ニワトリに体重を乗せ、しっかりと押さえつけると、彼はナタ状の無骨で鋭利な鉄塊を頭の上まで振り上げた。

「…………!」

 どんっ、と木製の台に衝撃が走り、呆気ないほど簡単にニワトリの頭が地面に落ちた。ギャ、というような小さな悲鳴が上がり、頭部のないニワトリがばたばたと、押さえつける彼の身体の下で暴れた。彼はそれを器用にないで、次の作業に取り掛かる。草の上に落ちたニワトリの頭は目を見開いて痙攣していた。

 血を抜き、羽を抜き、内臓を抜き、解体が終わると、彼は全身にしっとりと汗をかいていた。太陽が上から照りつけ、視界に映りこむ世界の影も極端に減っていた。彼は手ぬぐいで汗を拭うと、家畜の逃走防止用の垣根に腰掛けた。以前、叔父の馬を預かったとき、この垣根をゆうゆうと飛び越えて馬が逃げ出したのを思い出す。

 あれは捕まえるのが大変だった。足の速い馬で、丸一日かかって袋小路に追い詰め、最後は餌で釣ったのだ。馬にしてみれば、捕まれば喰われるとでも感じたのだろう。草食動物と肉食動物。人間と馬の違いだった。彼はその時、なんだか不思議な感覚を味わったのだ。その年の忘年会に出てきた刺身があの馬の肉だと知ったときは、なにか思うものがあった。だから、その馬のこともしっかり覚えている。


      *      *      *


 最近、街の方では郊外の人間を血生臭いだなんて敬遠するむきがあるらしい。街の人間達は毎日なにを食べているのだろうと呆れつつ、そんな風潮はあっという間に廃れるだろうと思ってはいる。が、やはり、いい気はしない。どうも、血生臭いといわれると、それが悪いことのように感じてしまうのだ。実際にはそんなことはないし、自分の仕事にも誇りを持っているはずなのに。

 どこかで、自分のやっていることに対して劣等感を感じてしまう。確かに自分は血生臭い。それに自分には学識もなければ、経験だって豊かなわけじゃない。勉強という勉強もしたことがないから、字は読めるが書けない。計算なんてできるわけがない。つまり、自分には教養も才能もない。彼はそれを否定しない。

 だが、彼は知っている。自分と同じようにして、街の人間達の埃臭いこと、香水臭いことを。近郊の人間達の油臭いこと、ヤニ臭いことを。なにがどう違うのか、彼には綺麗に説明することができなかったが、それでも、世の中というものがちょっとづつ、なにかがずれて繋がっているのだということを漠然と感じてはいた。

 それぞれの臭いの中で我々が生きているのだということ。そして、それが自然に互いを弾き合うように仕組まれているということ。そういう、人間が大自然の内にいるがゆえに抗しがたい発想を、われわれは宿命的に感じざるを得ないのだということを。そして、人間はそれを乗り越えることができるのにもかかわらず、結局、それを乗り越えることなど絶対にないのだということも。

 彼は右手につるんとしたニワトリの肉を持ち、家に入った。
 その後を追い、ニワトリの頭を咥えた犬が家に入った。
 長毛でふさふさのその犬の名前は「タマゴ」という。


      *      *      *


 暗い灰色に少し青みがかった毛がふさふさと揺れる。物静かな犬「タマゴ」は彼の足許でほちゃっと眠る。そして、彼はそのタマゴの体温で、冷えた足先を温める。彼の脚の冷たさをいたわるようにしてタマゴはいつも、彼が安楽椅子に座るとその足許にやってきた。タマゴは彼をうとうととした眠りに誘う、優しき睡魔のようだった。

 タマゴは不思議な犬だった。彼が解体したニワトリの肉を調理場で加工しているとき、タマゴは咥えてきたニワトリの頭部を自分の小屋に運び込んだ。タマゴは拾ってきたものをなんでも小屋に運び込む癖がある。これはタマゴに限ったことではないかもしれない。ただ、タマゴが拾うのはいつも決まって「なにか死んだもの」だった。

 何週かに一度、タマゴの小屋は凄まじい異臭を放つ。そんな時、彼とタマゴは数日家を開けて、短い旅に出る。森や川や湖、たまには街や工場のほうにまで足を伸ばし、ふらふらと周辺を彷徨う。普通の旅の目的とは真逆であるが、しかし、彼とタマゴにとっては決して自分たち自身を消耗するようなものではなかった。むしろ、それは彼らの楽しみのひとつであった。

