美しい少女、可愛い女性。
 その女の子は無垢な瞳で自分を見つめる。
 彼女は小さな両手をいっぱいに広げて、クルクルとその場で回る。

 欠けることのない満面の笑み。
 きゃっきゃっと漏れる素敵な笑い声。
 華麗で、無邪気な嬉しさと喜びに満ちた動き。

 彼女の纏う純白のドレスがふわふわと軽やかに舞う。
 彼女のさらさらとした髪の毛に眩い光が流れ狂う。
 彼女の心は艶やかに一心不乱に踊り続ける。

 そして、それを見ている、私。

 少女がいま、
 なにを思っていて、
 なにを感じていて、
 なぜ、踊っているのか?

 私には、なにも、わからない。

 少女は踊っている。


      *      *      *


「死にたいのか?」
「死にたかないさ」

 奇妙な気流が彼の長い髪の毛を四方八方に揺らした。背後の闇に溶け込むように、不自然に綺麗な黒髪が生命を放出するかのように闇に踊る。不健康。肌は白いというよりも頬がこけ、青白かった。

 最初は女だと思っていた。その認識が間違っていることに気がついたのは、愚かしいことにベッドの上で彼の上着を脱がせたときだった。しかし、だからなんだというわけじゃない。ただ、女だと思っていたものが男だったというだけの話だ。

 夜。

 ここは黒い建築の屋上。空はぼんやりとした黒味を一様に帯び、地上では様々な光がごそごそと蠢いている。そう、これが現代の、そして、我々の現実の夜だ。夜空を輝かす神秘的な星の光はすべて地上に落ちたのだ。そして、それは留まることを知らない生命の灯となって、地を這いまわっている。

 そう、我々は美しいものを見てはいけない。決して、見続けてはいけなかった。我々は自分たちの小ささ、汚さ、愚かさを永遠の誇りとすることなどできないのだ。できるわけがない。我々の、自分たち一人一人の現実は「美しい夢」を確保することによって、慎重に、穏やかに、そして確実に、我々に生きる喜びと、偉大さとを与えたのだ。

 ほら、私はいま、泣いている。

 なぜだ。
 わかるか?
 それは、美しいものを見ているからだ。

 それが、こんなにも哀しいのだ。
 こんなにも切ないのだ。
 こんなにも苦しいのだ。

 こんなにも悔しいのだ。

「痛い……」

 私の言葉に、少年は何の反応も見せなかった。
 私の言葉は汚い、あまりにも汚れている、穢れている。
 私の言葉をもう、それ以上、少年に向けることなどできない。

「死にたかないさ」

 彼の言葉はあまりにも「軽やか」に、私には感じられた。

「誰だってそうさ、この世の中に死にたい人間なんているものか」

「なら、なぜ?」

「君は、そう、思っているのかい?」

「理由が必要?」

「原因が必要?」

「そう」

「君はカントが好きだった」

「彼の批判哲学には堅実な努力と、地道な思索が織り上げた才能の美しさがある」

「彼は賢明な人間だった、君はそれが好きだった」

「なぜだろう?」

「僕にはわからない」

「僕の言葉は様々な障壁のために、彼には届かない」

「そして、僕の言葉は様々な障壁を前にして、君にも届かない」

「幾多の困難は既に我々の後ろで死んでいる」

「しかし、僕の言葉は君には届かない」

「なぜだろう、僕にはわからない」

「わかる必要もない」

「僕はやらなければならないことを、やるだけさ」

「人は死ななければならないときに死ぬ」

「そう思ったことはない?」

 少年はあらゆる動きをぴたりと止め、じっと私を見つめた。

「簡単なことさ」

 この世界でも有数の高層建築の屋上で、彼は静かに空を仰いだ。
 私も、彼の見つめているものが見たかった。
 私は空を見上げた。

 少年が両手を広げ、歌うように振り仰いだ夜空。
 私は崩れ落ちた。
 そうだ……。

 そこには、眩いばかりの満開の星空が夜を満たしていた。

「ほら、笑っちゃうだろう」

 少年は笑った。

 私はそれを視界のなかに捉え、彼の淑やかな純白のワンピースと漆黒の黒髪がふらふらと強風に煽られて、いつの間にか、彼の存在以上に「そこ」に生命を湛えていることに戦慄した。私の身体はがたがたと震えだし、目には涙が溢れ、頭の中は目の前の映像ですっかり、もう、なんの余白もないほどに、暴力的なまでの美しさに、完璧に満たされていた。

