時計が信用ならない。僕はこれまで、たしかに時計に裏切られてきた。そして、それと同程度に、僕もまた時計を裏切ってきた。それでも、僕はこの人生の大体において、おおむね時計を信用してきたし、僕の時計に信頼も寄せてきたのである。しかし、ここにいたって、その時計がどうもはっきりしないのだ。というのも、僕の部屋にある四個の時計のそれぞれが、実に個性的な時刻を表示しているからである。

僕も長きにわたって時計と生活をともにしてきたけれど、こういうことはあまりなかった。もはや多数決による審議すら不能な事態に陥っている。もしかしたら、いまは昼なのかもしれないし、いまは夜なのかもしれない。もはや、時計は語らない。これは時計による些細な悪戯かもしれない。それはいまの僕には判断できないけれど、そのうち明らかにしないといけない問題ではある。

僕は時計の自主性をできるだけ尊重したいと常々思ってきた。だからこそ、時計を放任する傾向はたしかにあった。誤差15分、それは僕にとっては誤差ではなかった。時計の個性の範疇であった。しかし、そのような根拠のない許容が度外れてきたときに、いまの僕のような立場に人は立たされるのかもしれない。僕にとって、それはきゃっきゃと楽しめる状況ではないけれど、しかし、むかむかと苛立たされる状況でもない。

ただ、いま一度、僕は僕と時計との関係を修復する必要があるのかもしれないとは思っている。たぶん、時計の気ままな振る舞いは僕の好みを反映しているのだ。僕は時計の馬鹿正直な気ままさを好むし、時計の馬鹿正直な狂い方には憧れすらある。だから、僕は時計を「正確に」したことが一度もない。いや、しようとしても僕にはできないだろうと思う。そんなわけだから、ことここにいたっても、僕は僕と時計のどちらの時間を修正するか、大いに悩んでいるのである。