僕と彼女は一階西端に位置するキッチンにいる。ただ、この部屋は半地下構造のため、箱自体は半分地中にあることになる。まあ、それでも一階であることには変わりない。南側の壁面上部の全面に据え付けられた50センチメートルほどの擦り硝子の窓からは、柔らかい光がレーザのように斜めに差し込み、部屋の全体はぼんやりと明るい。

 呼吸も視線も動作も心臓の音でさえ、僕に明確に意識される。

 もっとも洗練された形の教会のようなものだろう。僕は少し緊張する。自分に自信がない証拠だ。右手の親指で左手の手首を押さえる。案の定、脈拍が少し速い。息を吸う。胸が膨らむ。心臓が僕を叩いて、叩いて、静かに、叩いて、僕は、静かに、部屋を受け入れる、窓を眺める、陽光が空間を流れる、きれいだなと思う。目を瞑る。リセット。

 目を開ければ、僕はもう、なにも思い出せない。

 僕は部屋を渡る。部屋の奥、四分の一にシステム・キッチンがあり、その手前にあるカウンタが部屋を二対三に区切っている。そのさらに手前にはモスグリーンのソファが、暖色系の色の付いたガラスのテーブルとともに壁際に置かれている。他には何もない。壁にもなにも掛けられていない。時計も絵画も鏡も電話も灰皿もない。

 そう感じたことはないけれど、殺風景といえる。

 彼女はワインレッドのセータを少し持ち上げ、カウンタの椅子に座る。そして、僕を見て、微笑む。僕は首を傾げ、口の端を上げる。笑ったはずだ。壁際のソファに腰掛ける。彼女との距離は2メートルほど、僕らの重心を通る円を描けば中心角は15度ほどになるだろう。

 彼女はサイズの合わないワインレッドのセータを羽織り、白地に淡い紅色の小さな花柄の付いたパジャマを着ている。パジャマっぽいパジャマ。いつだったか、僕がプレゼントしたものだ。これを渡したとき、彼女は「似合わないと思うよ」と僕に言ってから、「まあ、私は着れればなんでも良いんだけどさ」と付け足し、僕にキスをした。

 僕は一度だけ頷き、彼女の部屋のドアを閉めると、キッチンに来て、珈琲を淹れた。思い出す。自分の足音、ドアが無愛想に閉まる、蛇口が溜め息とともに水を吐き出す、不器用だが親切な薬缶、明るい水、目を覚ました炎、融通は利かないけど頼りになるドリッパー、穏やかで誇らないペーパフィルタ、そして、静かに出番を待つ砕かれた珈琲豆たち。

 薬缶が、沸騰したぞと自らの仕事を主張する。

 眠りに落ちる炎、いきり立つ薬缶、待ち受ける珈琲豆たち、黙して語らないサーバ。静かになる。手のひらに熱が伝わる。温かい。この温かさはいったい、どこにあるのか。熱い水を少量注ぎ、珈琲豆を蒸らす。立ち上る湯気が無表情に消え去る。注ぎ足す。泡が表面を覆い、ふわっと膨らむ。サーバに珈琲が抽出されるのを眺めながら僕は考えていた。

 なぜ、彼女は僕に「似合わない」ことを宣言したのだろう。
 そして、なぜ、僕はそのことに疑問を感じるのだろう。

「わからないな」
「なにが?」

 ふと、僕は目の前の状況に引き戻される。

「いや、独り言だよ」
「だと思った」

 彼女は笑って肩を竦める。

「わからないから始まる会話ってあんまり経験ないし」
「じゃあさ、わからないだけの会話って知ってる?」
「どういうこと?」
「ふたりの人がいてさ、わからない、わからないって言ってるわけ」

 僕は珈琲を飲む。
 まだ温かい。大したものだ。
 彼女はじっと僕を注視している。

「それだけ?」
「これだけ」

 僕は簡潔に応え、彼女の目を見る。

「なるほど」
「理解した?」
「ジョークだね」
「うん」

 彼女はカウンタに寄りかかって頬杖をついた。

「その人たちはなにがわからないの?」
「それはわからないよ」

 僕が笑いながら言うと、

「わからない会話だからね」

 彼女が笑う。

「その通り」

 どうやら彼女は僕のこころが読めるらしい。

「まるで人間みたい」
「ジョークだね」

 彼女は三度頷き、微笑む。どうやら、僕は彼女のこころが読めるらしい。ただ、お互いに自分のこころが読めない。それを拒否、あるいは回避しているからだ。そういった点において、僕らはとても似ていたし、こころという曖昧な概念についても、あえて削除をせずに、やり方は違うだろうけれど、かなり一致した把握をしていると感じる。それは奇跡的なことだ。

 向こうをむいたまま、彼女は言う。

「いま、なに考えてる?」

 僕は応える。

「ひとつじゃないよ」
「わかってる」
「いろいろだね」
「私は、君のこと考えてた」

「僕?」
「そう」
「僕のなに?」
「そういう難しいことは訊きっこなしだ」

 そう言いながら、彼女は顎をぴっと挙げ、僕のほうを向いた。僕はそれを見た。彼女を見た。それは圧倒的な力だった。僕が黙っていると次の瞬間には、彼女は笑って首を傾げている。そのまま下から覗き見るみたいに、上目遣いで僕を見る。彼女の存在。彼女がそこにいるということ。彼女が彼女であるということ。彼女の生命。彼女の意味。

 僕は茫然とする。

 泣きそうになる。なぜだろう。わからない。いま、僕は彼女を見ている。僕の視界にあるもの。僕はあらゆるものを見ている。けど、僕は彼女を見ている。本当は同じこと。でも、違う。いま、僕は彼女のことを考えている。僕の頭の中にあるもの。僕はあらゆることを考えている。けど、僕は彼女を考えている。僕はいま、彼女を選択しているのだ。なぜ?

「罠にはまったのかな?」

 僕はわざとらしい笑顔で、首を右に10度傾げる。

「こういう朝もたまには良いでしょう?」

 彼女はにやっと笑ってさらっと言う。
 それなのに、その表情は少し寂しそうだった。

「あのさ……」

 僕の言葉が彼女にひっかかる。

「言わないでも、わかるよ」

 彼女はそれをそっと離して、置いた。
 僕は頷いて、珈琲を飲んだ。
 それはもう冷えている。