 そして、何度目かの太陽が昇るのを確認して家に戻ると、すっかり異臭は消えている。臭いが薄れ、消え去るとともに、また、いつも通りの生活が始まるのだった。


      *      *      *


 とんとんと、控えめに小屋の扉を誰かが叩いた。きいぃ、と軋んで扉が開くと一人の人が立っている。誰かといっても知らない人間というわけじゃない。そう、知らないわけではないのだが、誰かとしかいいようのない人なのだ。つまるところ、彼はその人の名前というものを知らないのだった。

「こんにちわ」

 まず、そのように彼女は言う。こんにちわ。彼もこんにちわと返す。彼は言葉という音を発することがまず少ない。いい加減、人生において彼女としか話をしていないのだ。とてもじゃないが、話していて楽しい人間ではない。しかし、彼女はそれでも、彼と話していると楽しいと言う。彼は彼女が怖かった。

「なんですか?」

 彼の言葉が粗雑で不十分なのは、彼女は心得ていた。

「食事でも、一緒にどうかと思いまして、いかがですか?」

 彼女の言葉は「流れている」感じがする。彼はいつもそう思う。

「はい」

 彼の応えはいつも同じだ。断わりかたというのを知らないのだ。
 ただ、仮に知っていたとしても、彼の応えが同じことに変わりはない。

「あら、タマゴは?」

 彼女が小屋に入ってあたりを見回す。
 彼が部屋の奥を指差すと、屋根に近い戸棚の上にタマゴがいた。

「寝てます」

 その声を待っていたかのように、タマゴは「おんおん」と二度鳴いた。
 タマゴはまず、寝ているときにしか鳴かなかった。
 そして、高いところで眠る癖があった。


      *      *      *


 鋭い遠吠えが街に響いた。一度、二度、三度……。その食卓に集まる五人の家族はいままでの和やかな雰囲気など欠片も残さずに、一瞬にして張り詰めた表情になった。それはさながら、教会で用意されたクリスマスプレゼントの箱の中に、猫の生首がごろんと入っていたかのような端的な不気味さと、そこに漂う幸福と絶望のダイナミズムが凝縮されているようだった。

 静まり返った食卓で少年のパンを持つ手が震えた。少女は顔面を蒼白にして、母親の腕を握り締めた。カチャン、と硬質な音が静かな空間にアクセントを付ける。母親のスープを飲もうとしていた右手からスプーンが落ちた。蝋燭の火をその銀の表面に揺らし、スプーンはスープに沈んだ。父親は眉間に皺を寄せ、黙った。その瞳はせわしなげに左右に揺れていた。沈黙は遠吠えが止んでも、なお、続いた。

「こうやって、神様はわたしたちをお試しになさるのだ……」

 祖母が呟いた。その一言で、家族は一斉に息をついた。母親は少女の頭を撫で、父親は蝋燭を持ち、戸締りを確認しにいった。少年は、祖母の言葉を心の中で反芻していた。少年は祖母の言葉になんとも言いがたい欺瞞を感じたのだった。僕たちを恐怖させるのは、そんな安易な台詞で片付けられるようなものではない気がした。神がわれわれを試している? なぜ? なんのために?


      *      *      *


 少年は明らかに神よりも、いま、自分たちの目の前にある恐怖に純粋に反応した。少年には祖母の言葉は汚いと感じられた。逃げていると感じられた。祖母がどう思っていようがいい、ただ、それを言葉にして発する、少年はその行為、そして、その心が醜いと感じた。そして、僕はみんなとは違うのだと、なにかわからないものに猛烈に反発した。少年の手はいまだ震えていた。ぶるぶると、さっきにもまして。気がついたとき、パンは少年の手の中でグチャグチャに握り潰されていた。

 ふと、父親が街路を確認するために開けた窓から、一陣の風がするっと食卓に忍び込んだ。ふふふふふっと蝋燭の灯は消え、たちまちあたりを暗闇が包み込んだ。ひっ、と叫び声をあげたのは母親だった。慰めていた少女を人形のように抱きかかえ、必死でその身を縮こめた。少女はがたがたと震えて、母の胸で涙を流していた。父親が慌てて窓を閉め、どたばたと音を立てながら蝋燭に火をつけようとしたとき、祖母は胸の前で十字を切り、パンを一切れ、口に運んだ。

