彼女に話しかけられるのは、それが三度目だった。

 彼女は火曜日に限って僕が大学を遅く帰ることを知っていたし、その時間には僕が音楽棟の34号室でピアノを弾いていることも知っていた。ややもすると彼女は僕のことなら何でも知っているという人間かもしれなかった。

 しかし、実際ところ、まあまず彼女は僕についてほとんど何も知らなかった。そんなだから、彼女が僕の名前を知っていて、しかも僕の性別をも判断できたというのは僥倖だと言えた。そうでなければ、その時の出会いというのは根本からしてわけのわからないものになっていたに違いない。

 付け加えると、僕の方は彼女について、からっきし何も知らなかった。

      *      *      *

「ねえ、いいかな?」
 練習室のドアを開けて黙って部屋に入ってきた女性に、僕は言った。
「何かしら? 口説こうっていうんなら無駄よ。私、こう見えてもそういうの嫌いなの」
 彼女は短い髪を指でねじりながら、僕を見ずにそう言った。
 いったいどういう了見なのかわからないがいやはや良い度胸をしている
 僕は出会って十数秒の不躾な女性を目の前に怒りや苛立ちを通り越して感心していた。

「いや、そういうんじゃなくてさ」僕は年下と思えるその子にしても、礼儀をわきまえて質問した。「あなたはいったい誰なんですか?」
 僕のその質問に彼女は「ああ……」と、さも、やり忘れたどうでも良い仕事を自宅の風呂場で思い出した人のように数回、頷いた。

「知らない?」
「知らないね」
 僕は言った。まぎれもなく彼女は知らない人だった。記憶にない。
「失礼ね」彼女は言う。「前にも二回話しかけたのよ、だからこれで三回目」
「それは失敬……」

 僕は彼女に頭を下げた。
 僕は確かにそういうところがあるのだ、何回か会ったことがある人のことでも特別重要なことでもない限りは忘れっぽいところがあったし、顔などで認識することも少ないので名前を言われてはたと過去の出会いを思い出すことがあるのだ。

 それにしても、なぜ、僕のピアノの練習中に突然押し入ってきた不躾な女性に対して、僕がすまない気持ちで頭を下げているのか、客観的に状況を見返してみるといささか理不尽なところがあった。ほとんどが未知といえる人の名前と存在を忘れてしまうことはそれほどの罪だっただろうか。

「もしかして、また、忘れたりする?」
 彼女は小首を傾げてそう言った。
 それがちょっと女性らしい仕草だったので僕はどきりとする。
「いや、忘れないと思う。こんな出来事はハロウィン並に滅多にないよ」
 僕は両手を上に向けて少し笑うと「日本のハロウィンね」と付け足した。

「それは、光栄だな。意味はわからないけど」
 彼女は微笑んだ。そして自分の名前を言って「忘れないように」と言った。
「それで、なにか僕に用事でもあるのかな?」
 僕はそう言って、彼女に部屋の奥にあるパイプ椅子をすすめた。

 練習室はピアノがあるだけの三平米ほどの空間だ。入り口付近で立ったままというのはやはり幾分窮屈だった。まあ、座ったら広くなるのかといわれれば、確かにそんな事はない。けれど、そのまま立たせておくのも失礼かと思った。

 彼女はすすめられるままに部屋を移動し、ピアノのすぐ横の壁にある窓から外を眺め、その暗さに目を細めるとパイプ椅子に座った。そして、「本当に失礼な人なのね」と呟いた。

 僕はよっぽど「君ほどじゃないよ」と言おうか言うまいか、本当に悩んだけれど、そんなことを言っては「本当の本当に失礼な人」にされかねないなと身の危険を感じ、その言葉を飲み込んだ。しかし、僕はどうして彼女にそこまで「失礼な人」にされなければならなかったのだろう。女性と二人だけの世界というのはどうやら、どうしても男性に理不尽になるようにできているように思えてならなかった。

「どうして、いつも同じ靴なの?」

 彼女は唐突に言った。それは状況から考えて間違いなく僕に向かって言われた言葉だったし、「僕に言ったの?」と尋ねると「それ以外に誰がいるの?」と彼女は微かに笑って言った。そこで「誰もいない?」と僕が尋ねると「そうね、私には何人か見えてるけど、普通はそういうのはいないものとして扱うわね」と言った。

「いまって普通の状況かな?」
 僕は辺りを見回しながら、彼女に訊いた。
「普通じゃない、これ以上ないほど普通よ」彼女はさも当然のように言った。「死体もないし、死骸もないし、敵も獣もいないじゃない。これ以上、何を望めば普通になるって言うの?」

