空が灰色に淀む。
 陽は雲の上にあることだろう。
 微風。生温い肌触りの風が小生に感じられている。

 先生。今日、不思議な少年に出会いました。

 少年と交わした言葉は、大事な部分は忘れられず、大事ではない部分は思い返すことができません。奇妙なことですが、それは不思議なことのように思います。たしかに、少年の言葉のあるものは小生に突き刺さり、小生を責め、苛ませます。

 しかし、本当に恐ろしいのは思い返すことのできないところにあるように思われるのです。小生はそれに気付いたとき、耐え切れないほどの息苦しさに悶えました。それはどのようにしても表現できないのです。苦しみとも、悲しみとも、悔しさとも。

 そして、小生がそのことを考えれば考えるほど、少年の姿が、その存在が、街灯に浮かぶ蛾の影のようにぼやりと浮かび上がるのです。しかし、小生が目を凝らすとその少年の影は霧散してしまいます。

 そして、その霧自体が鮮明となって、ぼやりと小生に覆いかぶさってきます。その瞬間(と言っても、その瞬間を見極めることはできないのですが)、小生は目眩と思しきものを感じ、次の瞬間、ふっと目を覚ますと小生は街灯から少しばかり離れたところに立っております。その繰り返しなのです。

 先生、恐ろしいのです。

 どうにかして先生にこの気持ちをわかって頂きたいなどと傲慢なことは申しません。ただ、ただ怖いのです。それはもう、このようにして、どうにかして、書き留めておかなければ、吐きだしてしまわなければ、どうにもならないことのように思われるのです。お許し下さい。小生はあの少年が怖いのです。

 小生には、ただ、黙ってこれに耐えることなど到底できそうにないのです。しかし、言葉になりません。それは原理的に、本質的に言葉にならざることなのかもしれません。そのようなことがあるのでしょうか。あって良いのでしょうか。はっきりしたことはわかりません。ただ、真相を語ろうとする小生の言葉はみな、嗚咽となってしまうのです。

 少年と会っていた時間は数分とも数十分とも取れます。そして、どちらでも大差なきことかと思います。小生にはすでに時を計る術などございませんし、出来事を比較するほどの変化も持ち合わせてございません。

 このようなことですから、小生が本当の、本来的な意味で少年と会っていたのかどうかということについては、はなはだ小生自身も疑問に思います。しかし、そのような事実と呼べるようなことも、小生にとっては価値のないもののように思います。いまや、事実にどれほどの価値があるのか、小生には判断できません。このことはお分かりいただけるかと思います。

 少年は小生に出会うと、数秒をおいて、このように言いました。
「僕はこれから死のうと思っているのだ」
 と。

 少年はとても静かな物腰で、表情に陰りはかほどもありませんでした。むしろ、毅然としておりました。小生が道に腰掛け、川の流れに目を奪われていたとき、唐突に現れた少年は小生に出会うなり、そう言ったのです。あの空間、あの時間、あの少年といるその場所のその出来事は、小生の短い人生における超絶した一瞬でありました。

 何故、少年がそのようなことを小生に突然に言ったのかということを、先生は不思議に思うかもしれません。小生もそう思います。どうして、少年はそのようなことを小生に言ったのでしょう。そして、どうして、小生は少年のその言葉だけをこのように鮮明に思い返すことができるのでしょう。思い返したものしか、思い返すことができないのです。

 不可解です。この世界にこれほどまでにわからないことがあるとは、知りませんでした。いま思い返すに、先生は何度も小生にそのことを説いて下さいました。そして、小生も本当にわかったつもりになっていました。わからないことすら、わかった気でいたのです。しかし、実際には、なにもわかってはいなかったのです。

 一時はそのことを悔やみましたが、しかし、いまでは、それでも良かったのだと思えます。この悔しさがなければ、小生は、もしかすると先生のことを思い返すことすらできなかったかもしれないからです。この想いは非常に強いため、消してしまいたいといった衝動に晒されるものではありますが、同時に、なにか、小生に大事なものを与えているようにも思うのです。

 先生。これだけを伝えたいわけではございません。少年が小生に与えた戦慄というものは、この程度のものではございません。しかし、いまの小生に、それを書き記すことは無理なようです。先生、小生は怖かったのです。

 少年が怖かったのです。このように書き記してきたその感情、その気持ちは、もう、言い表すことができません。このようなことになってしまい、このようなことをしてしまい、不甲斐ないばかりです。小生は怖かったのです。

 あの気持ちを「怖い」と表現している小生はいま、なにを感じているのでしょうか。
 怖かったのです。ああ、小生には、その少年がわかりません。
 いまでも、小生は、その少年を恐れているのです。