ばーん。
   どすーん。


 ばーん。
   どすーん。


「今日もまた、次々と人が殺されていますね」
「ええ、そのようですね」

 貴婦人は純白の日傘をふりふりそう言った。

「座られたらいかがですか?」
「あら、そういうときは黙って椅子を引いてもらえませんこと」
「はい?」
「座ればどうですかなんて、普通、言葉にすることではありません」

 僕ははあ、と頷いた。

「紳士は微かな態度で椅子を勧めるものです」
「じゃあ、僕は紳士ではありませんね」
「誰でもわかることも、口にするべきではありません」

 僕は黙って立ち上がり、椅子を引いた。
 貴婦人は優雅にその椅子に腰掛け、窓の外に目をやった。
 僕は紳士ではないので悪戯してやろうかとも思ったが、やめた。

 思いついたのは紳士じゃないだけにあんまりな悪戯だったからだ。

「あの、日傘をお閉じになられたらいかがですか?」
「ええ、私もそうしたいのですが……」

 貴婦人は恭しい仕草で言葉を切り、窓の両脇に視線を向けた。
 僕は黙ってレースのカーテンを閉め、貴婦人にかかる陽光を遮った。

「これは、ありがとう」

 貴婦人はそう言って、日傘を閉じた。
 そもそも、カフェに入った後にも日傘を差しているとは、これいかに。
 僕は恨めしい仕草で店の奥にいる店員を見た。

 見ざる、聞かざる、言わざる。

 三者三様の態度で傍観を決め込んでいた。
 端正に黒服を着込んだ男達がなにをふざけた真似を。
 僕は嫌がらせに手をさっと挙げて、ウェイタを呼んだ。

 聞かざると言わざるが顔を見合わせ、なにかを相談し始めた。
 その静かな、しかし、激しい争いは終わることがなかった。
 結局、テーブルにやって来たのは、見ざるだった。

「こちら、当店自慢のレモン・ティで御座います」
「あら」

 僕の前に座る貴婦人は窓の外から顔を戻し、目を輝かせた。

「是非、ご賞味下さいませ。もちろん、代金は頂きません」
「まあ」
「では、ごゆるりとお楽しみ下さいませ」

 ウェイタは有無を言わせず、説明をすると去っていった。
 僕が言うのもなんだが、素晴らしい手際だった。
 最小限の接触で貴婦人を回避するとは。

 もちろん、ウェイタは僕にウィンクをすることも忘れなかった。


 ばーん。
   どすーん。


 銃声と、何かが倒れる音。


 ばーん。
   どさり……。


 銃声と、人間の崩れ落ちた振動。


「まあ」

 貴婦人は可愛らしい小動物でも見つけたかのような声を上げた。
 窓の外、数メートルの地点でみすぼらしい男が脳みそをぶちまけていた。

「僕の国では、」

 僕はレモン・ティを飲み飲み、貴婦人相手に独りごちた。

「人の生命は大事にしなければならないと教えられます」
「この国でも、同じです」
「そうなんですか?」

 僕は少し驚いた。
 この国、この環境にいると、そんな当たり前のことにすら驚いてしまう。

「ええ、生命とは尊いものです」
「ということは、つまり、教えられているが実行されていないわけですね」

 僕は窓の外を見た。
 人が次々に殺されていた。
 とても、人の生命が大事に扱われているとは思えない。

「いえ、違います」
「失礼ですが、ではどういうことですか?」
「人の生命は尊い、彼らもそのことを理解しています」
「じゃあ、なぜ?」
「あなたは、この国を根本的なところで誤解なさっているわ」

 貴婦人はそう言うと、レモン・ティを一口飲んだ。
 僕の飲んでいるレモン・ティよりも美味しそうに見えた。

「彼らは簡単に人を殺します」
「ええ、間違いない。それは間違いありません。大変なことです」
「しかし、彼らは人の生命を軽んじているわけではありません」

 理解しがたい。

「この国では、あらゆる生命の価値は平等なのです」
「…………」
「一切の差別は、この国では許されないことなのです」

 僕は押し黙った。

「むしろ、差別という言葉を知っているのが、」

 貴婦人はレモン・ティを飲む。

「私だけです」
「…………」
「他の人たちに、そのような概念はありません」
「だから、この国の人たちはあなたを恐れる」
「その通りです。その他にも理由は幾つかありますけれどね」

