言葉にもせずに自分の思いが相手に伝わるだなんて幻想を、私は持っていない。ただ、言葉にさえすれば自分の思いが相手に伝わるだなんて妄想も、私は抱いていない。そういった期待や希望、伝えたい、伝わりたい、あるいは、関りたい、という欲求が小さいのだ。

 これは、素直に自己を分析すると、諦めているのだと思う。

 とても自然に、そういった関係を諦めている。だから、逆を返すと、私はそのような欲求が過剰なのかもしれない。誰か、理解したい人と、理解してほしい人と、理解しあう、理解しあいたい。その欲求を抑制しなければ、生きていることに耐えられないほどに。可能性としてはあり得る。推論するとしたら妥当なところだ。

 自分にその欲求、その機能があると想像するだけで頭痛がするけれど。

 いや、もしかすると、その志向性自体に価値を認める必要があるのだろうか。考える価値はありそうだ。しかし、私はこうも思う。人間の思考と行動パタンを徹底的にコーディングして頭の中に詰め込んだ時、意志だとか、判断だとかいったものが、本当に、なんらかの余地を持って人間に関っているのだろうか。

 それは単なる虚構なのでは?

 そして、虚構で十分なのに、あえて飾り立て、不自然に愛で、不気味に求め、気持ち悪いほど大切にしている。この考えは、たぶん、私が私自身、人との理解を諦めている、と認識することに影響を与えている。それは、なぜ、人が、人と理解しあうことをこれほどに重視するのか、という問題提起に繋がるだろう。

 理解しあえないことに対して、理解しあうことを追い求めて、人類は、歴史の中でどれだけ不必要な血を流してきただろう。いま、人類に必要なのは共通の理解ではなしに、互いを認めあい、そして、無視しあうことなのでは。

 ひとときの寂しさ、ひとときの気まずさのために、他人を、自分を、限りある時間と、限りある資源を浪費するのは、もう、それは罪だ。しかし、なぜか、大勢の人間はそれを避けない。それを拒否している。皮肉にも、人間はやはり、生まれながらにして罪深い生き物なのだ。いつか人間が神になるときまで、そのディレンマは人類を支配するのかもしれない。

 言葉が意味を持ち、人と人とが、なにごとかを理解できるのはなぜか?

 私がこうやって人との理解を、そして、その関係まで諦めている、と自覚するのも、彼がいるからだ。初めて、なにを考えているのか把握できない人間に出会った。彼に会うまでは、とても狭い範囲ではあるだろうけれど、私はあらゆる人の思考をトレースできた。なにを考え、なにを望み、どう行動し、どうなるか、ほぼ予測できた。だから、諦める必要がなかった。

 人との関係、というものを意識する必要がなかったからだ。

 私は強すぎず、弱すぎず、常に人よりもちょっと上で、邪魔にならない程度に、その人に影響を与える、そんな風に、相手に合わせて立ち振る舞うことができた。人間関係って、熱量の移動みたいなものだと思ってた。あのまま続けていれば、今頃私は仙人にでもなっていたかもしれない。牛だって、嫌いじゃない。舌なんて、もう、最高に美味しい。

 ところが、そこで、彼が現れた。

 いや、現れたってほどの登場シーンじゃなかったけど、その瞬間は覚えてる。告別式の夜。私の知人の葬式が、彼の知人の葬式でもあった。なかなか冷たい小雨のなか、喪服を着た彼が道路の脇で煙草を吸っていた。彼は、火が消えたままの煙草をずっと咥えてた。たぶん、放心してたんだと思う。私は近づいていって、ジッポの火を差し出した。

「消えてるよ」

 彼は横目で私を見た。
 寂しいというか、優しいというか、冷たいというか、そういう眼。

「もしかしたら、消えないかなって、思った」

 それが、彼から聞いた最初の台詞。
 普通の人が、初対面の女性に対して言うようなことじゃない。

「実験してたんだ。煙草の火が、この程度の小雨で消えるかどうか」

 彼は笑って言う。
 もう、全身が濡れて、水が滴っていた。
 この程度、というには、小雨の雨足は速かった。

「馬鹿じゃないの?」

 私は妙に調子が狂って、ちょっときつい口調で彼にそう言った。

「いや、馬鹿じゃないんだ、だから、困ってる」

 彼は吐き捨てるように言った。私など眼中になかった。

 たぶん、私は、彼が好きなのだ。そう思う。考えると正常な判断ができないから、思うだけにしている。私って、そういう慎ましい人間なんだ。もっと特別な雰囲気をだすと、愛しているってフレーズがいい響きかもしれない。つまり、干渉してほしい、影響してほしい、それが駄目なら、彼を私の中に取り込んでしまいたい。その欲求、そういう思い。

 でも、それは無理、相手が悪かった。

 そもそも、思いってなんだろう。ある人は、それは感情だっていうかもしれない。けど、それは違う。感情なんていうものは、存在しない。それは空気は存在しないとか、そういう間違いとは違う。いってみれば、感情なんていうのは夜空に張り付いた星座のようなもの。

 観測したときにのみ現れる幻想だ。

 じゃあ、思いとはなにか。いや、そんな風に自省するには問題の焦点がずれているかもしれない。まず、私は、こういう風に問わなければならないだろう。なぜ、私は私の考えを、私の計算を、私の演算を、私の思いだなんていう言葉で誤魔化しているのだろう。

 わからない。不思議だ。たぶん、彼のせいだろう。

 最近、こうやって、いろんなものが、いろんなことが、どんどん、彼のせいになっていっている。とても楽で、とても落ち着いている。彼に出会う前と比較して、私の自分自身の評価は、余裕の三段跳びで地面に落ちた。もう、身動きも取れない。そのうち風化して、さらさらと崩れ去るだろう。もう、自分の力じゃ、なにもできないって思う。それを望んだんだ。

 もう、目に見えるものは空虚で、私ってふわふわ浮いてるんだ。

 私はいったい、どこにいるのだろう。思考だけが内在し、物体も、刺激も、感情も、知識も、あらゆるものとことは外在している。でも、このとき、内と外の境界はどこにある。非常に曖昧だ。一定のネットワーク、そこにある、一定の入力に対して、一定の出力を返す、レイヤの重なり、それを表現する手法、それらをまとめて保有すると認識する単一性、そして、同一性、つまり、自分が自分であると認識する機構、そのあたりにこの問題の核心はある。当たり前の話だ。いつだってさ、当たり前の話が一番決定的なんだ。

 私は彼と一緒にいたい。もう、それ以上に確かなことはなにもない。