それ以外に年齢に意味ってあったっけ?」 彼女には見えないだろうけど、僕は笑った。 声は出さず、顔の筋肉だけを変形させる。 「ないか」 僕は笑いながら、言う。 その笑顔は僕にも見えない。 なぜ笑ったのか疑問なほど意味がない。 「精神は、歳なんて取らないよ」 「そう考えるとさ、タイムトラヴェルだなって思わない?」 「どっち?」 「タイム・トラヴェル、だよ」 僕は適度に語を区切り、発音に気をつけて言った。楽しいやり取りではある。 「なるほど。で、どういうこと?」 「冷蔵庫みたいなものでさ、中身がなかなか腐らないわけ」 「でも、外身は衰えると」 「そういうこと」 「不用意な発言だね」 「でも、わかりやすい」 「単純」 「素直なんだよ」 僕は即座に応答する。 「君の冷蔵庫は非常に整理されている、と評価できる」 「欠点は?」 「冷凍庫、チルド室、野菜室、などの余分な機能が付いていないこと」 「素早い分析だね」 まーね、と言って彼女はすたすた歩き続ける。 「短所が同時に長所でもあるというのは堅牢だと思う」 「ありがとう、そう言われるとほっとするよ」 「優しいのね」 「君の自己評価も聞きたいな」 「それは無理、説明できない」 「説明が嫌い?」 「嫌いじゃないよ、暇潰しにはなる」 「でも、理解を求めてはいない?」 「当然」 「賢明だね」 「本当にそう思う?」 「思うさ。じゃなかったら、たぶん、君は僕と一緒にはいられない」 彼女は黙った。だから、僕も黙った。次は彼女の番だったからだ。こういうことには順番があるのだ。五秒ほど待ったが、彼女はなにも言わなかった。だから、僕もそれ以上は追及しなかった。僕は彼女の評価を頭の中で展開した。彼女は確実に僕よりも複雑な仕様の冷蔵庫だ。つまり、余分な機能は多い。けれど、たぶん、中身は僕のほうが余分なものが多いだろう。面白い結果である。 理解しあう、ということに関しては、僕は幸か不幸か、いや、どちらでもないのだけれど、彼女以上には、彼女の思考が賢明であることを知っている。つまり、それだけ、賢明じゃないものに触れたということだ。そして、あらゆる賢明さと、あらゆる賢明じゃなさを捨てたのだ。つまり、自由。だから、不安定。迷惑な話だ。 「人間も、冷蔵庫みたいなものかな?」 「僕は、そうだと思ってる」 「そういえば、前世紀の冷蔵庫は環境にも負担をかけてたね」 「うん、だけど、どんどん改善されてる」 「容量、性能、機能、エネルギ効率」 「まあ、見た目はそれほど変わってないけど」 「いつか、中身のまるっきり腐らない冷蔵庫ができる?」 「できるだろうね。外身だって壊れないさ」 「時間を越えてるね」 「タイム・トラヴェルだ」 「人間も、それと同じだと?」 「うん、だから、長持ちする人間って、冷たいじゃない」 僕は肩を竦めた。僕は、笑ってる。たぶん、彼女も、笑ってると思う。僕が彼女の後姿を眺めると、そうだね、とでも言うかのように彼女は首を何度か縦に動かした。後ろからでも彼女が頷いたことがわかる。なんらかの意思表示、つまり、言葉の代わりだろう。 君、冷たいもんね、と言いたいんだと思う。 僕達はいま、三階の東端に位置する僕の部屋をでて、板張りの廊下を20メートルほど直進し、右手のらせん状の階段を約1440度回転しながら降り、一階の西端に位置するキッチンに到着するところだった。彼女とこのコースを一緒に歩いたのは初めてだ。 そうした稀有な体験をしつつも、僕と彼女の位置関係はいつもと変わらない。彼女が前を歩き、僕が後ろを歩き、進む。彼女に主導権がある代わりに、僕のほうが有利な立場にある。彼女は僕を信じ、僕は彼女に委ねる。つまり、そういうことだ。 僕はもう一度、彼女の足元を見た。 裸足で、歩き方が可愛い。まるでグラディーヴァ。 足音がまるっきりしない。僕は、そこに、なにを読まなければならないか。 わからない。 いや、わかる、わかっている。 けど、信じがたい、信じられない。 それは、つまり、彼女は、もしかしたら、幽霊かもしれない、といったことである。 |