 僕はよっぽど「普通の人」と言おうか言うまいか悩んだけれど、結局はその言葉も飲み込んだ。僕自体が「死体か、敵、あるいは両方」にされる危険性が彼女には潜んでいた。そうだな、その通りだと思うと僕は頷いた。
 彼女はにっこり微笑んだ。それは、まさに子供のような笑みだった。

「それで、なんであなたって毎日同じ靴をはいているのかしら?」
 彼女は一寸前とは打って変って大人びた口調でそう言った。
「毎日毎日黒い革靴、かかとも磨り減ってるじゃない」
「そうだね」
「知ってる? 靴ってね、何足かを順番に変わりばんこに履いたほうが全体的に長持ちするのよ」
 彼女は当然とした表情で言った。

「知ってるよ」
 僕は簡単に頷いた。
「じゃあ、なんで、毎日その同じ黒い革靴履くのよ? なんかその靴に怨みでもあるわけ?」
「いや、怨みどころか大好きなんだよ、僕はこの靴がさ。かかとが磨り減るくらいにね」
 僕がそう言うと、彼女は呆れたといった面持ちで首を横に振った。

「あなたがその靴を好きでも、その逆はどうかしら。あなた、嫌われてるわよ」
「この靴に? 本当?」
 僕は驚いた。彼女は靴の気持ちが理解できる人間のようだった。
「本当よ。どうしてそれしか履かないのよ?」
 彼女は質問を繰り返した。
 僕は正直戸惑った。
 それがあまりにも悪いことのような気がしてならなかったからだ。

「いや、これしか持ってないからなんだけどね」僕は言った。
「それしか?」彼女は目を丸くさせて、僕のかかとの磨り減った黒い革靴を指差した。
「これしか」
「信じられないわ……」
 彼女はまた首を振った。
「信じなくても良いよ」
 僕は言った。彼女はそれを無視して愕然としていた。

 それにしても、靴を一足しか持っていないことをここまで人に驚かれる日が来るとは夢にも思わなかった。どうしてどうして、それはこれ以上ないほどの罪悪に思われた。つまりは貧困は罪ということになるというのか。なんということ。まったく理不尽だった。

 しかし、彼女の質問はそれで終わる事はなかった。

「ところであなた」
 彼女はふと思い出したかのように顔を上げて言った。
「なんでしょう?」
 僕は微笑んで彼女を見た。
 彼女はその僕の表情を見て少しむっとするとこう言った。

「なんで、毎日同じジーンズなの?」

「え?」
 僕はまたも戸惑った。彼女と僕のジーンズの関係を考え出すと、どこにも接点は見つけられそうになかったし、そもそも僕と彼女と僕のジーンズという三角関係に何の意味があるのかわからなかった。

「あなたって毎日同じジーンズよね? そうよね?」
 彼女は前髪を捻りながら言う。
 僕は頷いた。
「それって、良くないわよ」彼女は言う。「だって汚いじゃない。靴は、そうね、まだわかるような気がするわ。だけどね、ジーンズが汚いっていうのはちょっと問題よ。下手をすると他人にも害があるじゃない?」

「汚くないから安心して」僕は言った。「それにたとえ汚くっても、いま僕のジーンズが君に害を与えているなんてことはないだろう?」
「そういう問題じゃないわ」彼女は断固として言った。「あなたのジーンズが私に害を与えている? そんなことなくって当たり前だわ。そんなの、ほんとにあったら困るわよ。そういう問題じゃないのよ。わかるでしょう? そういうことって、そういう問題じゃないのよ」

 その彼女の言い分はわかるような気もしたし、わからないような気もした。
 実際のところ、ちょっと言葉が足りなすぎるだろうなと僕は思った。
 ただ、そういう問題じゃない、その言葉だけは実に明快な理屈として僕にも聞こえた。
 なぜなら、僕がいま言いたいことも、それとまったく同じ言葉だったからだ。

「あのね、本当のことを言うとね……」
 僕は幾分の迷いを滲ませつつ彼女に言った。
 それが悪いことのような気がしてならなかったのだ。
「これしか、まあ、大体穿けるようなジーンズって持ってないんだよね」
「え?」
 案の定、彼女は表情を固まらせて、その動きまで止めた。
 そのままの状態で彼女の頭からチューリップでも生えてこれば実に面白く、愉快な一時が満喫できるだろうと思ったけれど、実際には彼女の口から思わぬ一言が飛び出した。