 貴婦人は微笑んだ。

「しかし、無駄に人間の生命が奪われている」
「無駄?」
「ええ、その通りです。この国ではこうも唐突に死が訪れる」

 窓の外でまた、銃声が鳴り響いた。

「いえ、違います」
「なにがですか?」
「まず、死とは唐突に、理不尽に、絶対的に訪れるものです」

 僕は憮然として、頷いた。否定はできなかった。

「そして、彼らは共に理性と節度のある人間です」
「そうでしょうか?」
「会ってみればわかります」
「残念ですが、会おうとは思えませんね」

 まあ、と言って貴婦人は驚いた。その目は大きい。

「あなた、それでいて、そんなことを……?」
「ええ、まあ、そういうことになりますね」
「呆れました」
「そうかもしれません」

 僕は苦笑した。

「しかし、それは死ぬとどうなるかを知るために死のうとするようなものです」
「詭弁です」

 半々で、否定できなかった。

「あなたは無駄と言いましたが、彼らは無駄に人を殺したりはしません」
「そうなんですか?」
「ええ、その証拠に彼らは私を殺しません」

 貴婦人はやや高めのトーンで笑った。
 どうやらジョークのようだ。
 笑えない。

「国にはルールというものがあります」
「ええ、確かにそうでしょう。国ごとにいろいろなルールがある」
「この国では、彼らがルールです」
「どういう意味ですか?」

「彼らがルールを破れば、彼らはルールによって殺されます」
「ええ」
「彼らが死なない限り、この国のルールは守られている」
「…………」
「つまり、彼らのルールこそが、この国のルールです」

「そのルールは誰が最初に決めたのですか?」
「この国の国民の総意でした。いまは昔、三十年前のことです」
「ルールに反発すると、ルールに違反したことになるのですか?」

 貴婦人は優雅に笑う。

「なにをおっしゃるんですか。それでは独裁ではありませんか」
「ということは」
「ええ、当然、そんな馬鹿なルールはありません」
「反発するのは自由ということですね?」
「ええ。しかし、ルールを覆そうとした人はいまだ現れていません」

「つまり、ルールがあり、彼らはルールに従っている」
「そうです。そして、彼らがルールを破れば、彼らは死ぬ」
「彼らが生きている限り、この国のルールは守られている、と」
「そうです。国民はルールに従い、そのルールに満足しています」
「それだけの恩恵がある、と?」
「ええ。どちらかというと、損失がない、というほうが正確ですが」

 論理的には確かに正しい。
 ただ、

「現実的ではありません」
「現実的? その言葉になにか意味がありますか?」
「人々は理不尽な死を恐れて生活しなければならない」

「いえ、ルールを守っている限り、死は訪れません」
「ルール違反に訪れるものが死だというんですか?」
「そうです。死は常に我々のそばにあります」

「そんな……」

 僕が驚いたのは、それが厳密に間違ってはいないことだ。

「この国から、逃げることはできるんですか?」
「ええ、当然、それは国民の自由です」

 ますます、確かなシステムではある。

「あなたはいま、逃げる、と言いましたね? それは偏見です」
「ええ、そうかもしれません。僕が逃げ出したかったものですから」

 貴婦人は笑った。

「この国は平和な国です」
「見た目からは、そうは思えませんけれどね」
「そうですか? あなたの国にだって死体や死骸はあるでしょう?」
「ええ……」

 僕は言いよどんだ。確かに、僕の言葉に嘘はない。
 しかし、それらは隠されていて、普段目にすることはないのだ。

「この国には、乱暴も窃盗も詐欺も、犯罪はほとんどありません」
「…………」
「人々はルールを守り、穏やかに、幸せに暮らしています」

 僕はレモン・ティを飲んだ。冷えていて、舌にざらっとした。

「ただ、明確な死が時折、無法者に訪れるだけです」
「しかし、殺された人にも家族がいたはずでしょう?」
「いた人もいるでしょう」

「家族に怨みは残るはずです。復讐は復讐を駆り立てる」
「それで?」
「殺し合いはいつまでも止まらない……」

 貴婦人は声をあげて笑った。

「あなたの国はなんて殺伐なんでしょう!」

 僕は幾つかの感情を通り越して、貴婦人の言葉に呆然とした。

「本当にそんなことが起きているのですか? 信じられない」
「……ええ、特別、変な考えではないと思いますが」
「そうですか、ここで互いの国の価値観をぶつけあってもしょうがないですね」

