僕が一人で遊園地に遊びに行き、観覧車に乗った瞬間だった。

「…………」

 あからさまに片側のシートがおかしい。

(絶対、忍者だよ……)

 忍者が隠れている。
 わかる……わかるぞ……。
 薄いふろしきでその身を覆っているが、間違いない、膨らんでいる。

 シート前面が出っ張っている。

 忍者だ……忍者が隠れ身の術を使っている。
 なぜ、観覧車の中なんかで隠れみの術を……。
 いや、けれど、問題の本質はそんなところにはない。

(全っ然、隠れれてねえ……忍びれてねえ……)

 ばればれだ。
 決定的にそれが問題だ。
 いっそのこと、僕は気付きたくなかった。

 別に忍者が観覧車の中で隠れ身の術を使っていようが、ボルシチを食べていようが、僕に気付かないようにやっているのなら、なんの問題もない。むしろ、歓迎したい。なんぼでもやってもらいたい。僕は観覧車の中をプライベートな空間だなどさらさら思っていないのだから。

 あるいはそもそも忍者ではなし、僕が乗ったときに違う誰かが乗っていたとしても、まあ、文句の付けようのないところだ。ムツゴロウ王国に熊がいたって、誰も国王に歯向かうことはできないのだ。それと同じようなものだ。それに、僕はそんなことは全然気にならない。なんなら、窓の外に広がる雄大な景色に涙を流したっていい。いっそのこと号泣してやる。ごうごうと目から滝を作ってやる。

 それにしても、隠れ身の術が下手な忍者だ。
 それも、観覧車の中で隠れ身の術を使う忍者とは。
 たぶん、こいつはどうしようもない忍者に違いない。

 しかし、それでも忍者だ、侮るわけにはいかない。もしかするとものすごい忍術を繰り出すのかもしれないし、様々な種類の手裏剣が飛び出すのかもしれない。とりあえず忍者というだけで既に計り知れない。僕はこの忍者を「仙丸」と名付けることにした。そして、仙丸の隠れているシートとは逆側のシートに腰掛けた。

 観覧車のドアが男の係員によって閉められた。
 係員もどうやら仙丸に気付いていたようだったが、そのまま静かにドアを閉めた。
 後ろで茶髪の女の係員が笑っていた。
 僕を笑ったのだろうか、それとも仙丸を笑ったのか、あるいは両方か。

 その隣でもう一人の女の係員が「死ねばいい」と呟いた。
 僕に言ったのだろうか、仙丸に言ったのだろうか、あるいは両方か。
 仮に死ぬのだとしたら、僕、あるいは僕たちはいったいどんな死にかたをするのだろう。
 考えただけでも恐ろしい。

 下を見ると、どんどん人が集まってきている。
 蟻というよりもウィルスのようだ。集団の生命を感じる。増殖している。
 情報が伝播してわらわらと僕と仙丸の乗る観覧車を人々が見上げている。

 僕が手を振ったら、面白いようにみんながそっぽを向いた。
 集団が一瞬にして黒い塊になったのだ。
 瞬間に世界が静かになったような気すらした。

 一周して戻ってきたら、全員、殴ろう。

「ふう……」

 僕が顔を戻し、溜め息をついた瞬間だった。

「グゥー……グゥー……」

「?」

「グゥー……グゥー……」

「???」

「グゥー……グゥー……」

「…………」

「グゥー……グゥー……グゥー……グゥー……」


「グゥー……グゥー……グゥー……グゥー……グゥー……グゥー……」


(ね、寝てるー!)


 意外な展開だった。
 仙丸は寝ていた。まさか、寝ているとは思わなかった。
 いろいろ訊こうと思っていたことや、やろうと思っていたことがあったのに。

 こいつはただ、寝ているだけだ。

 ごろん。
 仙丸が寝返りを打った。
 同時にその身がふろしきからはみ出した。
 これはもう隠れ蓑というよりも、むしろ布団に近かった。

 とんだ忍者である。不届き千万だ。

 様子を確認すると、どうも寝ている振りをしているわけでもなさそうだ。
 僕はこの忍者をたたき起こして、忍者の何たるかを叩き込んでやろうかと思案した。
 全世界の少年少女たちの忍者像を壊すんじゃない。
 しかし、その時、

「むにゃむにゃむにゃむにゃ……お、おかあさん……」

「…………」

 駄目だ……僕に、この忍者を起こすことなど出来ない。

 不可能だ。
 絶対無理だ。
 完全無欠に無謀な所業だ。
 完璧に無駄で醜悪な行為だ。

 寝かしておこう。
 そっとしておこう。
 気付かない振りをしておこう。

 僕は外の景色を眺めながら、観覧車を一周した。僕は隠れ身の術を使って隠れているはずの忍者を気付かない振りをして観覧車を一周した。それは実に複雑な人生経験だった。

 係員が観覧車のドアを開ける。
 僕は颯爽と大地に降り立った。
 やり遂げた顔で、僕は脚を踏み出した。
 そして、係員に告げたのだった。

「すいません、仙丸を……」
「はい、かしこまりました」

 皆まで言わずに両者の意図は通じ合った。
 男性の係員が観覧車の中に入り、仙丸を起こす。
 ゆさゆさと揺さぶるが起きないので、ずるずると係員は仙丸を引きずり出した。
 観覧車は動いているので、あんまり、時間をかけると危ないからだ。
 それに他の客にも迷惑だ。

 僕は周りに集まる人々を殴って周ろうと思っていたが、それはやめた。
 仙丸と一緒に観覧車を一周ほど乗った後では、そんなことはできなかった。
 そんな、不道徳なことはできない。

 僕は後ろを振り向かずに人を掻き分け階段を降り、歩きだした。
 煙草を一本取り出して、火をつける。
 実に美味かった。

 すいませーん、あけてくださーい! という係員の声が聞こえる。
 僕の脇をきゃいきゃいと小さな少年少女たちが駆け抜けていった。
 気がつくと、子供という子供が観覧車のあたりに集まっていく。

 相対的に他のアトラクションは閑散としだした。
 後ろの方でわー! という歓声が上がった。
 忍者だー! という子供の声も聞こえる。

 僕はベンチに腰掛けて、煙草の続きを吸う。
 天気は快晴。
 薄い雲が陽を適度にさえぎり、気持ちの良い日差しを降りまいている。
 僕は空を見上げて、風に耳を澄ました。
 すると、広場のほうから安っぽい熊の着ぐるみが歩いてくる。
 熊は僕の隣に腰掛け、そのでかい頭を取り外した。
 そして、観覧車の方を向いて、呟いた。

「仕事になんねぇっすよ……」

 仙丸はあっという間に子どもたちの人気者になった。
 そして、いまではその遊園地で働いている。
 そして、観覧車の中で寝ている。

 もはや遊園地の名物である。
 彼を目当てにやってくる客もいる。
 いろいろな部分で不思議な点は残る、ただ、それでこそ仙丸である。

 そういう意味で、彼はやはり忍者だった。
 手裏剣だって投げられるはずだ。
 しかし、隠れ身の術はできない。