洒落た喫茶店だ。いや、こういうのはオープン・カフェって言うんだっけ? まあ、とりあえず洒落ている。賑やかだ。僕の印象を率直に言うと「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」みたいだ。ルノワールの不朽の一枚。モンマルトルの華やかな情景。しかし、あれはカフェじゃない、ダンスホールだ。ちょっと、素人の僕には踊るスペースを見つけだすのに苦労しそうな感じがする。

 僕は、目に写る模様に色がごちゃごちゃとあるというのは、あまり、好きじゃない。だから、僕は印象派の画家は素晴らしいし、その絵画も美しいとは思うけれど、長いことそれを観ていると哀しみを感じだすので、あまり、好きじゃない。いや、好きなんだけれど、毎日だと食し飽きる、そんな感じだ。その画風に反して、大事なものが、なにも隠されずにはっきりと映し出されているように感じてしまう。僕はそれを前にして立ち竦む。卑怯な絵画だといつも思う。

 それにしても、ここには久しぶりに来た。大勢の人がいて、女性がその大半を占めているように思う。それも若い女性だ。もしかすると、女性のように見える男性が混じっている可能性は否めないけれど、まあ、大体、見た目が女性ならば女性だろう。「女性」という言葉の定義などその程度のものだ。大した意味などないし、それで問題もなければ、障害もない。ちなみに、僕はそれほどのフェミニストでもない。思うがままなだけなのさ。

「頭の休まる暇がない。疲れるな、ここは……」

 僕は溜め息をついた。僕は時間通りについているのだが、僕を呼びだした側の人間が遅刻している。まあ、僕が遅刻したわけではないから別に構わないけれど、ここの代金は向こう持ちにしてもらおう(あまり知られた話ではないが、僕はそういう人間なのだ)。相手が到着したのは約束の時間から30分遅れた正午過ぎだった。

 僕はその間にクラブ・ハウス・サンドを食し、コーヒーを二杯飲んだ。相手が来たときにはさらに店内は混雑しだしており、端的に煩かった。この空間を絵にして擬音を書き込んだら、たぶん、このコマは真っ黒になってしまうだろう。そんな感じだ。逃げ出したいほどだった。

 ヒナは僕の対面の席に腰掛けた。昔の面影がある。幸の薄い顔だ。あまり変わっていない。何かしら疲れたような表情をしているが血色は良かった。咄嗟に手首を確かめたが、傷などもないようだ。まあ、いまどきリストカットは流行らない。見たところ薬をやっている雰囲気もないし、オーバドーズの心配もなさそうだ。つまり、端的に暗い男だ。それはそれで可哀想と言えるかもしれない。まあ、余計なお世話だと言われそうな感じでもある。あえて言うならば不眠症っぽい感じはするが、単に寝不足なだけかもしれないし、その可能性のほうが高い。

「久しぶりです」
「うん、そういうことになる」
「変な喋り方は相変わらずですね」
「ヒナでいいのかな?」
「ええ」

 ヒナは微笑んだ。それを見て、僕は少し落ち着いた。
 ヒナの笑顔は周囲の喧騒を少しの間だけ、僕から忘れさせた。
 初めて自分が緊張していたのだということを認識する。そして、微笑んだ。

「ちょっと、食べて飲む時間があったよ」
「ええ、すいませんでした、遅れて。もちろん、代金は僕が持ちます」
「俺が出すよ。俺が食べたものだし」
「いえ、僕が呼んだんですから。遅刻ですし」
「じゃあ、ご厚意に甘えて」

 ひととおりの常套句を交わして、僕は伝票をヒナの前に移した。

「それで、どうしたんだ、急に呼び出して?」
「ええ……」

 僕はヒナが喋るのをじっと待った。それが会話の定石だ。一般的なお喋りに慣れてしまっている人間はこれができない。僕がヒナに呼び出されたのだ、ヒナになにか喋りたいことがあるに決まっている。それを相手の調子でゆるゆると、さらさらと聞いてやらなければ、僕の価値は無いといえる。何にせよ、問題を解決するのはヒナなのだ。というわけで、

