「先生の論文、読ませていただきました」

 僕がそう言うと、先生はうんうんと二度頷いた。

「論文は読まれるためにあるからね」
「ええ」
「焼いて温まったり、メモ用紙に使われるよりは、健全な使われ方だ」

 ハイソなジョークに僕は苦笑する。

「それで、幾つかわからないところがあったんですけれど……」
「幾つか?」
「はい」
「君は天才だ。飲みに行こう」

 そんなわけで僕と先生は居酒屋を求めて、街をさまよった。
 適当に歓楽街をふらつき、適当に決めたのが一件の焼き鳥屋。
 適当にふらつき、適当に選んだにしては、実に順当に店が決まった。

 暗い店内に、静かな空気で、鳥が焼かれている雰囲気は微塵もなかった。
 しかし、カウンタの向こうには日本酒がずらりと並んでいて、圧巻である。
 どうやら、ここの店主の発想もかなりハイレヴェルであるようだ。

 店に入ると、鳥の名前を訊かれた。
 僕は鶏と言い、先生は鴨と応えた。
 何が起こるのかわからないが、期待できる店だ。

「で、論文の話だったね」
「はい、二部と三部で、矛盾する表現があるように思うんですが」

 先生は溜め息をついた。

「君は読めていない」
「え」
「論文を読むというのは、文字を追うということではない」

 はぁ、と僕は息をつき、しっかり理解したはずだがなと心中不満だった。

「他には?」
「あと、一部での記号式と三部の式で、似てるけど異なるものが……」
「ああ」

 と、間髪入れずに先生は呟いた。

「いいね。だけど、わからないかな、そこまで気付いて」
「あの、複雑に入り組んでますよね、特に三部の式は」
「ああ、そうだね、確かにわかりづらい」
「一部と二部の式を変形して、その否定形を与えてるような気が……」

 先生が僕の顔を見る。

「近い。とっても近いよ」
「はぁ」

 僕は黙るしかない。

「組み立てが重要なんだ。もっと大きい部分で見よう」
「えっと、それは一部の仮説が二部にも効いているとか?」
「いや、それは当然だ。前提は後になるほど効果的に活躍する」

 やっぱり、僕は何かを見落としているようだ。

「つまりね、君は条件を把握し切れてないんだ」
「え?」
「そういうことはしばしばある。人生と同じだよ」

 先生は気だるそうにカウンタに肘を落とす。

「なんでもかんでも合わせて考えようとするんだ」
「はぁ」
「大勢の人が、自分にはなにかが足りないと思って生きている」

 僕も気だるげに顎に手を当てた。

「ここで重要なのは、問題を分解して捉えることができない思考にある」
「問題、ですか?」
「そうだ、人間が生きているとはすなわち、問題を見るということだ」

 僕にはわからない部分だ。
 とりあえず、言葉の使用が一致していないのだろう。

「満たされるためには、何かを求めなければならないだろう?」
「はい」
「求めるということは何かを得るということだ」
「はい」
「何かを得るということは、どこか自分に欠けがなければらない」

 なるほど。一理ある。

「漠然と情報や事実を付け足すだけでは、欠けは見えてこない」
「つまり、最初に分解しなければならないと?」
「そう、あるいは分析だ」

 先生はここで、ふぅ、と溜め息をついた。

「最後の一歩は、最初に一歩に左右される」
「ところで先生、論文のことなんですが……」
「ああ、一部と二部はまるごと前提だ。三部でそれを転覆している」

 僕の中で時間が止まった。
 頭の中であらゆるものが分解され、かちかちと再構成された。
 それは身体中を突き抜け、頭から抜けていった。目の奥が重い。

「すごい……」
「君は読解力はいまいちだが、理解力には素晴らしいものがあるね」

 僕は何も喋る気が起きなかった。

「僕が君ほどの頃に必要だったものは、金か時間だ」
「…………」
「金があれば時間は買えたし、時間があれば金はいらなかった」
「…………」

「沢山のものを犠牲にすることは、決して素晴らしいことじゃないよ」
「…………」
「日々を楽しみなさい。それでいい。君は決して後悔はできないんだからね」
「…………」

「そして、楽しめないなら、呪いなさい。それで君は強い人間になれる」

 先生の話は酷い下らないもので満ち満ちていた。
 後悔と、現在のプライドで固められた言葉ばかりだったからだ。
 しかし、その思考の冴え、生み出す論証には独創的なものがあった。

 あれほど明晰な頭脳を持つ先生が、どうしてそんな話をするのか。
 それが、そのときの僕にはまるで理解ができなかった。
 あるいは、やはり、僕の読解力が足りなかったのか。

 それは難しいところだ。
 先生の論文はいま、沢山の研究者に引用されている。
 しかし、先生という人間を知る人はほとんどいない。

 先生は37歳で、自ら、その生命を絶った。

 僕は時折、困惑する。
 考えても、どうしてもわからないからだ。
 先生は、楽しかっただろうか、研究が、人生が?

 もしかすると先生は、満足したから、死んだのではないか。

 無意味な思考。
 時折、自分で自分を慰めるだけにある、過去。
 歳を取るとそういうものが増えていき、どんどん馬鹿になる。

 だが、たまにはそういうものもいい。

「この店はなかなかいい店だったね」

 先生は紐を引きながら、そう言った。

「ええ」

 僕もまた、紐を引きながらそう言った。
 僕は鶏を、先生は鴨を一匹引き連れて帰った。
 あんまりに可愛かったものだから、焼いてしまうことなどできなかった。