「馬鹿じゃないの?」

「…………」
 これにはさすがの僕も黙ってしまった。
 僕はそれほど馬鹿ではないと思うけれど、確かに馬鹿じゃないとも言い切れなかった。そもそも、なんで僕は一本しかジーンズを持っていないからという理由で「馬鹿」にされなければならないのだろう。そして、それは当の「馬鹿」にも悪いと思った。古今東西の馬鹿を集めてこれば、いかに「馬鹿」といえどもジーンズを二本持っているような馬鹿はいるような気がした。

「じゃあ、あなた」
 彼女は僕のジーンズについてはそれ以上何も言わず、次の質問をした。
「なんで、毎日同じ黒いジャケットなの?」
 大体、もう僕もどんな質問がくるのか予想がついていたのでことさらに驚かなかった。
「ジャケットはさ、いいじゃない。害も与えないと思うし」僕は言った。「まあ、これしかないんだけどね」
「それしかない?」
 彼女は取調室で容疑者から重要な発言を珍しく頭を使ってひねり出した警察官のように、確かめるようにそう言った。

「これしかないね」
 僕はこくりと頷いた。
「もしかして、そっちの鞄も?」
 彼女はピアノの上に置かれた僕の鞄を指差して尋ねた。
「そうだね。それしかないんだよね、五年使ってる」
 僕は言う。
「もしかして、その眼鏡も?」
「そうだねぇ、使えるのはこれしかない。何回も壊しちゃってね、これしかないんだ」

「あ、あっ、それじゃあね」彼女は思わぬ展開に動揺したのか、不測の事態に困惑しているのか、口調が上ずりだした。「その……もしかして、そのジャケットの中に着てるシャツなんかも、もしかしてさ……」
「いやいや」僕は彼女の戸惑い気味に言い煩っている台詞を制して言った。「さすがに、これは一枚なんてことはないよ」

「そう、そうよね……」
 彼女は落ち着いたように肩を落とした。
 けれど、僕の次の一言のせいでがくりと頭が垂れた。
 言わなければ良かったと僕は後悔した。

「中に着るのは、さすがに二枚持ってるんだよね」
「二枚? それしかないの? 本当に?」
「それしかないね。本当に」
 僕は言って、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。別に特別な意味はないけれど。
「はぁーあ……」
 彼女は深い溜め息をついた。

「ダイジョウブ?」
 僕は気を使った。特に使う必要もないと思ったけれど、彼女を落ち込ませたのは状況から考えてやはり僕だった。それはどういう状況で考えてみてもやはり、あまりうまくないと言えた。
「大丈夫よ。それよりも……あなたって、かわいそうな人なのね」
 彼女は僕の目を見て、潤ませた瞳でそう言った。

「可哀想? 僕が?」
「そう」
 彼女は目を逸らさずに頷いた。
「そう?」
「そうよ」

「…………」僕は数秒考えて、結論を出した。「そうでもないと思うよ」そう彼女に言って、僕はふいとピアノの方を向いた。漆黒のピアノのボディには僕の「可哀想」な顔が映っていた。僕はそれをじっと見てみたが、さしあたって「可哀想」を強調するほどの人間はそこにはいなかった。街に出ればその辺にごろごろしていそうな普通の顔である。

「かわいそうよ……」
 それでも彼女は食い下がって、僕にかわいそうだと言い続けた。
 そこにはもう、言葉以外の何ものも存在していなかった。
 そういうものが、世界には落とし穴のようにしてごろごろとそこら中に転がっているものなのだ。

 彼女は一種の病気のようなものだった。
 それは別に悪いことではないのだ。
 そして、僕はそういうのには慣れていた。

「そうよ、そう」彼女は突然ぱんと手を鳴らして、僕を漠然と見た。「あなた、なにか私に訊いてみたいことはないの? あるでしょう? いままでで一番楽しかったことってなに、とか、好きなテレビ番組はあるの、とかね、そういうの……そういうのって、私、結構好きよ。訊いて、訊いてよ、なんでも良いのよ?」
「…………」
 僕は、その彼女の悲痛なまでの笑顔を前に無表情で黙り込んでしまった。

 その瞬間、僕は無上に哀しい気持ちになった。ぽっかりとまた一つ、僕の中で大事だったパーツが抜け落ちて、どこかへ行ってしまったのだ。
 わけもわからず泣き叫んで、狂ったように走り回って、辺りのものを手当たり次第に壊して周って、いつの間にか自分の部屋にあるすべての本の真ん中の30ページくらいだけが真っ黒に塗られていて、本当に大事なものが何だかわからなくなってしまったような、そんな気持ちだった。