「まあ、とりあえず、なにか食う?」

 僕は息を吐いて、背を伸ばした。長い思考は逆に言葉を失わせる。ヒナが喋りやすい状況を作ってやらなければ、まあ、ヒナが僕を呼び出した価値は無いといえる。ヒナの悩んでいる問題は確かに重要なものかもしれないが、そこまで深刻なものではない、思考を変えれば方法はあり、気楽に物事にあたることが可能なのだと示唆することは相談のひとつのテクニックとして有効だ。付け加えるならば、これは詭弁なのだけれど、はは、問題じゃない。

「じゃあ、なにか、食べましょうか?」
「ちなみに俺はもう、食べたんだけどね」
「なにか食べませんか? おごります」
「じゃあ、ビフテキ、あるかな?」
「ビフテキ?」
「そうそう、ビフテキ」
「うーん、ないですね。すみません」
「いや、ヒナが悪いわけじゃないよ。アイリッシュコーヒーが飲みたいな」
「じゃあ、それにしましょう」
「ありがとう」
「いえ、そんな」
「ヒナは?」
「えーと、あんまり、おなか減ってないんですけど……」
「無理して食うなよ」
「はい。じゃあ、僕はアイス・ティ」

 僕が手を挙げるとウェイタが器用に混雑した店内を縫うようにやってきた。
 笑顔で注文を取ると、また、器用に人間の海の中へと乗り出していった。
 熟練された動作が美しかった。用は慣れなのだろうな、と思った。

「さて、それにしても、賑やかな場所だな」
「ええ、そうですね」
「人がいっぱいいる」
「ええ、僕たちもその中の一部なわけですね」
「うん、ちょっと、不思議な感じがするな」
「そうですよね」

 ちょっとした、沈黙。

「僕、もしかしたら、死んだほうがいいのかな、とか思うんです」

 ヒナが急にそう言った。ここでそんなことは言うもんじゃないなんて言ったら台無しだろう。絶望的に言ってはいけない言葉だ。相談というのは僕が相手になにかを諭すわけではない。僕を反射鏡にして相手自身が自分の言葉の、思考の整理をつける行為だ。相手が話し出したものをいきなり否定するなど、はっきり言って相手に死ねと言っているようなものなのだ。おまえの言っていることは間違っていると叩きつけるのだからね、まあ、そういうわけだ。

 相手の言うことは受け入れる。それが、こういった場合の定石だ。まあ、程度によるのだけれど。深刻な場合ほどこの傾向は強い。それにそもそも、僕にはそんなことを言う権利などないのだ。ヒナの選択する生と死とに、僕は責任を持つことなどできない。

「それで、ヒナは死にたいの?」
「いえ、なんていうか、そういうんじゃないと思うんです」
「そっか」
「はい」
「それで、死ぬのか?」
「迷ってます」
「そっか」
「…………」
「なんで死にたいと思った?」
「いや、それは……」
「言えない?」
「言えません」
「わがままだなあ」
「すいません」
「いや、別にいいよ。問題ない」
「すいません」
「だけど、ヒナ。これで勝手に死んだら、恨むからな」
「え」
「理由がないならないと俺に教えてから死ねよ。じゃないと目覚めが悪い」
「なんて、わがままな……」
「そんなこと、知ってるだろう?」
「まあ、そうなんですけどね」
「ああ、なんか腹が減ってきたぞ。減らない?」
「さっきよりは」
「なんか食べる?」
「でも、まだ、さっき頼んだものきてませんよ?」
「む、」
「まあまあ、気長にいきましょう」

 僕はこのとき、ほっと一息ついた。

「それとも、時間、ありませんか?」
「いや、全然大丈夫」
「よかった……」
「うん。まあ、暇なんだよね」
「そうなんですか?」
「そう、たまに外に出ないとね、やっぱし。ヒナにも会いたかったし」
「僕も、心配だったんですよ」
「なにが?」
「いや、先輩が」
「なんで?」
「いや、それは……」
「冗談だよ。だから、ここ、だったんだろ?」
「はい」
「露骨だよな、ヒナ」
「すいませんでした。いやでしたか?」
「そういうわけじゃない、ただ、来るのは久しぶりだった」
「会うのも久しぶりでしたしね」
「そうだな」

