年月日、不肖。無風無雲。
 空を見上げ、地に横たわる。土は冷たい。

 先生。先生に質問したいことがございますが、どうやら、それも叶わぬことのようでございます。それはそれで哀しいことではありますが、いまはもうそのようなことを言っている時分にはございません。しかしながら、小生も人と生まれ、人として生きて参りました。

 感じ入ることも少なからずございます。かようなことにどれほどの価値があるとも思えませんが、小生の生きている時間を削り、そして、死に近づいている時間を利用し、できるだけ、小生の気持ちを明確に記しておきたいと思います。

 あらぬ、という表現が「存在する」ということ、そして、存在するものの否定、ないし、その欠如を意味する副次的な表現であるということは、小生も理解し、確信するところでございます。

 しかし、そもそも、ある特定のものを指して、それが「ある」と明晰な仕方で断定すること、それすらも非常に困難な作業ではないのだろうかと思います。そのようなことは果たして本当に可能なのでしょうか。なぜそのようなことをする必要があるのでしょうか。

 それがそこに「ある」と言明することが、いったい、小生にどのような判断をさせたのか、そのこと自身に小生は悩ましさを感じております。しかし、この悩ましさは、あらぬことがあらぬ、ということがどのようなことと意味するかということを虚構のなかに追いやった結果かもしません。

 小生のような凡才の悩ましさなど、この程度の悩ましさであります。笑ってしまいます。そのようなとき、小生のなかの小さな振り子は右に少しだけ振れたのち、ふっと重りを支えていた糸を失い、消滅してしまいます。

 振り子は、どこにいってしまったのでしょう。
 そして、そもそも、どこからやってきていたのでしょう。

 いま、小生の頭上、眼前に広がる広大な宇宙と、その天球に浮かぶ煌びやかな星々と、それらが織り成す美しさとを感じたとき、小生には、もう、なにがなにだかわからないということすらどうでも良いというのが実際なのです。

 それは継ぎ目のない、それが確認できぬほどに透明な硝子の半球の内側に立たされているような、どこかしら異常で、なにかしら尋常な、わかっているのに、なにもわかっていないという、どこか心許無いだけの感覚を小生に与えます。

 先生、小生はいったい、どこに立っているのでしょうか。
 いえ、なにに、立っているのでしょうか。
 小生には、もう、わかりません。

 だから、横たわっております。