 僕は頷いた。その通りだ。

「では、少しアプローチを変えて、あなたの国に死刑はありますか?」
「ええ、あります」

 ないところもあれば、あるところもあるとは言わなかった。

「死刑囚の家族は国を怨み、国を殺そうとしますか?」
「正確にはわかりませんが、そういったことは聞いたことがありません」
「それと同じではありませんか」

 僕は頭の中でまた、貴婦人の話を展開しなおした。

「しかし、それはそれだけのことを死刑囚がしたからです」
「あなたは自分の言葉を自分の立場でしか見られていません」
「…………」
「あなたの国でなにをすれば死刑になるのか知りませんが、」

 貴婦人は窓の外を眺めた。

「この国では、ルールを破るという行為は死に値します」
「だから、恨みは残らず、復讐も起こされない、と?」
「その通りです。同じことなのです」

 ぱーん。
   どさり……。

「しかし、殺されすぎではありませんか?」
「そうですか?」
「確かに矛盾はないかもしれない、ただ、これでは国として成立しません」
「それは一面的な見方です」
「そうは思えません」
「まず、この場所、ここが比較的その頻度の高い場所であるということ」

 僕は窓の外を見た。普通の街角に見える。
 カフェテラスが広がり、その向こうには茶色い土のストリート。
 雑貨屋や飲食店、そして、高層ビルが雑然と目を賑わせている。

「あとは、あなたの相対的な視点による感じ方の問題でしょう」
「どういうことですか?」
「質問のお好きな方ですね?」
「ええ、曖昧で知らないことが多いものですから」

 貴婦人は苦笑した。貴婦人らしからぬ態度だった。

「あなたの国では過剰に人が大事にされているのでありませんか?」
「どうでしょうか? 過剰に大事にするだけの価値はあります」
「この国では、そのような差別的な見方はしません」

 僕はまたも憮然とした。

「あなたの国でも、たとえば病院では沢山の人が死んでいるはずです」
「ええ、そうだと思います」
「しかし、大勢の人はそんな事実を気にしていない」
「かもしれません」
「しかし、ここから見える景色、それは世界の真実を持っています」

 貴婦人の言葉が急に飛躍し、抽象的になったように感じた。

「この国でもっとも大事なものはこの景色なのです」
「…………」
「そして、この国の人たちはそれを隠そうとはしません」
「しかし……」
「大事なものが、常に、しっかりと受け止められている」

 貴婦人の表情は複雑だった。

「この国は、真摯なる精神に満ちているのです」
「ええ、怖いほどです」
「人間的であろうとすると、ある面では人間から遠ざかるのです」

 貴婦人の言葉はなにかを包み込んで発せられた。

「この国はきわめて自然と調和した美しい国です」
「その点では、同意できます」
「でしょう。豊かな緑と、時には危険ですらある動物たちとの共生」
「ええ、同時に人工的な建物も自然と共に立ち並ぶ光景」

「相反するものどうしの雑然とした美です」
「僕は、懐かしい、という感覚を最初は受けました」
「最初だけですか?」
「ええ。いまは、恐ろしい……とても、耐えられるものではありません」

 貴婦人は窓の外を見つめた。
 数人の男達が道端で死んだ男の死体を処理していた。
 子供達が野次馬で集まり、犬が男の飛び散った脳みそを嗅いでいた。

「僕は自分がこの国を何故、これほど恐れているのかわかりません」
「私にはわかります」
「何故でしょうか?」
「慣れていないからです」

 貴婦人は優雅に微笑む。
 冗談とも、真実とも思える表情。
 僕はテーブルに視線を落とすと、溜め息をついた。

「慣れてしまえば、恐ろしいものも恐れられない。そういうことですか?」
「これは、一本取られましたね」
「それでは、国民を騙しているようなものだ……こんな、危険な国……」