 彼女はぼろぼろと泣き出していた。
 そして、同時に笑っていた。
 そんな状態から、彼女の何らかの感情を推測することなどもはや不可能だった。
 それは、やっぱり異常だったし、そういう異常に早いうちに気づくことは大事だった。
 僕は彼女の隣に椅子ごと移動すると、彼女の身体に身を寄せた。

「そうだね……」
 僕は彼女の肩を抱いて、ゆっくりと話しかけた。彼女は表情ばかりが張り付いたように引き攣った笑みを浮かべ、目からは涙が零れ落ちていた。ぶるぶると身体を震わせて、放っておいたら取り返しのつかないほどに薄暗く冷え切った谷底へと落ちていってしまうのではないかと思われた。
 彼女は僕の一枚しかないジャケットに顔をこすり付けるように身を寄せながら、うんうんと頷いた。

「僕はさ、なんというか、人様に申し訳ない気分になるくらいしか、本当にものって持ってないからね、なんというかさ、君みたいな子に問い詰められると、その、まあ、まったく恐縮なんだよ、ほんと」僕は彼女を覗き込みながら、笑いながら言った。意味は自分でもよくわからなかった。「それで、質問だったよね、質問。良いかな、質問しても?」僕は彼女の肩にくっと力を入れて抱き寄せた。

 彼女はうんうんと鼻をすすりながら、ごしごしと僕に頭をこすり付けるように首を振った。そして、かすかな泣き声で「もちろんよ、なんでも良いのよ」と言った。「大丈夫?」と尋ねると、「大丈夫」と言った。どう考えても大丈夫とは言い難い状況ではあったけれども、僕は彼女の頭を撫でるとよしよしと口にした。意味は自分でもわからなかった。

「質問は?」
 彼女は気になっているのか、僕の質問をせかした。
 そういうことって、よくあることなのだ。
「うん」
 僕は頷いた。
 彼女の方も僕の台詞をちゃんと聴くためか、少し冷静になったようだった。
 僕は質問した。
「君はさ、いったい、どのくらいたくさんのものを持っているの?」
 僕はゆっくりと彼女の目を見ながら訊いた。
 彼女はぼぅっと僕の顔を眺めて、すぐに俯いた。

 僕も黙って、彼女の肩を抱いていた。
「なにか弾こうか?」とピアノを指差して彼女に言ってみたが、彼女はふるふると首を横に振った。断られてから気づいたことだったのだけれど、もしその時弾いてと言われても、弾けるような曲のレパートリィなど僕は持ち合わせていなかった。僕はピアノ自体はよく弾くが、これといって目的があって弾いているわけではないのだ、気まぐれなのである。つまりは上手くもないし、下手でもない。聴かされる側としては厄介なレヴェルに僕はいた。そのことを正直に彼女に言うと、彼女はがしがしと僕の腕を掴みながら笑った。

 彼女は微笑んだまま、僕の頬に右手を伸ばすと「私……本当にたくさん、もう、理解できないくらい、たくさん……いろんなものを持ってるのよ」と言って、僕の顔を撫でた。僕はずっと彼女の表情を眺めていて、彼女はずっと僕の目を覗き込んでいた。僕の瞳には彼女が映っているはずで、その彼女の表情は可哀想なほどの笑みを浮かべたものだっただろう。彼女は僕の瞳の中に何を見ただろう。

 僕は彼女にキスをした。
 彼女は身動きしなく、僕の唇が触れた瞬間に身体の緊張の糸が緩んだかのように脱力した。
 しんとしていて、あたりは暗闇に包まれていた。
 数秒か、数分か、まどろんでいた時間がいつもどおりの流れを取り戻すと、僕はゆっくりと彼女との身体に距離をとった。そして、「可哀想なんだね」と彼女に言った。彼女は一瞬だけ首を傾げ、困ったなといった表情のまま、曖昧にこくりと頷いた。

 そして、やっぱり微笑んで、こう言うのだった。
「だけど、あなたほどじゃないのよ」
 僕は間違ってもそんなことはないだろうとは思ったけれど、黙って顔をしかめて笑った。
「じゃあ、来週までにはもう少しまともな人間になっておくよ」僕は彼女に約束した。「僕だって君くらいには幸せになりたいしね」

