二階の裏寂れた便所の個室のドアを僕が開けた瞬間だった。 「何奴ッ!!」 「え!」 とりあえず、僕は急いでドアを閉めた。 個室の中には武士っぽいのが一人立っていた。 地味な着物を身につけ、髭などを生やしているが、結構若い感じの武士だ。 しかし、僕がドアを開けた瞬間に即座に脇差に手が伸びたのだから武士は侮れない。 それにしても、ドアを閉めたら黙る武士というのも不可思議なものである。 いったい、こんなところで武士が何をしているのだろう。 襲ってくるわけでもなしに、変態でもないようだ。 案外、良い奴なのかもしれない。 ただ、武士なだけで。 僕は再び、ドアを開けた。 「あなた、武士ですね?」 そう言って武士を確認しようと顔を上げると僕は、はっ、と息を呑んだ。 武士が抜き身の刀を上段に構えている。 いまにも振り下ろさんばかりだ。 武士の行動力は並じゃない。 「拙者は武士で御座る……」 僕は正直、この男が武士なのか忍者なのかよくわからなくなった。 「ということは、武者だったりするわけですね?」 「そうで御座る」 ござるというのはいったい何用語なのだろう? はっきり言って、何時代に使われていたって不自然だ。 中国人が語尾に「あるよ」をつけるほど不自然だが、それとこれとは別だ。 「そうでござるか……」 僕はそう言って、微笑んだ。 これがなかなか好感触だった。 武士は刀を下ろし、僕を便所の中に導きいれた。 実際怖かったが、たぶん、これを断わっていたら僕は死んでいただろう。 「ところで、こんな裏寂れた便所でいったいなにを?」 「瞑想で御座る」 「ははぁ、瞑想」 「瞑想で御座る」 僕は「二回言った」と突っ込みたかったが、突っ込んでいたら死んでいただろう。 「なぜ、こんなところで瞑想を?」 「瞑想は場所を選ばぬ」 「はぁ、それにしたって、なにもこんな裏寂れた便所で……」 「瞑想は場所を選ばぬ」 まただよ。 「ということは、もしかして、僕、お邪魔でしょうか?」 「否」 「邪魔じゃない?」 「うぬ。丁度、瞑想も終わりにしようと思っていた次第」 「…………」 まさか、「次第」で台詞が終わると思っていなかったので僕は言葉に詰まる。 だから、なんなのかがわからない。 しかし、武士だから、良いや。 「いつから、ここに?」 「三日前」 「ずっと、ここに?」 「うむ」 「食事なんかは?」 「これがあるで御座る」 武士は懐から縄を取り出したが、だからなんなのかはわからない。 「はぁ……、お腹いっぱいでござるか?」 「否」 「これ、食べます?」 「いらぬ」 僕がなにも出さないうちに武士は拒否した。大した侍魂である。 「四日前はどこにいたんですか?」 「ひっそりとな」 「ひっそりと?」 「うむ」 武士は黙った。どうやら、「ひっそり」に関係のある場所にいたことだけは確かだ。 「寂しくないですか?」 「否」 「そういうものですか?」 「うむ」 「いつから、一人で?」 「生まれたときから、拙者は独り」 「はぁ……なるほど」 「うむ」 「いまは、僕といますけど、これは、その、二人ですね」 「否」 「え? ひとり?」 「うむ」 「あー、わからないでござる」 「致し方の無きことよ……」 武士は僕を見据えたまま、にやり、と口元に笑みを浮かべた。 「ところで、寂しくないんですか?」 武士は、同じ質問には二度応えぬ、とでも言いたげな表情で憮然とした。 「いや、失礼」 「否。言うに及ばず」 「はぁ……」 僕は恐縮した。 武士の言う言葉のひとつひとつはさっぱりだが、武士の存在が素晴らしかった。 「お主」 「はい?」 「何故、その扉を開けた……?」 その扉って、裏寂れた便所のドアを……ドア、まあ、確かに扉だ。 さすが武士、言葉にもなんだか含蓄を感じる。 侮れない。 「しかし、どうして僕はその扉を開けたんだっけな……」 「ここはどこだ?」 「ここ?」 「うむ」 そのとき、僕にはもう、そこがどこであるのかわからなくなっていた。 「どこでしょう?」 「瞑想は時も場所も選ばず、ただ、委ねるのだ」 「委ねる?」 「うむ」 「なにに?」 武士はまたも僕を見据えたまま、にやり、と笑みを浮かべた。 「お主にこれをやろう」 そう言って武士は脇差を僕に差し出した。 「刀……?」 「否」 「え?」 「刀ではない」 しかし、それはどうやったって刀だった。 僕はそれを受け取った。 ずしりと予想以上の重量がある。 「この扉を開けよ」 「どの?」 武士の言う、「この扉」などというものは僕には見当たらなかった。 「…………」 武士はなにも言わなかった。 「しかし、僕がこれを貰ってしまっては、あなたは……」 「拙者には、不要」 「はぁ……」 「不要を持つ、愚かさゆえにな……」 このとき、僕は知った。 この武士はかなり強い。 そして、なににもまして孤独だ。 たぶん、強すぎるのだ……。 「そして、それは、」 ふっ。 瞬時になにかが、すべてが掻き消えた。 僕は眩暈に似たものを感じ、気がつくと裏寂れた便所の扉の前に立っていた。 左手には刀、足許を見ると一本の縄がひょろりと落ちていた。 僕はそれを拾い上げ、腰に巻き、そこに刀を差し込んだ。 僕は溜め息をひとつ、吐き出した。 さあ、まずはなにをやろうかな。 |