彼女の住まいは僕の自宅から近い。僕の調子にもよるけれど、歩いて向かうと大体、煙草を一本吸いきる距離にある。約九分。だからかどうだかわからないけれど、彼女はけっこう頻繁に僕を呼び出すし、時間を気にせずに呼び出すものだから、その日も僕は23時をまわった頃に煙草を一本吸いながら彼女の住まいに向かうのだった。

コオロギが鳴いているなかカンカンと彼女のアパートの階段を上っていると、あまりの情緒に僕はドキドキしてしまう。僕がそれを言うと「じゃあ、一緒に銭湯に行こうか」と彼女は言う。パリッとした白いシーツの布団の脇に蚊取り線香を焚いて金魚の風鈴の音を聞きながら弱で回した扇風機に首を振らせてスイカを食みつつ巨人戦でも観ようじゃないかと彼女は言うのだ。そんなことになったら多分、僕は彼女の住まい以外のなにも信じられない人間になってしまうに違いない。

僕がそう感じているということを彼女は知っているから、彼女は僕を土曜日の18時に呼び出すということはしない。金曜日の23時なのである。僕が彼女の住まいの扉を開けると彼女はドビュッシーの「雨の庭」をベッドに寄りかかりながら聴いていた。ああ、これは普通じゃないなと彼女を見ると着ているシャツが濡れていた。

僕が「どうしたの?」と尋ねると「これ、買ってきたばっかり」と、諦めた口調で彼女はスーパーマーケットの袋を指差した。「なのにさ」と彼女は続けて言う。「クッキーは湿気ってるし、ビールは凍ってて爆発するし、がっかりしてたら親から電話かかってきて泣かれちゃったよ。君さ、こういうことって信じられるかい?」と僕のほうを漠然と見ながら言うのだった。僕は靴紐を緩めながら「まずクッキーでビールを飲むっていうのが信じられないよね」とかなんとか言って彼女の住まいに足を踏み入れた。

僕はおよそ信じられないことでも信じることのできる人間なのだ。