 そんな中、少年だけは笑っていた。その込み上げるおかしさに耐えることができなかった。頭の中は冷え冷えと澄み渡り、目の前の人間達の行動が、少年の目には堪らないほど馬鹿馬鹿しいものとして映った。だから、少年は笑った。下りられない階段をまた一歩、少年は進んだのだった。その日の晩、少年の祖母は死んだ。


      *      *      *


 老人はひとつの小屋を見つけた。山の奥、森の奥、川から離れ、泉から離れ、人々から逃れ、無形の圧力から逃れ、ひっそりとたたずむ小屋。なぜそのようなところに小屋があるのかわからぬし、誰が建てたのかもさっぱりわからぬが、まさにいまの老人にぴったりの小屋であるということだけは確かであるように思えた。

 正直なところ、老人はやや途方に暮れていたのだ。なぜなら、どうも、この老人というやつはどういうわけだかわからぬが、ぎりぎりのところの幸運というやつが運命のように身体に巻きついてしまっているようなのだ。これは、いまの老人にしてみれば、不幸としかいいようがなかった。

 老人は最初、死ぬために山に入った。山を彷徨い、倒れ、死ぬ。その単純な発想はとても気が楽な、面白いものだと思ったのだ。ところが100メートルも道のない山際を歩いたところで、腐乱した首吊り死体を発見した。死体にはぶんぶんと蝿がたかり、腐乱臭は酷い。服を着ているがところどころがはだけ、肉は朽ち、白骨と化している部分もある。足許にはどうやら首吊台として使ったらしい三本の太い木の枝があり、吊るされた樹の根元には汚いバッグが置かれていた。

 老人はなにも考えずにそのバッグを手に取り、中を覗いた。まっさきに老人の目に飛び込んできたのは金と銀の輝きだった。あたりの陽光は木々に遮られて微々たるものなのにかかわらず、その輝きは衰えることがなかった。老人はその輝きをまじまじと眺め、もう一度、樹に吊るされた物体を見た。それは蝿の餌だった。いったい、この輝きはなんなのだろう? 老人は少しだけ考え、再びバッグを覗き込んだ。


      *      *      *


 老人は森を歩いた。夕闇があたりを覆いだすとともに小さな蟲達がざわめき、蠢きだす気配。禽達が切れ切れに鳴き、樹々が根の底から呻き、草木が思うが侭に騒ぎ、その場を満たす暗闇達が老人の存在に凝集する。老人はいま、あらゆる存在に囲まれていた。老人は心地良いものを胸の奥に抱きながら、とことこと道なき道を歩んだ。

 老人の肩には汚らしいバッグが掛かっていた。老人が歩むたびに、かちゃ、かちゃ、とその中身が小さな音を立てる。そのバッグの下部には大量の、そして、様々な骨がぎちぎちと詰まっていた。たぶん、首を吊った人間の集めたものなのだろう。それらは綺麗に肉が削ぎ落とされており、撫でるとざらっとした触感があった。

 これを手にしたとき、老人はいままでにない悔恨と、首を吊った人間に対する耐え難い羨望とを強烈に感じた。堪らない欲望が瞬間、闇に溶けて消えた。老人はそのままバッグを掻っ攫うとより深い森にと足を踏み入れた。バッグの上部にあった金と銀は三度目にバッグを覗いた時にすべて捨てた。夜になった途端に彼らは輝きを発することを断念したのだ。老人はそのことに失望した。


      *      *      *


 二羽の梟が樹上で同時に眼を光らせたとき、老人の渇きと涸れは頂点に達した。幻聴が聞こえ、幻覚が見えた。死神が老人の耳元で優しい声をかける。大好きよ、大好きなのよ……ほんとうよ、ああ、もう、ごめんなさい……! でも、大好きなの、ほんとうなのよ! 大好きなの、ああ、大好き大好き大好き大好き大好き……。

 母の優しい口調が何度も何度も繰り返される。母は泣いていた。巨大なムカデが老人の脇を通りすぎ、ぼとんと頭上から落ちてきたヒルが、にやり、と頭をもたげて微笑んだ。死ねよ。ぬめぬめとした身体を半分だるそうに持ち上げて、ヒルは言った。あたりを見回すと、白い蜘蛛がうようよと見渡す限りの大小の樹々を這い回っていた。