 貴婦人はふふふと笑った。

「赤ん坊は産まれると同時に泣きます。世界がそもそも怖いからです」
「…………」
「恐怖を感じない人間などいるでしょうか?」

 僕の身体は小刻みに震えだしていた。

「この世界に産まれた以上、どのような恐怖に慣れているかが問題なのです」
「しかし……」
「それは、どの国においても似たようなものでしょう」
「この国はおかしい! 違う! 絶対に間違っている!」
「国民はみな静かに、幸せに暮らし、満足しています」
「しかし、僕の国は安全です。みな、自由に生活しています……」

 窓から差し込む陽光は以前よりも柔らかい、優しいものになっていた。
 それとは対照的に貴婦人の表情は強張り、目付きは鋭いものになった。
 随分、長い沈黙だった気がする。貴婦人は口元だけで笑った。

「安全に、自由、ですか?」

 僕は黙って、彼女の言葉を待つしかなかった。
 極度の集中と、張り詰めた緊張……、どうにもできなかった。

「そのような言葉を吐けるのが、あなたのような立場の人間達なのでしょうね」

 怖い……。
 恐ろしい……。

 この時の僕の気持ちを言葉で表現すると、馬鹿みたいだがたぶんそうなる。

「その言葉の意味を、あなたは形作ることができますか?」

 なんなのだろう?
 この、僕の目の前に座る、白いドレスの貴婦人はいったい、なんなのだろう?

「もう、あなたとお話しすることは御座いません」
「え?」

 貴婦人はすっと立ち上がり、店を後にした。
 からんからんと、ドアに付けられた小さな鐘が鳴る。
 店の中に、すい、と外の風が流れ込み、僕の足元をなめた。

 あっという間の出来事だった。
 僕はあっけにとられて、動けない。追えない。喋れない。何も、聞こえない。
 あとに残された僕は、本当にいま、自分は貴婦人と話していたのかと疑った。

 窓の外。僕の張り付いた視界の隅に変化があった。
 白いドレスの貴婦人が、白い日傘を差して優雅に歩いていた。
 通りの人、動物、植物、音、光、時間も空間も、ぴたりと静止したようだった。

 止められた世界。

 そして、僕も、同じように、貴婦人が視界から消えるのをじっと待った。
 信じられない出来事だった。僕の背中はじとっと汗で湿っていた。
 なんだったのだろう? なんだったのだろう?

 いま、僕はいったい、なにをしていたのだろう?

「ああ、わからない……、わからない……」

 なんだろう? なんなのだろう?
 僕がいままで把握していた世界が崩れ落ちて笑っている。
 僕はいまなにをしていたのだろう? わからないぞ? なんだ?

「お下げします」

 見ざるがいつの間にかテーブルに寄り、僕の目の前のカップを片していた。
 ふと、思い立ったように僕が彼を見上げると、見ざるはふいと顔をそむけた。
 カウンタを見ると、聞かざると言わざるがお互いの口と耳を押さえ、抱き合っていた。

 僕は立ち上がった。

 ここにいてはいけない……動かなければ、ああ……。
 自分の国に帰りたい。僕の国はやはり、僕のためにあったのだ。
 いい経験だった。僕はいい経験をしたのだ。だから、そう、帰ろう、帰りたい。