「大丈夫、もうちょっとで君も笑ってしまう」

 私は嗚咽を漏らすように、彼に向かって放つべき言葉を見つけだそうと、喋ろうと、この一瞬になにごとかを彼に言うために、私の生命を捧げても良いと思えるほどに必死に言葉を探した。

 しかし、探すべき場所はすでに彼によって、彼の美しさによって満たされてしまっていた。その中から、私の言葉を選び出すことなどもはや不可能だった。私は自分の存在を、言葉を、神を、あらゆるものと、ことを信じ、そして、信じることしかできないまま、彼を見つめるしかなかった。あまりにも愚鈍だった。

「大事なのはね、僕は君ではない、ということだ」

「だけど、僕はこうも思う」

「果たして、君は僕ではないだろうか?」

 わからない。

「どう思う?」

 わからない……。
 なにも、わからない……。
 私には、わからないのだ。

「おまえはまちがっている!」

 私は叫んでいた。
 私は自分が叫んだことに気付かなかった。
 私にとって、それは不思議な、奇妙な感覚だった。
 私の言葉はいったい、私のどこからでてきたのだろう?
 私の言葉はいったい、私のなにを意味しているのだろう?

 ただ、私はとても興奮していて、少年の笑顔に苛ついていた。
 身体の震えが止まらなかった。
 涙が止まらなかった。

 そんな私を見て、少年は微笑んだ。

「間違ってたって別にいいんだ」

 そう言って、少年は屋上の縁の縁に立つと、クルッ、と華麗にターンした。

「僕が正しいわけじゃない」

 瞬間、少年は建物の縁を蹴り、後方の空に向かって身を投げた。
 両手を広げ、空を仰ぎ、

 そして、

 少年は消えた。
 落ちていったのだ。

「間違っている……」

 一人取り残された私は強風に煽られながら、ただ、呆然としていた。
 少年のいないこの世界は、とても静かだった。
 私はいまや、独りになってしまったのだ。

 少年の立っていた場所には、一房の真っ赤な花が浮かんでいた。
 静かに落ちてくるそれは、私の前で音もなく弾けると、
 霧が晴れていくかのように、空間に拡散した。

「わからない」

 そのあと、ほんの数分、この世界には薄紅色の雨が降った。


      *      *      *


 静まり返っている。
 なにが、起きたのだろう?
 私がいま見ているものは、いったい、なんなのだろう?

 少女が倒れている。

 左の胸を真っ赤に染めて。
 両手と両腕を地面にだらりと投げ出し、ぴくりとも動かない。
 さらさらと踊っていた長い黒髪は少女の背後にのっぺりと広がり、
 純白のワンピースは虫ピンで固定された昆虫の羽根のように、もう、動かない。

 彼女はもう、動かない。

 一枚の絵のように、それはそこにある。
 いや、もう、それは一枚の絵と等しいのではないだろうか。
 どこの誰が、これを、それと、区別することが可能だろうか。

 とても、静かだ。
 私はそう、思った。
 しかし、こうも思えてくるのだった。

 ここには最初から、音などなかったのではないか?

 私はいつか、この場所で、音など聞いただろうか?
 わからない。
 けれど、いまは静かだ。

 私はいま、静けさを感じ、そして、落ち着いている。
 私は落ち着いている。
 落ち着いている。

 彼女は私に見られていて、もう、動かない。
 私が彼女を見続けている必要はない。
 目を逸らそう、目を瞑ろう。

 そうするだけだ。
 それでいい。
 おやすみ。

 さよなら。