 ざわざわと空間にはノイズがひしめいていた。懐かしい、と思う。
 それは、僕をこのままどこかへ連れ去ってしまうのではないかと感じた。
 目に飛び込む数々の色、肌を打つざわめき、人々の発する輝き。変化するもの。

 いつか、どこかで僕はこれを鮮烈に感じ、そして、暖かい幸せに満ち溢れていた。
 今頃になってから、あの一瞬一瞬がかけがいのなかったものだと理解できる。
 しかし、もう、戻れない。そこには戻れないのだ。

 僕は、前に進むしかないのだ。

「ヒナ」
「はい?」
「ヒナは死なないよ」
「…………」
「なんとなしにね、そんな気がするのさ」
「そうですか?」

 ヒナが笑った。

「それと、俺はヒナに死なないでほしいんだ」

 僕は苦笑して、ヒナに言った。
 ヒナはきょとんとして、俯いた。

「それ、誰にでも言うんですか?」
「いや、死なないでほしい人にしか言わない」
「僕以外の人に、その言葉を言ったことはありますか?」

 ヒナが顔を上げて、僕の目を見て、僕の向こう側に向かって、尋ねた。
 その表情を見て、格好良いなと思った。僕にはもう、ないものだった。
 指先と両腕から力が抜けていった。

「いや、ない」

 そう言ったとき、やっと、ウェイタがアイリッシュ・コーヒーとアイス・ティを運んできた。
 テーブルの上にはふたつのグラスが並び、その情景を見て、僕はどきっとした。
 顔を上げると、そこにいるのはヒナだった。

「すいません」
「別に、なにも悪いことはしてないさ」
「…………」

 ヒナは考え込むように、再び俯いた。

「先輩。また、会えますか?」
「会えるさ」
「明後日の今日と同じ時間に、また、会いたいんです」
「それは約束した時間か? 遅刻してきた時間か?」
「11時半に」
「もちろん、いいさ。また、30分遅刻してきたって良い」
「感謝します」
「どういたしまして」

 そこでヒナは立ち上がった。そして伝票を引き抜く。

「じゃあ、これで失礼します。今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ。ずいぶん、ご馳走になった」
「それは当然です」
「そういうものかな?」
「そうなんです」

 ヒナが「それでは」と言って立ち去ろうとしたとき、僕は最後に声をかけた。

「ヒナ」
「はい?」
「嘘、ついただろ?」
「誰にですか?」
「自分の胸に訊けばいい」

 ヒナは小首を傾げた。そして、言う。

「ついてません」
「わかった、明後日、楽しみにしている」
「ええ」
「変なこと言って、悪かった」
「いえ、気にしないで下さい」
「うん」

 僕が頷いて微笑むと、ヒナは一瞬迷い、ためらいがちに言った。

「けど、先輩。僕だって、どこかで誰かには嘘をつきますよ」

 それは、その通りだと思った。

「そうだな」
「そうですよ。先輩らしさ減少です」

 そう言って、ヒナは笑った。

「先輩、煙草、我慢していたんでしょう? 僕が吸わないから」
「ん? さあ、どうだっけ?」
「ここ、禁煙席ですし。驚きましたよ、先輩が禁煙席にいたとき」
「そう?」
「ええ、昔は、あの窓際の、比較的静かな隅の席に座ってましたよね」
「もう、忘れた」
「そうかもしれません」
「だよな」
「けど、先輩……」
「なんだ?」
「僕も、いまは煙草吸うんです」

 そう言って、ヒナは懐からシガレットケースを取り出して、僕に見せた。

「研究、頑張って下さい。偉大な先輩。そして、無理をしないで」

 そして、ヒナは去った。
 僕は何も言うことができずに、数分後、やっと右手で頭を抑えることができた。
 そして、あちこちに散らばってしまったものを、必死に両手でかき集めた。

 もう、すべては手遅れだった。

 僕は、グラスから氷を一個取り出すと、左の手のひらに乗せた。
 じんわりと氷が溶け出し、やがて水分は溢れ、零れ落ちた。
 僕はそれをじっと見つめ、ただ、それをじっと見つめた。

 なにも感じなかった。