「帰ります」

 僕はカウンタに寄りかかり、その向こうで微笑を浮かべる、「見ざる」に言った。

「ええ、それがいい」

 こともなげに「見ざる」は言った。
 僕は溜め息をついた。

「あなたは、不思議な人だ」
「ええ、その通りです。私は不思議です。しかし、あなただって不思議だ」

 不思議な男だった。
 僕は右手の奥に備え付けられた洗い場を見る。
 聞かざると言わざるが、粛々とカップを洗っていた。

「このお店に裏口はありますか?」
「ええ、ございます」
「そちらから出たいんですけど、大丈夫でしょうか?」

 ふふふ、と「見ざる」は笑う。

「ええ、大丈夫ですよ、比較的安全ですし。そこからは西門が一番近いです」
「わかりました、ありがとう」

 僕は頭を下げた。

「最後に幾つか、質問にしてもいいですか?」
「ええ、構いません。どれが最後ですか?」

 それは、どこかで聞いたことのある喋り方だった。
 もう、思い出せないけれど、僕の知っていたものに似ている口調だった。

「僕が出逢ったのはいったい、なんだったのですか?」

 その質問に「見ざる」は僕の目を見つめ、静かに首を横に振った。

「わかりました」
「あなたは素晴らしい経験をなさいました、それは確かです」
「ええ、それは僕も実感するところのものです」

 「見ざる」は丁重に頷いた。

「それと、もうひとつ……あなたはいったい、何者ですか?」
「…………」

 「見ざる」は黙った。

「あなたは何かを知っている。他の人たちとは違う、なにかを」
「ええ、知っています」
「なにですか?」

 僕の確信的な緊張とは裏腹に、「見ざる」はすんなりと応えた。

「過去です」
「過去?」
「そうです。私は三十年前という革命的な過去を知っているのです」

 僕は目を凝らした。

「あなた、何歳ですか? 若いですねぇ」

 ははは、と「見ざる」はおおらかに笑った。
 聞かざると言わざるがこちらを向いて、目を見開いて驚いていた。

「そう、しかし、これで結構な歳なんですよ」
「なるほど、確かに」

 言われて見るとそのようにも見えるから、年齢とは表現である。

「私には思い出があります。婚約者だっていたんですよ」

 僕は黙った。
 実に唐突な話だ。

「優しい、頭の良い、そして、美しい人だった」
「過去形なんですね」
「ええ、それは過去、思い出の中で生きているのです」

 いや、すいません、と僕は謝った。
 いえ、と言って、「見ざる」は受け流す。

「まあ、私にとってはただの可愛らしい女の子だったんですけどね」
「その方はいま、どうなさっているんですか?」
「さあ、わかりません」
「そうですか」

 僕は振り返って窓の外を見た。
 男達が頭のない死体を運んでいる。
 どうやら、頭を打ち抜かれるのが神の罰のようだった。

「でも、たぶん、時折、紅茶とか飲んだりするんでしょうね」
「かもしれません」
「心配ですか?」
「そうじゃない、といえば嘘になりますが……」

「私が心配できるようなところで、彼女は生きていませんからね」

 彼はそう言って、目を細めて微笑んだ。
 僕は天を仰いで、首を振った。

「いやはや、この国は信じられないことで満ちている」
「?」
「いえ、すいません。少し、安心したんです」

 僕はそう言って笑った。

「神もまた、人間に然り、ともに死ぬ運命にあり」
「面白い詩ですね」
「稚拙ですが、そういってもらえると幸いです」

 彼は溜め息をついた。

「これは僕の願望を込めた、貴方のための詩です」
「ありがとうございます」

 僕は荷物を持ち上げ、彼に言った。

「レモン・ティ、美味しかったです、驚きました」
「特別製ですから」

 彼は笑った。
 僕は裏口に向かう。
 暗い厨房を抜けると突き当たりの壁に小さい窓のようなドアがあった。

 ほぼ正方形の小さい軋む木製のドアから、僕は身体を押し出した。
 そこは路地裏、茶色い地面とコンクリートの壁だけがあって、薄暗い。
 僕はそこに立つと明かりのあるほうに、馬鹿みたいに単純に進んでいった。

 たぶん、そっちになにかあるはずだ、という期待と確信。
 僕はあっという間に、自分の国の地を踏むだろう。
 途中でこの国のルールを侵しさえしなければ。

 僕がドアを出る直前、彼は、僕にこんなことを訊いた。

「あなたの国は美しいですか?」

 恭しい態度で、彼は私を見据えた。
 僕は片足をドアに突っ込んだまま、彼に振り返る。

「国って、なんですか?」
「なんでもいいんですよ、平たいことをいえば、あなたの帰る場所です」

 彼は微笑み、僕は、うーん、と頭を捻った。

「忘れちゃいました、帰ってから考えます」