 彼女は微笑んで言った。
「良い心がけだわ。だけど、私ほど幸せになれるかどうかは難しいところよね」
「そうだと思ったよ」
 僕は頷いた。そして、唐突に思い浮かんだことを彼女に訊いてみた。
「ねえ、僕と君の平均っていうのは、どんな風に思う?」
「あら、それってもしかして、私と子供を作りたいって言ってるの?」
 彼女は冗談っぽく言った。

「違うよ」
 僕は一応きちんと否定した。
「あら、残念」
 彼女は肩をすくめた。
「僕と君の平均のような人がいたらどうなのかなってね、思ったわけさ」
「あなた、結構漠然としたこと人に訊くのね。意外だわ」
 彼女はぽんぽんと僕の肩を叩いた。
「なんでも質問してって、さっき泣きながら言ってたのは君じゃない」
 僕がそう言うと、そういえばそうね、といって彼女は頷いた。

「あなたと私の平均ねぇ……なるほどね」彼女は顎に手をやり、きっぱりとこう言った。「そんなの一番可哀想に決まってるじゃない、そんなに可哀想な人って滅多にいないと思うわよ」
 僕は苦笑して、彼女を見つめた。
 こうやって見直してみると、彼女はなかなか魅力的な女性だった。

「だけどね、平均やら普通やら常識やらなんてね、人間にはこれっぽっちもないのよ」彼女は舌をぺろっと出しながら、僕を見て言った。その瞳には心なしか活力がこもっているように思えた。「私はいろんなものを、本当にたくさんのものを持っているけどね、その中に平均のものやら、普通のものなんてね、ひとっつもないのよ。これ本当なのよ。あなたにはわからないかもしれないけど、どんなにたくさんのものを持っていたって、どれ一つ、そういうものってないのよ」

「それって、どうなのかな?」僕は言った。どちらかというと平均やら普通やらといったものは、人間にしかないように感じられたし、彼女がそもそも、そういう言葉を使って表現しようとしている物事をはっきりと掴めていなかった。しかし、彼女にとって、とにかくいまは「話すこと」が重要なのだと結論して僕は話を促した。

「ある意味では、哀しいことよ。そう、だけどね、そういうものなのよ。そういうのを受け止めなきゃ人間ってどんどん悪いほうに悪いほうにって知らず知らずに進んでいっちゃうものなのよ。だから、私がいま、こういう風にあなたに平均やら普通やらって言って聞かせることができるっていうのは、これはこれで幸せなことなのよ」

 そう言って、彼女はちっちっと指を振った。
 僕はそうだねと頷いて、もう一度キスしても良いか彼女に尋ねた。

「惚れたの?」
 彼女はそう言った。
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」
 僕も馬鹿正直に答えた。
「してみたかった?」
「そうだね」
「そういう気持ちって、嬉しいわ」
 彼女は両手を胸の前で合わせて言った。学芸会の演技のようだった。
「それは良かった」僕は笑って言った。

「そうよ、私、そういう風に、いつも誰かに必要とされているような人生が送りたいのよ」彼女は僕にキスしながら言った。「君がいなかったら僕は死んでしまうんだ、一時も君を僕のそばから離れさせたくないんだ、できることなら僕と一緒の棺桶で毎日一緒に眠ってくれないだろうかって、そう言われたいのよ、このくらい、いくらあなたでもわかるでしょう? そういうのって大事なのよ」
 僕はとてもよくわかるよ、と大雑把に言って彼女に同意した。

「あなたはどんな生活が理想なの?」
 彼女は僕から離れて、服や髪型を気にしながら訊いた。
「僕は静かで普通の平均的な生活がしたいね」
 僕は本当のことを言った。

「あのね、あなた、世の中ってもうちょっとはマシなのよ」彼女は僕の顔を両手で挟みながら言った。「そんなに悲観的にならないで、私たちを見捨てないで」
「考えとくよ」

 そこまで話すと彼女は「来週も現れるわ、たぶん」と僕に告げ、さっさと出て行ってしまった。
 僕は彼女のその演技がかった最後の台詞に苦笑して、彼女を見送った。
 彼女の後姿は魅力的だったし、遠ざかっていく足音は力強かった。
 僕はピアノに向かって、そこに映る「可哀想」な顔を眺めた。

 しかしもう、そこには、どこにも、何者も、いなかった。
 可哀想なものも、可哀想じゃないものも、何者も。

 それにしても、来週もまた、彼女に会うのだ。
 僕はそう思っただけで笑ってしまった。

 世界の何かが平均されていた。