「ぶたないで……母さん、もう、ぶたないで下さい、お願いします……」

 老人が黒い大地に倒れると、空から雨が舞い降りた。


      *      *      *


「じゃあ、なにかい? 君は真実などというものはないと言うのかい?」

 砂色のよれたコートを羽織った少年は微笑みとともに尋ねた。
 空は見事な秋晴れで、薄い雲が幾筋か流れていた。
 風の冷たい、しかし、気持ちの良い日だった。

「その通りさ、カシワ。僕達には“本当のこと”なんてやつは……」

 綺麗に編んだ髪をなびかせ、若者は砂色の少年“カシワ”を追う。
 一見してわかるこの身分の違いに、人が見たら驚いたことだろう。
 少年のトレンチコートの下には臙脂色のチョッキが輝いていた。

「絶対の真実、本当の解答、そんなものはね、見えないのさ」
「つまり、それが君の本当の解答ってわけなのかい?」

 河のほとりの岩に腰かけると、砂色の少年は向き直った。
 若者は1メートルほどの距離をとって立ち止まる。
 数秒、少年と若者は眼差しを交わし、黙った。

 そして、そのまま空を見上げた。


      *      *      *


 目を覚ますと、老人の脇には緩やかな川が流れ、陽のあたらぬはずの深緑の底にまばらな光の束が差し込んでいた。いつ、雨は止んだのだろう? ここは本当に現実の世界だろうか? 老人はそのように感じ、そして、少しばかりの安らかな時間を鳥の軽やかな鳴き声と、木々のざわめきの中で過ごした。

 自分が死んだわけではないらしいということに気付いたのは、老人が二度目の眠りから覚めたときだった。老人は夢を見た。なにを見たのかは思い出せないが、その夢はやけに黒々とした思い出に湛えられているようだった。そのなかにぼんやりと白い滲んだ点が浮かぶ。次々に浮かぶ。


 ふつ……

   ふつ、ふつ……ふつ……


  ……ふつ……ふつ……
       ふつ……ふつ、ふつ……


               ……ふつ……ふつ、ふつ、ふつ……



 老人は細い川の流れに沿って、歩き出した。
 足下の苔がふわふわとし、気持ちよい。
 衰えた陽光が深緑を何千にも彩る。

 渇きだけは癒えていた。


      *      *      *


 綺麗な朝焼けの中、見事な虹が空にかかっていた。雨はいまだ降り続き、大粒の雨が陽光の光を浴びつつ、老人の身体に降り注いだ。雲はところどころが切れ、世界は明るかった。オレンジとブルーのグラデーションが老人の眼に映えた。

 老人は歩いていた。もう、自分がなぜ歩いているのか、なにのために歩いているのか、わからない。緩やかな川の流れに任せて、その川沿いをのろのろと歩いた。雨は冷たかったが、老人にはそれも気持ちよかった。雨粒の一粒ごとに自分の体温が伝わり、地に落ちる。老人はその快感を感じていた。

 しかし、これほどまでに美しい虹をかつて、見たことがあっただろうか。雨の中、朝焼けの陽光の中、地に刺さるように半円を描き、哀しいほどに美しい輝きを放っている虹。老人は胸に息苦しいものを感じ、下を向いて歩いた。そこには朝露に輝き、自分の足を支える美しい苔があった。

 川は次第に太さを増し、そして、老人は泉に出た。
 泉の中には虹が輝いていた。
 老人は震えた。


      *      *      *


 老人にとってその泉は目的地だったといえる。なにかわからないけれど、老人はここを目指して歩いてきた。ただ、その後どうするのか、それはさっぱり老人にはわかりかねた。なんだかぼんやりとしているし、だからなんだ、という言葉が心の中でむしゃむしゃと広がっていた。

 虹が消え、朝焼けは透明に澄んだ光に変わりつつあった。ただの森の泉が老人の目前に展開し始めていた。ところどころが陰り、決して生命に満ち溢れているわけではない、死のイメージが付きまとう。ちろちろと流れ込む雨水は泉に怪しげなエネルギを集めているようであった。

 老人の脇、上から下にと影が走った。ぽちゃんっと泉に落ちる。すいすいとのたうつように水中を泳いでいったのは、一匹の蛇だった。白みがかった長ひょろい蛇は水中の奥、黒い深部にとすいすいと潜っていった。落ちていった。

 半日後、老人は水面に一匹の死んだ蛇が浮かんでいるのを見た。