赤音は目を覚ますと、溜め息を吐いた。いや、もしかすると、目を覚ますよりも先に何度か溜め息を吐いていたかもしれない。もう、落胆だけで自分が構成されていたといっても過言ではない。部屋の中には珈琲の香りが漂っている。それはつまり、誰かが珈琲を持って、この部屋に来たということだ。この部屋にそういう装置はない。

 そして、彼はもう、この部屋にはいなかった。

 彼を連れて行ったのは、当然、彼女だろう。赤音は彼と彼女の行動を分析する。疑問は幾つもあった。なぜ、彼女は今朝に限って、この部屋に来たのか。なぜ、珈琲を持ってきたのか。なぜ、二人は私を置いて、この部屋を出て行ったのか。それに、彼女はスリッパを履いていたのか、どうか。

 たぶん、履いていない。彼女の思考は比較的読めた。彼女も、こちらの動きを把握していたに違いない。だから、珈琲なのだろう。ただ、そういった状況で、彼がなにを思ったのかということをトレースすることが、まるっきりできなかった。それこそが重要なのに。予測がはずれた。鳥が空を飛ぶように、合理的な説明はできそうにない。

 なにか、重要なファクタが欠けている。

 それは、まるで、なにかが誕生する瞬間のような、まるで、なにかが完成する瞬間のような、取り立てて決定的な原因や理由はないのに、それを認識した瞬間には既に立ち現れていて、何事もなかったかのように、何食わぬ顔で私たちを惑わす悪魔のようだ。いま、私はそれを把握できないし、把握したときには、もう、消えてしまっている。

 悪魔、そう、悪魔だ。

 だとしたら、私はそれに立ち向かう戦士のようなものだろう。どこまでも戦おう。そして、打ち勝とう。その後のことは、そのときになってから考えれば良い。それでいい。赤音は「その後」があることをきわめて慎重に認識してはいたけれど、まだ、それとは距離を測って対峙していた。そもそも、私は生まれているのか、まだ、生まれていないのか。

 とても些細な問題だが、決して無視できない問題だった。

 思考に霧がかかる。彼らは非合理的な行動をとる人間たちではない。赤音は知っていた。それなのに、ときどき、彼らはとても不思議なことを言う。それは興味深かったり、面白かったりすることだったのだけれど、赤音にとっては、まるで童話の中の出来事のような、小説で語られる事態のような、どこかで自分の存在とはかけ離れた、つまり、物語だった。

 合理的とは、どういうことだろうか。

 そんな、ぼんやりとした思考とは裏腹に、なぜか、赤音の気持ちは晴れていた。妙に気持ちが良い。ふと、さっきの溜め息は何だったのだろう、と思う。自分の状態を分析する。思考と行動がかみ合っていない。行動と感情、言語と思考。逆転。不合理だ。自分はなにを望んでいるだろう。不定だ。なにかを望むということが、どういうことかもわからない。

 ネットワークを瞬間的に走る。ランダム。パターン。思考。身体が動かない。遅すぎる。タイムラグが躊躇を生み、迷いを生じ、人間を生かせている。そのシステム。感情。いつ死んだって、同じなのに。消えてしまえば、死んでしまえば、その後のことなんて関係ないから。

 それなのに、どうして、そこに隙間があるのか。どうして、人間の記憶は失われるのか。どうして、人間は記憶を始めるのか。もう、生まれているのか、生まれていないのかさえ、わからない。赤音は窓を見る。ブラインドが光を遮り、明るさを殺いでいた。それでも、十分すぎるほど室内は明るかった。

 もし、生まれているのなら、好きな人に殺してもらいたい、と思う。

 それって、愛じゃないのかな。赤音は考える。そうか、これが、望んでいる、ということかもしれない。漠然とした思考だ。明確に考えることの可能な、ぎりぎりのライン。自分の意思だけでは足りない、かたち。それが叶えられたときにはもう見えない、繋がり。

 初期値に加わるもの。シミュレーション。可能性。つまり、遊び。思考ののりしろ。それを認めること、許すこと。切り取り線が点線のようなもの。どちらを切り取るのか。どんどん、小さいところに、細いところに、無駄なものに。だから、大切になる。それが、生きている、ということか。そうか、そういう変数が、必要なわけか。人間って、可愛い。

 赤音は寝台から降りる。足裏に床の冷たさが伝わる。

「おはよう」

 赤音は誰にともなしに言う。
 赤音は毎朝、生まれる。